今回、神戸氏に関連する城跡を巡ることがメインとなりました。
城の身分のある女性が書いたのかもしれないですね。
最初に寄った城跡は沢城です。
神戸氏は、桓武平氏に繋がる関氏から分かれた家で、関盛澄により南北朝時代の正平22年(1367)に築かれた城と言われています。この盛澄が神戸氏を称するようになりました。
戦国時代に入り、盛澄の子孫神戸利盛が近くの神戸城に移る天文19年(1550)まで約200年間神戸氏の居城だったのです。
神戸城については次に紹介しますが、利盛の跡を継いだ弟・具盛(友盛)は、それまで対立していた蒲生定秀の娘を妻に迎えてるなど融和政策で所領を守ろうとし、その過程で伊勢侵攻中の織田信長の三男信孝を養子に迎えますが、具盛と信孝の仲が悪くなり、信長の命で義弟蒲生賢秀に預けられ日野城で幽閉され家督を信孝に譲った形になります。
本能寺の変の前に具盛は許され、沢城で隠居したのです。
賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉が信孝を切腹させたのち、具盛は姉婿織田信包(信長の弟)を頼り安濃津に隠棲し、沢城は廃城になったと言われています。
沢城は、今は本丸跡に石碑と案内板が残るくらいです。
周りには田が広がっているので、沢城の名はそんな地形から付けられたのかも知れません。
本丸跡は、田より少し高い位置にあることから、城造りに合った地形だったのだと思います。
先に訪れた鈴鹿市考古博物館には、沢城跡から発掘された平仮名で「むめかく」と書かれた器が見つかっています。
城の身分のある女性が書いたのかもしれないですね。