第二寝屋川の南、八尾市幸町の木村公園内に木村重成の墓がありますが、北の東大阪市若江東の若江南墓地内に山口伊豆守重信の墓があります。
所在地の市が違うために遠くに感じますが、第二寝屋川を挟んですぐの場所にあり近くに橋も架かっていますので、普通に歩けば2分くらいで移動できる距離です。
それから100年以上が過ぎて作られた木村重成の墓は、重成が美男子だったこともありお参りする人が多くいましたが、川を挟んだ重信の墓に参る人は少なく、墓石を支える石亀が鳴いたとの伝承も残っています。
所在地の市が違うために遠くに感じますが、第二寝屋川を挟んですぐの場所にあり近くに橋も架かっていますので、普通に歩けば2分くらいで移動できる距離です。
山口重信は、徳川家康に仕えていて常陸牛久1万石を封じられていましたが、大久保忠隣の養女を正室に迎えようとした時に不備があり慶長18年(1613)に改易になりました。
旧領回復のために、大坂冬の陣に出ようとしたら箱根の関で足止めされてしまい、井伊直孝軍に陣借し手柄を立てるために先鋒を望んだのです。
まだ26歳の若武者であった信重は、先陣を争い獅子奮迅の働きをみせて、木村重成軍の飯島三郎右衛門ら5騎を討ちますが自身も討死してしまいました。
若江の戦いには、重信の父重政と叔父重克も参陣していて、重克も討死します。
13年後に重政が牛久1万5千石で再興。
重信の33回忌の正保4年(1647)に、重信の弟弘隆(牛久藩二代藩主)が兄の討死の地に墓を建立したのです。
林羅山の文章、石川丈山の文字で作られた墓碑から考えても山口重信の活躍が凄かったことが窺えるますし、4.5mと言われている大きな墓石は迫力があります。
それから100年以上が過ぎて作られた木村重成の墓は、重成が美男子だったこともありお参りする人が多くいましたが、川を挟んだ重信の墓に参る人は少なく、墓石を支える石亀が鳴いたとの伝承も残っています。
余談ですが、木村重成の妹婿で重成の墓の隣に墓がある山口左馬介弘定と山口伊豆守重信は、どちらも山口の大内氏の子孫とも言われていて、大内氏が使った「弘」の通字を使う人物が多いとも言われています。
その二人が敵味方に分かれて、川を挟んだ地に墓が建立されているのも面白いです。