今回の展示で管理人が個人的に一番うれしかったのは、この絵に出会えた事かも知れません。
「張子和図」
張志和という仙人を描いた絵です。
仙人は不老長寿の象徴としてよく描かれるお目出度い図柄の一つですが、この張志和という仙人は水の上に敷き物を敷いて座し、その上を鶴が旋回してやがて天に昇る図柄です。
鶴は、亀と違い飛べることから好まれて描かれていたようですね。
さて管理人は別に張志和に信仰がある訳ではありません、問題はこれを描いた人物です。
絵の右上に“直恒 筆”と書かれています。
直恒とは、彦根藩六代藩主・井伊直恒です。
何者?と思われる方の為に少し説明するなら…
“井伊直恒”
井伊直興の十男
兄で五代藩主でもある井伊直通は自分が病弱だった事を憂いて、自分に何かあった時は弟の主計頭(直恒)を次の藩主に据えるように言っていました。
しかし、そんな事は杞憂に過ぎないと家臣は当然の事、直恒もそう信じていたに違いありません。
ましてや、江戸生まれで江戸で育った直恒に彦根の責任を負う事は夢にも思わなかった事でしょう。
しかし、直通の不吉な憂いから4ヵ月後の宝永7年7月25日に直通は22歳で亡くなったのです。
こうして同年閏8月12日に直恒の藩主相続が幕府から許されたのです。
しかし10月5日、直恒は彦根藩主でありながら一度も彦根城を見る事もなく18歳で亡くなります。
直恒の藩主在任期間は約50日、 後継ぎを弟の直惟に定めますが幼少であったために父の直興が再び藩主に就任するという異例の処置がとられたのです。
こうして直恒の人生は、突然の藩主就任から突然の死と何もかもがあっと言う間に過ぎてしまい、その人柄も知られないままに彦根藩の中で最も期間が短かった藩主としてのみ歴史に名が残ったのです。
たったこれだけです。
あとは精々どんな官位を与えられたかの記録くらいしかないと思っていました。
それがこの絵に直恒の名が記されているのです。
これ以外にも数点はあるようですが、絵を見る限りではプロとまではいかなくてもセミプロに近い腕はあった様に思えるとの事でした。
また署名の字を簡単な筆跡診断で見てみると…
「精神的にはとても安定していて論理性が高く生真面目だった」と思えます。
藩主就任の話も無い頃に狩野派で学んだ絵だと思うのですが、管理人としてはメール友に初めて対面した時と同じような感激がありました。
本来なら好きな絵を楽しんで、文化人として名を残したかもしれないのに、藩主の重責からか?(管理人は別の説を主張しますが…)たった18年の人生を終えた青年の数少ない生きた証をご覧になってはいかがですか?
(今回は署名を見てほしいので大きいサイズで写真を掲載しました)
「張子和図」
張志和という仙人を描いた絵です。
仙人は不老長寿の象徴としてよく描かれるお目出度い図柄の一つですが、この張志和という仙人は水の上に敷き物を敷いて座し、その上を鶴が旋回してやがて天に昇る図柄です。
鶴は、亀と違い飛べることから好まれて描かれていたようですね。
さて管理人は別に張志和に信仰がある訳ではありません、問題はこれを描いた人物です。
絵の右上に“直恒 筆”と書かれています。
直恒とは、彦根藩六代藩主・井伊直恒です。
何者?と思われる方の為に少し説明するなら…
“井伊直恒”
井伊直興の十男
兄で五代藩主でもある井伊直通は自分が病弱だった事を憂いて、自分に何かあった時は弟の主計頭(直恒)を次の藩主に据えるように言っていました。
しかし、そんな事は杞憂に過ぎないと家臣は当然の事、直恒もそう信じていたに違いありません。
ましてや、江戸生まれで江戸で育った直恒に彦根の責任を負う事は夢にも思わなかった事でしょう。
しかし、直通の不吉な憂いから4ヵ月後の宝永7年7月25日に直通は22歳で亡くなったのです。
こうして同年閏8月12日に直恒の藩主相続が幕府から許されたのです。
しかし10月5日、直恒は彦根藩主でありながら一度も彦根城を見る事もなく18歳で亡くなります。
直恒の藩主在任期間は約50日、 後継ぎを弟の直惟に定めますが幼少であったために父の直興が再び藩主に就任するという異例の処置がとられたのです。
こうして直恒の人生は、突然の藩主就任から突然の死と何もかもがあっと言う間に過ぎてしまい、その人柄も知られないままに彦根藩の中で最も期間が短かった藩主としてのみ歴史に名が残ったのです。
たったこれだけです。
あとは精々どんな官位を与えられたかの記録くらいしかないと思っていました。
それがこの絵に直恒の名が記されているのです。
これ以外にも数点はあるようですが、絵を見る限りではプロとまではいかなくてもセミプロに近い腕はあった様に思えるとの事でした。
また署名の字を簡単な筆跡診断で見てみると…
「精神的にはとても安定していて論理性が高く生真面目だった」と思えます。
藩主就任の話も無い頃に狩野派で学んだ絵だと思うのですが、管理人としてはメール友に初めて対面した時と同じような感激がありました。
本来なら好きな絵を楽しんで、文化人として名を残したかもしれないのに、藩主の重責からか?(管理人は別の説を主張しますが…)たった18年の人生を終えた青年の数少ない生きた証をご覧になってはいかがですか?
(今回は署名を見てほしいので大きいサイズで写真を掲載しました)