今回も『新収蔵の資料』から展示をご紹介します。
「岡見太郎右衛門・太郎介袖標」
(管理人の私見)
前回書きました青木秀好の写真と同じように戊辰戦争の頃の彦根藩士資料となります。
慶応4年(1868)2月21日、太政官代は討幕の為に従軍している士卒へ錦の肩印を下賜することを決め、これを官軍の合印としたのです。
岡見太郎右衛門・太郎介袖標にはそれぞれこの錦の肩印がありました。
展示では、太郎介の方は表の錦模様を見せ、太郎右衛門の方は裏に「彦藩士 岡見太郎右衛門正弘」と名前が書かれた部分を展示しています。
これは、盗難されないようにする為の処置ではないか?とのお話でした。
ちなみに官軍の間ではこの肩印を「錦の御旗の布れ」にちなみ「錦裂(きんぎれ)」と呼ばれ、江戸に入った後は徳川びいきの人々が官軍からこれを奪う「錦裂取り」が流行ったそうです。
さて、この錦の肩印の他に自分の名前を示した名札のようなものと、朱の角印を押印した布もあります。
この角印は「御印鑑」と呼ばれていて、錦の肩印と共に付ける事が義務付けられていました。これは、偽の錦の肩印を付ける偽官軍が現れたためにその対策として作られたもので、御印鑑の偽物を作ったことが発覚すればその場で処刑される決まりまであったのです。
この「御印鑑」には官軍の総督府によって違う物が用いられていました。
岡見家の例では、
太郎右衛門が「東山道総督印」
太郎介が「大総督府印」
を身に付けていますので、この二人は別の総督の管轄にあったことが示されますが、奥州の三春城攻略(無血開城)に彦根藩が参戦した時にこの二人は同じ軍にいましたので、もしかしたら官軍に中でも統括が混合していたのかもしれませんね。
ちなみに岡見太郎右衛門と太郎介は親子で、太郎右衛門が父親です。
また、太郎右衛門の方にもう一つ白い布が付いていますが、これはメモを一緒に纏めていたようです。
必ず使う大切な物にメモを付けておく…現代人も幕末維新の人も考える事は一緒のようですね。
「岡見太郎右衛門・太郎介袖標」
(管理人の私見)
前回書きました青木秀好の写真と同じように戊辰戦争の頃の彦根藩士資料となります。
慶応4年(1868)2月21日、太政官代は討幕の為に従軍している士卒へ錦の肩印を下賜することを決め、これを官軍の合印としたのです。
岡見太郎右衛門・太郎介袖標にはそれぞれこの錦の肩印がありました。
展示では、太郎介の方は表の錦模様を見せ、太郎右衛門の方は裏に「彦藩士 岡見太郎右衛門正弘」と名前が書かれた部分を展示しています。
これは、盗難されないようにする為の処置ではないか?とのお話でした。
ちなみに官軍の間ではこの肩印を「錦の御旗の布れ」にちなみ「錦裂(きんぎれ)」と呼ばれ、江戸に入った後は徳川びいきの人々が官軍からこれを奪う「錦裂取り」が流行ったそうです。
さて、この錦の肩印の他に自分の名前を示した名札のようなものと、朱の角印を押印した布もあります。
この角印は「御印鑑」と呼ばれていて、錦の肩印と共に付ける事が義務付けられていました。これは、偽の錦の肩印を付ける偽官軍が現れたためにその対策として作られたもので、御印鑑の偽物を作ったことが発覚すればその場で処刑される決まりまであったのです。
この「御印鑑」には官軍の総督府によって違う物が用いられていました。
岡見家の例では、
太郎右衛門が「東山道総督印」
太郎介が「大総督府印」
を身に付けていますので、この二人は別の総督の管轄にあったことが示されますが、奥州の三春城攻略(無血開城)に彦根藩が参戦した時にこの二人は同じ軍にいましたので、もしかしたら官軍に中でも統括が混合していたのかもしれませんね。
ちなみに岡見太郎右衛門と太郎介は親子で、太郎右衛門が父親です。
また、太郎右衛門の方にもう一つ白い布が付いていますが、これはメモを一緒に纏めていたようです。
必ず使う大切な物にメモを付けておく…現代人も幕末維新の人も考える事は一緒のようですね。