彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

6月23日、寛和の変

2011年06月23日 | 何の日?
今回は、滋賀にも井伊家にも全く関係ないお話です。
でも平安時代の政治史に大きな影響があり、摂政関白というこの先の歴史に大きな意味をなす官位のキーポイントですので、ご紹介します。


寛和2年(986)6月23日、花山天皇が突然退位し出家する政変・寛和の変が起こりました。

事件の発端は花山天皇が寵愛していた藤原忯子という女御が妊娠中に急死したため(寛和元年7月18日)、気落ちしたためと言われていますが、別説では右大臣藤原兼家(道長の父)が、孫である懐仁親王に早く皇位を継がせて天皇の外戚として権力を独占しようとしたための策略ともいわれています。

花山天皇はこの時まだ19歳でした。
当時の天皇は、多かれ少なかれ母親の実家に影響を与えていて、ほぼ常識的に外戚の権力者が大臣職を務めるのが不文律になっていたのです。
しかし花山天皇が即位した時には、外戚の実力者になりえた筈の藤原伊尹が亡くなっていて、その息子の義懐もまだ高い地位に就いていなかったために、図らずも天皇親政に近い状態が出来上がったのです。この時、花山天皇が考えたのが実力者藤原氏の権力縮小でした。

自らの乳兄弟である藤原惟成(結局藤原氏…)を協力者にして、権力者の力の根本である荘園を取り締まる荘園整理令の改正(荘園整理令は何度も発布されているが、効果がないままだった)などを行ったのです。

これに対して、反発したのが右大臣藤原兼家らでした。
多くの政治改革を志しながらも後ろ盾の少なさと、有力貴族たちの反発で思うような成果が上がらなかった花山天皇に近付いたのは、兼家の三男道兼でした。道兼は蔵人として天皇の近くにいて、三男という立場から父や兄(道隆)に反発しているような姿を見せていたのです。
愛妾を失って悲しんでいた花山天皇に対し、仏の教えを説いて心が弱くなっている花山天皇に出家を勧めたのです。
花山天皇はすっかりその気になります。そして道兼は「自分も一緒に出家するから」と言い花山天皇の信頼を得ました。


寛和2年6月23日時刻は丑の刻(午前3時前後)、道兼は花山天皇をこっそりと内裏から連れ出しました。よくよく考えれば、この時点で天皇が簡単に内裏から出られること自体が既に権力者の手が回っていたとしか思えません。
山科の元慶寺(花山寺)に着いた花山天皇は、そのまま剃髪してしまいます。この時点で退位との扱いになったのです。花山天皇に続いて藤原道兼が剃髪すると思われたのですが、道兼は「このまま父に挨拶もしないまま出家すれば不幸となります。まずは父に挨拶をしてまいります」と言って、寺を出てしまったのです。
この間に兼家は清涼殿に入って、天皇の証である三種の神器を押さえ、懐仁親王に届け親王は7歳にして即位し一条天皇と呼ばれる人物となります。

ここまできて騙されたと知った花山法皇(出家したので法皇となる)ですが、どうすることもできず、天皇不在を知って慌てた藤原惟成でしたが、すでに出家していたことを知り、同じく出家するのです。
一条天皇即位に伴って、花山天皇の側近は職を追われる形となり、藤原兼家は右大臣を辞して摂政に就任しました。

大臣を兼務しない摂政・関白は兼家が初めてとなり、本来ならば令外の官である臨時職の摂政が実務的に権力の証となった瞬間となったのです。
こののち、摂政や関白の意味合いが大きく変わる意味で、寛和の変は歴史的意味が深い事件だったのです。
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