彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

6月14日、新島八重死去

2011年06月14日 | 何の日?
昭和7年(1932)6月14日、新島八重が病没しました。享年86歳
二日前に偶然にも、2013年の大河ドラマの主人公が新島八重と発表されました。


新島八重とは何者か?

聞いただけで「あー、同志社の…」という人は結構明治史か教育史のマニアですね。
そして「あー、会津の…」という人は幕末マニア」です。
これ以外にも、西洋式結婚式や看護活動などのイメージもあるかもしれませんが、基本的に前半生は会津戦争、後半生は同志社と赤十字で表現される女性ですね。


八重は会津藩士の家に生まれました。
兄には会津戦争で砲術を駆使して戦った山本覚馬がいます。
会津戦争の悲劇の一つに白虎隊と並んで、女性たちが戦って殺されたり捕えられて官軍に弄ばれた話が最近になってやっと出てくるようになりましたが、これらの例でもあるように女性も武器を手にして戦ったのです。
そんな中で男装して戦場を駆けまわったのが八重でした。そのことから後年には“幕末のジャンヌダルク”と呼ばれるようになります。


戦後、新島襄と出会います。
そして日本人同士のキリスト式結婚式という今では当たり前のようなイベントを行った人物でもありました。
新島襄は、アメリカに密航したほどの人物でもあり西洋の文化に精通していて、その影響を受けた八重も西洋の文化を重んじました。
そのなかでレディーファーストという風習が、日本人には奇異に見え、夫よりも先に席に座ったり人力車に乗る姿が会津戦争での活躍と重なって、夫を下僕のように扱う悪女と評されたのです。
また同志社大学の前身となる同志社英学校を開校した後に、会津人のどうしようもない想いから薩長出身の学生にキツク当ってしまうところがあり、学生だった徳富蘇峰に「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺のような女性がいる」と批判されました。


明治23年(1890)1月23日、新島襄死去。この時に八重と徳富蘇峰は和解したといわれています。
こののち、同志社とは距離を置き茶道に没頭した八重は、宗竹との号で裏千家に貢献しました。また明治24年に日本赤十字社の正社員となり日清日露戦争では看護師としても活躍するのです。

そして昭和7年、急性肺炎で亡くなりました。



余談ですが、大河ドラマ50周年で『花の生涯』リメイクを推進していた管理人としては残念でもありますが、『天地人』が新潟中越地震の復興支援だったように、福島県の復興支援であると考えると納得できる抜擢ですね。

新島八重の人生に関わる大きなキーワード
・会津戦争
・同志社英学校(同志社大学)
・日本赤十字社
ただ戦っただけの人物ではなく、教え助けた人が福島県出身だった。
こう考えると、この時に納得のいく人選かも知れませんね。
コメント
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