平家越えは、富士川の戦いで平家軍が陣を置いた場所ともいわれています。
源頼朝が挙兵し鎌倉に入ると、反乱の芽を摘む為に平家が東に向けて軍を発しました。
富士川の戦いで平家軍の大将を務めたのは平維盛。
平清盛の嫡男として期待されながら若くして亡くなった平重盛の嫡男です。
本来なら清盛の嫡孫として中央政界で育つ立場なのですが、重盛死後は平家の中でも微妙な立場になっていたのです。
そんな維盛でも容易に勝てるであろう軍勢を引き連れての東進でした。
治承4年(1180)10月20日、富士川を挟んで対峙した維盛と源頼朝。
大軍を率いていた筈の維盛でしたが、平家軍の補給不備と源氏軍の勢いの強さで兵力が逆転していて平家軍の士気が下がっていました。
翌朝からの決戦と思われていたのですが、20日夜のうちに平家軍が陣から消えていたのです。
一説には、水鳥の羽音を源氏軍の夜襲と勘違いして平家軍が逃げたと言われています。
ちなみに当時の鎧の音を「ビビ」と表していて、水鳥の羽音を鎧の音に勘違いして逃げた平家の武士たちを揶揄した言葉として、小心者のことを「ビビり」と言うようになったとの説があります。
ビビりは、平安時代からの言葉と言うことですね。
そんなビビり語源の地とも言えるのが富士川の戦い古戦場なのです。