彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

犬上郡と犬上君

2006年11月08日 | 井伊家以外の人物伝
国宝彦根城築城400年祭の言葉の通り、2007年は彦根城天守が完成して400年を迎えます。

彦根城を中心にした地域は彦根駅や市役所などがあり、今でも彦根市の中心地となっています。
では、その前は? と訊ねられると、石田三成の佐和山城という答えが返って来るのでは無いのでしょうか?
そこまでは、彦根の歴史を簡単に遡れるのですが、その時より過去の事となると案外知られていないものです。

しかし、彦根を含む近江国(滋賀県)は、京の都に近い要所として古くから歴史を育んできた土地だったのです。
701年、大宝律令の成立で、現在の滋賀県と同じ地域が近江国に定められ、近江国は12の郡に分けられたのです。
現在の彦根市とその周辺を含む地域は犬上郡と呼ばれ、犬上君(いぬかみのきみ)という豪族によって治められて居たのでした。
この犬上君をモデルにした話として手塚治虫の『火の鳥・太陽編』が有名ですね。さて、この犬上君一族の中には第1回遣唐使大使となった犬上御田鍬や高句麗に派遣された犬上君白麻呂など、中央の外交や行政に力を尽くした人物を多く排出しています。

そんな犬上君が治めた犬上郡は神戸・田可・沼波・高宮・尼子・甲良・安食・清水・竇田・青根・駅家の11の郷に分かれて居たのでした。
国司がある国府から郡の直接支配を委任される形になるのが郡家ですが、犬上郡家は、この郡の中心地であった河瀬周辺という説や、南彦根駅の西側にある竹ヶ鼻遺跡だったという説、犬上郡豊郷町に残る犬上君屋敷公園がその跡地だとも言われていてハッキリしていません。

ちなみに、犬上という地名の由来は、犬上君が愛犬に命を救われて、その犬を忠犬として祀った事に始まるそうですよ。
犬上君の末裔は、中世末期には大神主河瀬氏として多賀大社の社務の実権を握った事もあり、戦国期には河瀬氏と称して河瀬城を居城とし、河瀬大和守秀宗は甘呂城城主も勤めています。

彦根カルタには「その昔 郡家があった 河瀬の地」と言うモノがありますが、こう言った犬上君の子孫と河瀬地区の経緯を見ると、河瀬の地に郡家があった可能性もあるかも知れませんね。

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