彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

2月19日。屋島の戦い

2012年02月19日 | 何の日?
寿永4年(1185)2月19日、屋島の戦いが起こりました。

2月7日に一ノ谷の戦いについて書きましたし、平家滅亡の物語として一ノ谷→屋島→壇ノ浦は一連の流れて表されることが多いので、一ノ谷で海上に逃げて対岸になる屋島に陣を構えた平家を、源義経が追いかけてそのまま奇襲したというイメージがありますが、実はこの間に丸々一年の期間が空いています。


一ノ谷の戦いの後で、義経は京に戻って、範頼は鎌倉まで戻っています。後白河法皇が義経に京都の治安警護を命じたのです。
この間に範頼が再び西国へと出陣するのですが、平家との戦いに敗れ、その他の中国地方に派遣された源氏の軍勢も平家の攻撃にさらされるようになったのです。
こうして、一旦は平家との戦いから離れていた義経が再び軍勢を任され、今度は範頼が居ない総大将となったのです。

義経は、屋島を海側から攻める戦いではなく、阿波に上陸して讃岐まで馬を駆けさせ、海側を警戒している平家の裏をかいて陸地側である背後からの奇襲を立案します。
しかし、一ノ谷での背後攻撃を行った義経の策を警戒しないわけがなく、もう一つの工夫が必要になったのです。それが天気でした。

2月18日深夜2時、暴風雨の中を義経は摂津の港から阿波に向かって出航します。天気の良い日なら3日間の航海が風によって4時間で到着したとされています。
ここから馬を走らせて19日に屋島の陣を奇襲したのです。

前方からの攻撃防御に集中していた平家は驚いて船に乗り込み海上に逃げたのですが、海上で改めて屋島を見ると義経が連れてきていた軍勢が少数であることを知ったのです。
ここから平家の逆襲が始まり、船から陸に向かって矢が射かけられます。源氏も応戦しますが、その最中に義経が海に弓を落としてしまったのです。
伝承では、義経が使っていた弓は小さい物だったそうで、その弓を敵に拾われて「総大将は何とひ弱なことよ」と笑われることを恐れた義経は、馬を海に乗り入れて弓を拾おうとしたのです。

これをチャンスとみた平教経は、義経に向かって矢を放ちました。しかしその矢を受けたのは義経四天王の一人の佐藤継信だったのです。
 
義経の代わりとなって継信は命を落とし、そんな教経の手柄首を確保しようとした教経に仕える童の菊王丸が、今度は継信の弟である忠信に討たれたのです。


このような激し戦だったのですが、夕方にはだんだん落ち着きつつありました。
この静けさの中を、平家の船から先に扇を竿の先に立てて、その傍らに美女が立った小舟が一艘出てきました。
これは平家方から、この扇を射てみろとの挑発だったのです。
ここで那須与一が弓の名手として義経に進言があり、義経自ら与一に扇を射るように命じたのでした。

与一は失敗すれば死を覚悟する気持ちで、故郷の八幡大菩薩に祈りをささげ、

馬に乗ったまま馬の脚を大石に踏ん張らせて弓を構えたのです。

そして矢を放つと、見事に扇に命中し海に舞落ちます。

これを見た両軍の兵たちは驚き与一を称えます。そして平家の武将が扇のあった船に乗って舞を踊ったのですが、義経はこれを見て再び与一にその武将を射るように命じ、与一が射殺したのです。
激怒した平家が再び矢戦を仕掛けますが夜がきて休戦。こののちも何度か上陸を試みて失敗し、屋島の戦いは平家が壇ノ浦に向かうことによって終焉します。
コメント
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