大河ドラマ『平清盛』に絡んで、今回はこんなお話。
寿永3年(1184)2月7日、源義経が一ノ谷の戦いで平家に勝利を収めました。
元々は木曽義仲の都入りから逃れるために西国に下っていた平家でしたが、義仲が源頼朝との戦いに集中している隙に讃岐(香川県)の屋島まで勢力を戻し、そして大輪田泊(神戸)や福原まで迫っていたのでした。
その頃になり、源義経によって義仲が討たれ、再び源平が戦うことになったのです。
平家は平知盛の指揮の元で、福原から都側(東)の生田に主要部隊を置いて、源氏の襲来に備えたのです。ここは義経の兄の源範頼が正攻法で攻めることになっていました。
生田とは逆に一ノ谷側(西)は平家の勢力かであり、兵は配置していたものの油断があったのは否めないのです。
また、平家の当主である平宗盛が海上にいたことで、平家の士気が低かったのです。
2月6日、後白河法皇は平家に使者を送り和平勧告を行います。知盛はこれを了承し源氏が攻めてこないと確信したのです。
しかし7日の夜明け頃に範頼が生田口で矢を放ち開戦。平家は地の利を活かして防いでいたのです。
そんな時に、義経が一ノ谷の背後から駆け下ったのです。ここはきつい崖で、兵が下れるところではないと平家方が兵を置かなかったのですが、義経は鵯越とよばれるこの崖を鹿が下って行くのを見て「鹿が下れるなら同じ四足の馬が下れないはずがない」といって駆け下ったとされています。
しかし、この時の馬が今の道産子のように足が短くて小柄だったために安定感があり下ることに成功しましたが、時代劇にでてくるようなサラブレットならば失敗したであろうといわれています。
何がともあれ、これで源氏が優勢となり、平家は海に逃れて行きます。
この時に、敦盛が熊谷直実に討たれる逸話や、忠度戦死、そして重衡が捕えられた逸話などが伝わっています。平家にとっては一門の多くを失った戦いであり、実は壇ノ浦以前に一ノ谷でほとんど滅亡段階に在ったのです。
寿永3年(1184)2月7日、源義経が一ノ谷の戦いで平家に勝利を収めました。
元々は木曽義仲の都入りから逃れるために西国に下っていた平家でしたが、義仲が源頼朝との戦いに集中している隙に讃岐(香川県)の屋島まで勢力を戻し、そして大輪田泊(神戸)や福原まで迫っていたのでした。
その頃になり、源義経によって義仲が討たれ、再び源平が戦うことになったのです。
平家は平知盛の指揮の元で、福原から都側(東)の生田に主要部隊を置いて、源氏の襲来に備えたのです。ここは義経の兄の源範頼が正攻法で攻めることになっていました。
生田とは逆に一ノ谷側(西)は平家の勢力かであり、兵は配置していたものの油断があったのは否めないのです。
また、平家の当主である平宗盛が海上にいたことで、平家の士気が低かったのです。
2月6日、後白河法皇は平家に使者を送り和平勧告を行います。知盛はこれを了承し源氏が攻めてこないと確信したのです。
しかし7日の夜明け頃に範頼が生田口で矢を放ち開戦。平家は地の利を活かして防いでいたのです。
そんな時に、義経が一ノ谷の背後から駆け下ったのです。ここはきつい崖で、兵が下れるところではないと平家方が兵を置かなかったのですが、義経は鵯越とよばれるこの崖を鹿が下って行くのを見て「鹿が下れるなら同じ四足の馬が下れないはずがない」といって駆け下ったとされています。
しかし、この時の馬が今の道産子のように足が短くて小柄だったために安定感があり下ることに成功しましたが、時代劇にでてくるようなサラブレットならば失敗したであろうといわれています。
何がともあれ、これで源氏が優勢となり、平家は海に逃れて行きます。
この時に、敦盛が熊谷直実に討たれる逸話や、忠度戦死、そして重衡が捕えられた逸話などが伝わっています。平家にとっては一門の多くを失った戦いであり、実は壇ノ浦以前に一ノ谷でほとんど滅亡段階に在ったのです。