現在の中山道にあるモニュメント
中山道は、古くから東海道の裏道という位置付けがされていて、古代から中世にかけてはこの道が通る国々を“東山道”として一纏りに分類されていました。
そして近世になって中山道と呼ばれるようになったのです。
1603年、徳川家康が江戸で幕府を開幕すると、街道の整備に重点を置くようになり、江戸を結ぶ東海道・甲州街道・日光街道・奥州街道そして中山道の五つの主要街道の整備を始めたのです。
その整備事業の一環が一里塚の設置でした。
さて、中山道という名前の由来ですが、「日本の中間の山道」という意味から来ています。その字は“中”の次に人偏に“山”と書く時(中仙道)と普通に“中”“山”と書く時(中山道)がありますが、基本的にどちらも間違いではありません、しかし、江戸幕府が1716年に人偏の無い山を使った文字(中山道)で統一したので、そちらの方が今の主流になっているようですね。
さて、ここで少し疑問になるのは、昔の旅行ってどんな感じだったんでしょう?
テレビなどを観ていると分ると思いますが、昔は殆んどが徒歩でした、体の弱い女性などが駕篭を使いましたが、駕篭もずっと乗っていて楽な物ではありません。
そして、東海道で江戸~京までなら普通の人でも1週間から10日は掛かったと言われています。
年末になると話題になる『忠臣蔵』で、松之廊下刃傷事件を伝える早駕篭が四日半で江戸から赤穂を走った事を強調しています。
赤穂は今の兵庫県にあるので、10日以上掛かる距離にあります、それを半分以下の時間で移動した事が凄いんです、それ程、重大な事だったと言うことを伝えるエピソードなんですが、今ではあまり伝わりませんよね…
話は戻ったのか戻らないのか分かりませんが、最初に中山道は東海道の裏道という風に書きましたが、それでも中山道は賑わっていました。
江戸時代の旅は危険が多く、山賊や宿場町での客引きが旅人達の悩みのタネだったのですが、その殆んどは東海道がメインになっていたので、中山道では比較的安全に旅をする事ができ、特に女性を含めた旅には適していたそうですよ。
特に当時の旅で一番お金が落ちたのは、宿屋が抱えている飯盛女でした(大人の男性が買うモノですね・・・当時は公的に認められていたものですから、こういう話も出てきます・汗)。
女性の旅人はそう言った商売の客にはならないので、宿としてもあまり歓迎したくない種類の客だったようです。
幕末には、皇女・和宮が14代将軍・徳川家茂に嫁ぐ時も中山道を利用されています。
さて、余談が長くなりました。が、今少し・・・
整備された街道には宿場町が発展していきます。
例えば、東海道で53次、中仙道で69次ある宿場町(中山道は板橋から守山の間に69の宿場町が置かれ草津で東海道と合流していた)を長くて10日で進むということは、一日で幾つかの街を通り過ぎると言う事になります。
そうなると、流行る宿場とそうではない宿場に分れる訳です。
では、宿場町を流行らせる為にはどうすれば良いのでしょうか? 現代の市町村運営でも同じ事をしていますが、町の名物を作る事なのです。
そんなしのぎを削った中山道の64次が鳥居本宿、65次が高宮宿でした。
鳥居本宿のお話は「摺針峠」のお話の時に、高宮宿のお話は「無賃橋」の時にそれぞれ登場していますし、鳥居本宿のお話はまた出てきますが、名物の話を書いてしまうなら・・・
鳥居本宿での名産は合羽で、今も本家合羽と書かれた古い木製看板を見ることができます。
合羽は京から雨の多い木曽路へ向かう時の必需品として販売されていたのです。
また万病に効能があるといわれる赤玉神教丸(あかだましんきょうがん)の製造販売を江戸時代から営む有川家も有名ですね。
高宮宿は以前にも何度か登場している高宮上布です。高宮宿は多賀大社の大鳥居が建っている事でも解かる通り、多賀大社の門前町として栄えた町で中山道の職場町でもその規模は2番目の大きさを誇っていました。
でも、鳥居本の地名の由来はその地に多賀大社の鳥居があった事に由来するそうですから、多賀大社の鳥居はどれだけ沢山あったのでしょうね?
