建武3年・延元元年(1336)12月21日、後醍醐天皇が幽閉先から逃走し吉野に朝廷を起こして南北朝時代が始まります。
鎌倉幕府を武士の協力で滅ぼした後醍醐天皇は、自らが政治を行う建武の新政を始めますが、これは一部の武士以外を軽視した貴族優先の政治だった為に、武士たちから反発を受け、その反発は足利尊氏の元で大きな反新政組織となったのです。
一旦は破れて九州に落ち延びた尊氏でしたが、やがて大軍を率いて京を目指し、その途中の湊川で楠木正成を破る戦果を挙げ上洛を果たしたのでした。
後醍醐天皇は延暦寺に逃れて戦いを続けますが、尊氏の講和に応じて天皇の証である三種の神器を光明天皇に譲り、花山院に幽閉されてしまったのです。
しかし、後醍醐天皇は花山院から脱出し吉野金峰山に入り光明天皇に渡した三種の神器が偽物であることを宣言してここに正当と称する朝廷を興し、京の北朝・吉野の南朝が両立する南北朝時代が始まったのでした。
この頃、井伊家は遠江国の井伊谷に誕生してから300年近くが過ぎていて大きな勢力になりつつありました。
それは当時の国守の中で特に全国に知られた八家の中に「井伊介」として井伊家が入っていたことでもうかがい知ることができます。
この時の当主は井伊道政という名前だったとも言われています。
そんな井伊谷は、南朝の皇室領に含まれていたので自然と南朝方に味方するようになったのです。
当時の記録などでは井伊家の武将で「井(伊)八郎」という人物が居たことから、これが道政とも言われているのですよ。
延元2年(1337)7月、当初は出家していた後醍醐天皇の第二皇子・宗良親王(南朝の初代征夷大将軍)は還俗して弟の義良親王(後村上天皇)と共に伊勢から陸奥に向かう途中で船が座礁し、宗良親王は井伊谷に逃れてここで挙兵したのです。
この時に、道政の娘・重子と宗良親王の間に尹良親王が生まれたとの伝承があり、この尹良親王は後に南朝から源姓を与えられて父に引き続き第二代征夷大将軍に任命されますが戦に敗れて自害することとなります。
もし尹良親王が後継ぎを残して南朝がこの争乱に勝っていたなら、天皇家に井伊家の血が入っていたかもしれないのです、そう考えると壮大な話ですよね。
さて時間を宗良親王挙兵の頃に戻しますと…
井伊道政は、南朝方として息子の高顕と共に奮戦しますが敗れてしまい、宗良親王は井伊谷を逃れて北陸を中心に関東・甲信越まで転戦します。が、北朝方は強く再び井伊谷に籠り3年間井伊谷で過ごした後の元中2年(1385)8月に亡くなったといわれています(諸説があり確定していません)
時代は流れ明治元年11月29日
第十四代彦根藩主の井伊直憲は、明治政府に対し井伊谷の宗良親王の墳墓を修繕し新たに社殿を建立することを願います。
これは明治政府から許され、明治5年2月に井伊谷宮が創建されたのでした。
こうして、井伊家は南北朝以来の勤皇の精神を伝え続けたのです。
鎌倉幕府を武士の協力で滅ぼした後醍醐天皇は、自らが政治を行う建武の新政を始めますが、これは一部の武士以外を軽視した貴族優先の政治だった為に、武士たちから反発を受け、その反発は足利尊氏の元で大きな反新政組織となったのです。
一旦は破れて九州に落ち延びた尊氏でしたが、やがて大軍を率いて京を目指し、その途中の湊川で楠木正成を破る戦果を挙げ上洛を果たしたのでした。
後醍醐天皇は延暦寺に逃れて戦いを続けますが、尊氏の講和に応じて天皇の証である三種の神器を光明天皇に譲り、花山院に幽閉されてしまったのです。
しかし、後醍醐天皇は花山院から脱出し吉野金峰山に入り光明天皇に渡した三種の神器が偽物であることを宣言してここに正当と称する朝廷を興し、京の北朝・吉野の南朝が両立する南北朝時代が始まったのでした。
この頃、井伊家は遠江国の井伊谷に誕生してから300年近くが過ぎていて大きな勢力になりつつありました。
それは当時の国守の中で特に全国に知られた八家の中に「井伊介」として井伊家が入っていたことでもうかがい知ることができます。
この時の当主は井伊道政という名前だったとも言われています。
そんな井伊谷は、南朝の皇室領に含まれていたので自然と南朝方に味方するようになったのです。
当時の記録などでは井伊家の武将で「井(伊)八郎」という人物が居たことから、これが道政とも言われているのですよ。
延元2年(1337)7月、当初は出家していた後醍醐天皇の第二皇子・宗良親王(南朝の初代征夷大将軍)は還俗して弟の義良親王(後村上天皇)と共に伊勢から陸奥に向かう途中で船が座礁し、宗良親王は井伊谷に逃れてここで挙兵したのです。
この時に、道政の娘・重子と宗良親王の間に尹良親王が生まれたとの伝承があり、この尹良親王は後に南朝から源姓を与えられて父に引き続き第二代征夷大将軍に任命されますが戦に敗れて自害することとなります。
もし尹良親王が後継ぎを残して南朝がこの争乱に勝っていたなら、天皇家に井伊家の血が入っていたかもしれないのです、そう考えると壮大な話ですよね。
さて時間を宗良親王挙兵の頃に戻しますと…
井伊道政は、南朝方として息子の高顕と共に奮戦しますが敗れてしまい、宗良親王は井伊谷を逃れて北陸を中心に関東・甲信越まで転戦します。が、北朝方は強く再び井伊谷に籠り3年間井伊谷で過ごした後の元中2年(1385)8月に亡くなったといわれています(諸説があり確定していません)
時代は流れ明治元年11月29日
第十四代彦根藩主の井伊直憲は、明治政府に対し井伊谷の宗良親王の墳墓を修繕し新たに社殿を建立することを願います。
これは明治政府から許され、明治5年2月に井伊谷宮が創建されたのでした。
こうして、井伊家は南北朝以来の勤皇の精神を伝え続けたのです。