彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

着見台

2006年12月03日 | 彦根城
彦根城の天守閣がある本丸の形を思い浮かべて見ると、天守閣から見て彦根駅の方面に奇妙に突き出た部分があります。
この突き出た部分は、到着の“着”を“見る”と書いて「着見台」と呼ばれていて、江戸時代にはここにお月見という字を書いて「月見櫓」と言われる二重櫓が建てられていました。

この月見櫓では、佐和山から出る月を眺める宴などが催されていたようですが、残念ながら明治時代初期に建物は取り壊されてしまったのです。
現在は、石垣がその跡を残すのみとなっていますが、その場所に立って景色を眺めると、彦根市内を始めとする広い範囲を見渡す事が出来ます。

彦根は、京都から中山道を通って東に向かう時も、北国街道を通って北陸に向かう時も必ず通る交通の要所だった為に、織田信長の時代には次席家老の丹羽長秀が佐和山城主に任命され、豊臣秀吉の時代には寵臣・石田三成が佐和山城を任されるなど常にその時の権力者が信頼する人物によって治められていたのです。
そして、その大きな役割は街道を通る人々の監視でした。
それは、徳川家の時代になっても変わらず、後に譜代大名筆頭と呼ばれるようになる井伊家に任されたのです。

つまり、彦根城の役割の一つには街道を往来する人々の監視は欠かせないものでした。こう考えると、着見台から広い範囲を見渡せるのは当然なのかもしれませんね。
ちなみに、ここでは、城門の佐和口と京橋口の監視もされていて、城の防備をより強く固めただけではなく、緊急の連絡を早く迎える為や、帰城する藩主の行列をいち早く発見して役人に伝える役目を担ったのです。

着見台は、合戦の時に敵軍の動きを見る役割もあった筈ですが、彦根城が合戦に巻き込まれる事が無かったので、本当の仕事はずっと無かったのかもしれませんね。

ちなみに、この着見台から見る中秋の名月はとても素晴らしいそうですよ。
コメント
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