彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『新収蔵の資料』 慶雲院屋敷図

2008年12月14日 | 博物館展示
今回も『新収蔵の資料』からご紹介します。

「慶雲院屋敷図」
今回の展示で管理人が一番興味を持ったのはこの屋敷図かもしれません。
慶雲院は彦根藩四代藩主井伊直興の娘で鉄姫(かねひめ)という名でした。


鉄姫は4歳の時に井伊家筆頭家老木俣家の男子と婚約するのですが、その婚約者が早世したために婚約者の従兄弟でだった守嘉に嫁ぐこととなったのです。
木俣守嘉は現在「旧近江高校跡地」として彦根城内で臨時の駐車場として使われている大手門前の空き地の半分を屋敷として与えられ、木俣家とは別の千石の知行を与えられて家を興しました。
木俣家の記録によると、この家は「井伊」姓を称し、家紋は井伊橘のアレンジ版、守嘉が鉄姫の婿として井伊家一門に列した形になったと記されているそうです。
こうして井伊家一門の待遇を与えられた姫は、この鉄姫しかいませんでした。それは当時の井伊家では男子の早世が多く、いざという時に井伊家を継げる一族を残すための緊急処置だったとの考え方もあるようです。(『広報ひこね』2008年12月1日号6ページより)


夫の井伊(木俣)守嘉よりも慶雲院の屋敷図との命名をされただけでも、この屋敷の主を示していそうな気もしますが、決してそれだけで付けられた名前ではありません。
絵図は2色に分けられて描かれていますが、向って右下を中心に描かれた狭い方が木俣家の屋敷で残りの広い方が慶雲院の屋敷だったのです。
慶雲院の死後、この屋敷は2つに仕切られ、木俣家の屋敷はそのまま木俣家所有となり慶雲院の屋敷は彦根藩に戻された後に他の藩士の屋敷として下げ渡されたのでした。

ちなみに井伊家を残すための処置として井伊家一門に組み込まれた鉄姫と守嘉には嘉久治守次(後に鉄之助・直寛)という名の男の子が誕生しました。
この子は享保17年に井伊家分家の与板藩主で従兄弟になる井伊直陽の養子として迎えられ、直員と名を改めて与板井伊家を継いだのですが2年半弱の在位で20歳で没してしまったのです。
コメント
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