中山道は、古くから東海道の裏道という位置付けがされていて、古代から中世にかけてはこの道が通る国々を“東山道”として一纏りに分類されていました。
そして近世になって中山道と呼ばれるようになったのです。
1603年、徳川家康が江戸で幕府を開幕すると、街道の整備に重点を置くようになり、江戸を結ぶ東海道・甲州街道・日光街道・奥州街道そして中山道の五つの主要街道の整備を始めたのです。
その整備事業の一環が一里塚の設置でした。
さて、中山道という名前の由来ですが、「日本の中間の山道」という意味から来ています。その字は“中”の次に人偏に“山”と書く時(中仙道)と普通に“中”“山”と書く時(中山道)がありますが、基本的にどちらも間違いではありません、しかし、江戸幕府が1716年に人偏の無い山を使った文字(中山道)で統一したので、そちらの方が今の主流になっているようですね。
さて、ここで少し疑問になるのは、昔の旅行ってどんな感じだったんでしょう?
テレビなどを観ていると分ると思いますが、昔は殆んどが徒歩でした、体の弱い女性などが駕篭を使いましたが、駕篭もずっと乗っていて楽な物ではありません。
そして、東海道で江戸~京までなら普通の人でも1週間から10日は掛かったと言われています。
年末になると話題になる『忠臣蔵』で、松之廊下刃傷事件を伝える早駕篭が四日半で江戸から赤穂を走った事を強調しています。
赤穂は今の兵庫県にあるので、10日以上掛かる距離にあります、それを半分以下の時間で移動した事が凄いんです、それ程、重大な事だったと言うことを伝えるエピソードなんですが、今ではあまり伝わりませんよね…
話は戻ったのか戻らないのか分かりませんが、最初に中山道は東海道の裏道という風に書きましたが、それでも中山道は賑わっていました。
江戸時代の旅は危険が多く、山賊や宿場町での客引きが旅人達の悩みのタネだったのですが、その殆んどは東海道がメインになっていたので、中山道では比較的安全に旅をする事ができ、特に女性を含めた旅には適していたそうですよ。
特に当時の旅で一番お金が落ちたのは、宿屋が抱えている飯盛女でした(大人の男性が買うモノですね・・・当時は公的に認められていたものですから、こういう話も出てきます・汗)。
女性の旅人はそう言った商売の客にはならないので、宿としてもあまり歓迎したくない種類の客だったようです。
幕末には、皇女・和宮が14代将軍・徳川家茂に嫁ぐ時も中山道を利用されています。
さて、余談が長くなりました。が、今少し・・・
整備された街道には宿場町が発展していきます。
例えば、東海道で53次、中仙道で69次ある宿場町(中山道は板橋から守山の間に69の宿場町が置かれ草津で東海道と合流していた)を長くて10日で進むということは、一日で幾つかの街を通り過ぎると言う事になります。
そうなると、流行る宿場とそうではない宿場に分れる訳です。
では、宿場町を流行らせる為にはどうすれば良いのでしょうか? 現代の市町村運営でも同じ事をしていますが、町の名物を作る事なのです。
そんなしのぎを削った中山道の64次が鳥居本宿、65次が高宮宿でした。
鳥居本宿のお話は「摺針峠」のお話の時に、高宮宿のお話は「無賃橋」の時にそれぞれ登場していますし、鳥居本宿のお話はまた出てきますが、名物の話を書いてしまうなら・・・
鳥居本宿での名産は合羽で、今も本家合羽と書かれた古い木製看板を見ることができます。
合羽は京から雨の多い木曽路へ向かう時の必需品として販売されていたのです。
また万病に効能があるといわれる赤玉神教丸(あかだましんきょうがん)の製造販売を江戸時代から営む有川家も有名ですね。
高宮宿は以前にも何度か登場している高宮上布です。高宮宿は多賀大社の大鳥居が建っている事でも解かる通り、多賀大社の門前町として栄えた町で中山道の職場町でもその規模は2番目の大きさを誇っていました。
でも、鳥居本の地名の由来はその地に多賀大社の鳥居があった事に由来するそうですから、多賀大社の鳥居はどれだけ沢山あったのでしょうね?