彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:吉田東洋暗殺(4月8日)

2012年04月08日 | 何の日?
文久2年(1862)4月8日、吉田東洋が暗殺殺れました。

吉田東洋は、土佐藩の参政(筆頭家老のような立場)を務めていた人物で、この時の土佐藩では大きな権力を持っていました。
元々血の気が多い人物だったようで、嘉永6年(1853)に、江戸土佐藩邸で旗本の松下嘉兵衛を酒の席での無礼を咎めて殴打しました。松下は『太閤記』に登場する豊臣秀吉が最初に仕えた人物の子孫ですが、その家柄以外にも藩主である山内豊信(容堂)の親戚という身分でもあったために参政の座を失脚し、逼塞生活を送ることとなるのです。


逼塞中は私塾・少林塾を開き、甥の後藤象二郎や乾(板垣)退助らを教育し、岩崎弥太郎を重用しました。
この時期は、海外に対する意見が重要な時代で、一般的には攘夷が叫ばれていた時に、「攘夷は無理である」と堂々と公言した数少ない人物の一人だったのです。


安政4年(1857)、土佐藩は東洋を必要として参政の座に復権させ、藩政改革を行います。門閥の否定や富国強兵・開国貿易などの政策を『南海政典』に著し改革を断行し、門閥派や攘夷派の反発を受けます。
安政6年に、豊信が弟の豊範に家督を譲ってもそのまま参政の座にいて改革を進め、“土佐藩の井伊直弼”とも揶揄されました。

文久元年(1861)の夏に土佐藩の下士が結成した土佐勤皇党の党首である武市半平太は、自分の意見に反対し強大な政敵である東洋を殺害する計画を立てるようになるのです。

文久2年4月8日、この日は夜には細かい雨が降っていました。
高知城の御殿で、吉田東洋は藩主の山内豊範に『日本外史』の講義をしていたのです。傍聴していたのは後藤象二郎や福岡藤次(孝悌)らでした。
この日の講義は、豊範が江戸に出府する前の最後の日となり、この後しばらくは休講となることになっていたのです。
奇しくも本能寺の変の項について語る東洋。

『日本外史』の本能寺の場面




「吾敵は本能寺に在り」
東洋は熱く語り、光秀の悩み信長の覚悟が響き、聴いていた者は当時の状況が目に浮かぶようだったそうです。

講義が終わると酒宴になり、東洋はしたたかに酔い午後10時頃に城をでました。
この時は東洋と共にその門弟たちも一緒に城から同行したのです。やがて一人また一人と門弟たちが帰路について、東洋と若党・草履取りの三人になってしまいます。雨は止まず、東洋の左手には傘が握られていました。
そんな東洋の前に三人の若者が飛び出します、袴も履けずふんどし丸出しの下半身に野良着のような着物を着て、汚れた手ぬぐいを頭から被り、蓑で雨を凌いでいた三人は、武市の命を受けた那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助でした。
高下駄を履いた東洋は、酔いも手伝って歩みがゆっくりだったので、大石団蔵が斬りかかり、その中で若党が持つ提灯を斬り灯りが落ちたのです。周囲は急に闇が広がりました。
続いて那須信吾が東洋に斬りかかりますが、東洋はこれを傘でいなし左肩に小さな傷を負ったのみでした。高下駄を脱ぎ、傘を捨てた東洋は刀を抜きます。
神影流の達人でもある東洋は、逃げることなく刀を構え相手に「何の遺恨か」と叫ぶ余裕があり、その時には那須に対して激しい突きの一撃を入れたのです。那須はこれを受けながら「天誅」と叫びます。

その頃、安岡と大石は逃げた若党と草履取りを追っていました。
一対一で対峙する那須と東洋では剣の腕は歴然としていて、那須がジリジリと追い詰められていました。そこに安岡と大石が戻ってきて、安岡が東洋の背中に斬りつけたのです。東洋はさっと避けて安岡の刀を落とし呆然と突っ立った安岡を斬ろうとした瞬間に背中を大石に斬られ、前から那須が右袈裟に斬ったのです。
東洋はここで倒れました。

東洋の首を安岡が斬ろうとしますが「首筋よりあごにかかり、よほど切れがたくしばし拝み打ちに仕り候」と那須が記した手紙がありますので、首を切る時に顎を切ったりして苦労した様子がうかがえます。

本来は斬った首は新しい木綿にくるんで運ぶものなのですが、この時には木綿を買える余裕がある者がいなかったので、三人の誰かが外したばかりの履き古したふんどしにくるまれて運ばれたのです。
さまざまな文学作品では、この場面を贅沢な装いをしていた洒落者の東洋が、首になった時に古いふんどしにくるまれた対照的な最後を皮肉交じりに著します。確かに文学的な場面ではあるとは思いますが、歴史と言うのは得てしてそういうものなのかもしれません。

東洋の首は鏡川雁切橋の近くに晒されました。享年47歳。
この日から、土佐藩は土佐勤皇党が藩政を握る時代がやってくるのです。



ちなみに、ここでも書いた覚えがありますが、東洋の先祖は彦根の鳥居本辺りに城を持っていた百々氏です。
そして東洋が殴ったという松下嘉兵衛の先祖と、井伊直政の母の再婚相手だった松下氏は同族です。
また、那須信吾はこののちに天誅組の変で彦根藩士によって討たれる運命にあります。

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