戸ノ口原古戦場から散々道に迷い、余計な遠回りをしながら飯盛山に到着。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0c/6a/69b1d3b7203ad2604f3a3f9a5807ccd9_s.jpg)
この瞬間から、僕には雨が付きまとうようになります。
2008年に『天地人』の取材で2週間旅行に出かけた時に、14日のうち11日が雨に襲われ、富山や東京・浜松などで電車が止まった経験があります。気象庁が2008年8月末豪雨と命名した雨なのですが、この時に東京で会った親友に「たくさん霊連れてるから、霊は水を好むんだぞ」と言われました。それ以来、変な雨が降る時は霊に何かの影響を及ぼされたと思っています。ましてや飯盛山ですから、あって当然ですよね。
それはともかく、飯盛山見学です。
白虎隊士のお墓がすぐにあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/14/fe/50492aae3f1b0438a9c0575af968d846_s.jpg)
その前には、奇妙な柱があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/49/69/4acd7276bf8ff4b46a7f2d6d9b00756c_s.jpg)
これはポンペイの柱だそうで、白虎隊に感銘を受けたローマ市民が昭和3年にポンペイ遺跡から出土した宮殿の柱を寄贈したそうです。その時は上の鷹は鉞を持っていたそうなのですが、戦争が終わった時にGHQが、そんな物を持たせていたら日本人がまた戦争を起こしかねないから危険と考えて外したそうです。
いやいやあり得ないでしょGHQ(笑)
ここから鶴ヶ城方面に進むと墓地になっています。その途中には白虎隊の悲劇の中で唯一生き残って少年たちの最後の瞬間を克明に後世に伝えた飯沼貞雄の墓があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/30/19/0e819fff8f4a57a896ba4af3173d6977_s.jpg)
そして、山の斜面に開かれた狭い場所に白虎隊が最期を迎えた場所があるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/74/8a/07e9414942ecd9c49de74a9ef19d4ab5_s.jpg)
慶応3年8月23日、戸ノ口原の戦いに敗れ、隊長ともはぐれた白虎隊士20名が戸ノ口洞門を抜けてこの場所に辿りつきました。
お城は大丈夫かと、その方向を見ると既に火に包まれていたのです。
「あぁ、お城が燃えている」
城に戻ってもう一度戦うことを考えていた隊士たちに悲愴な空気が流れます…
16.7歳くらいの少年たちは「こうなったら、腹を切って城と共に参ろう」と誰かが言った言葉に「応」と答え、傷が重い者が、「苦しいのでお先に」と命を絶つと、それに続いたのです。
そんな隊士たちが見たお城は小さい物でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2a/57/d245ebaa61d494536d4cfc21d78f11c2_s.jpg)
(↓上の写真の枠の中)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/07/3c/e7f9260884dab7bdd383a9a8aeb004b2_s.jpg)
あとでわかったことは、燃えていたのは城下でお城はまだ残っていたということです。
しかし、白虎隊士19名は亡くなり、飯沼貞雄だけが後に蘇生します。
そんな19名はこの地で神として祀られています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1a/57/df72bd051e5494df8007f35b83774f17_s.jpg)
白虎隊士たちがこの地に訪れる為に潜った戸ノ口洞門は今も水を通しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/28/a0/d87c844e6ca535337740b5f5a0a877bf_s.jpg)
もし、あの瞬間に写真で見るくらいに水が流れていたら、隊士たちはここにこれなかったでしょう。もし什の掟が無ければ、あの時点で死を選ぶのみが選択ではなかったはずです。
でもその悲劇は起きたのです。
ここの水は今も会津若松市内に流れて生活用水になっています。会津の精神が今も生活にフ深く関わっているのを感じました。
白虎隊のメンバーの中には戦いの途中で隊からはぐれてしまい、飼い犬が探しに来たことで命を長らえた人物もいました。
その逸話が像として残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/39/11/92004fe933269002dede8a1c760054ef_s.jpg)
また、隊士たちが学んだ日新館の遺物を見ることもできます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/52/0a/8bad27c23fa27a03038c807a7ce851b1_s.jpg)
悲しみばかりが思い出される飯盛山ですが、一つ恩白い建物があります。
通称「さざえ堂」と呼ばれる江戸時代の塔です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/37/c4/e4bb09dae389e8620f0feff6b541cfec_s.jpg)
中は階段ではない坂になっていて、ずっと登ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2e/af/362593634f0a072821c42459e14871da_s.jpg)
いつの間にか頂点に着き、そのまま真っ直ぐ進むと、下に降りれます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0f/26/672605a3398f0f507f648a2c137b6f12_s.jpg)
この間、登る人と降る人がすれ違うことは無く、ただまっすぐ歩くだけで誰にもすれ違わずに登って降れる建物なのです。
こうして巡礼が行われたそうなのですが、江戸時代の人はさぞ驚いたでしょうね。
幕末の日劇に触れ、ここから雨の中を白虎隊士も目指した鶴ヶ城に向かいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0c/6a/69b1d3b7203ad2604f3a3f9a5807ccd9_s.jpg)
この瞬間から、僕には雨が付きまとうようになります。
2008年に『天地人』の取材で2週間旅行に出かけた時に、14日のうち11日が雨に襲われ、富山や東京・浜松などで電車が止まった経験があります。気象庁が2008年8月末豪雨と命名した雨なのですが、この時に東京で会った親友に「たくさん霊連れてるから、霊は水を好むんだぞ」と言われました。それ以来、変な雨が降る時は霊に何かの影響を及ぼされたと思っています。ましてや飯盛山ですから、あって当然ですよね。
それはともかく、飯盛山見学です。
白虎隊士のお墓がすぐにあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/14/fe/50492aae3f1b0438a9c0575af968d846_s.jpg)
その前には、奇妙な柱があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/49/69/4acd7276bf8ff4b46a7f2d6d9b00756c_s.jpg)
これはポンペイの柱だそうで、白虎隊に感銘を受けたローマ市民が昭和3年にポンペイ遺跡から出土した宮殿の柱を寄贈したそうです。その時は上の鷹は鉞を持っていたそうなのですが、戦争が終わった時にGHQが、そんな物を持たせていたら日本人がまた戦争を起こしかねないから危険と考えて外したそうです。
いやいやあり得ないでしょGHQ(笑)
ここから鶴ヶ城方面に進むと墓地になっています。その途中には白虎隊の悲劇の中で唯一生き残って少年たちの最後の瞬間を克明に後世に伝えた飯沼貞雄の墓があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/30/19/0e819fff8f4a57a896ba4af3173d6977_s.jpg)
そして、山の斜面に開かれた狭い場所に白虎隊が最期を迎えた場所があるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/74/8a/07e9414942ecd9c49de74a9ef19d4ab5_s.jpg)
慶応3年8月23日、戸ノ口原の戦いに敗れ、隊長ともはぐれた白虎隊士20名が戸ノ口洞門を抜けてこの場所に辿りつきました。
お城は大丈夫かと、その方向を見ると既に火に包まれていたのです。
「あぁ、お城が燃えている」
城に戻ってもう一度戦うことを考えていた隊士たちに悲愴な空気が流れます…
16.7歳くらいの少年たちは「こうなったら、腹を切って城と共に参ろう」と誰かが言った言葉に「応」と答え、傷が重い者が、「苦しいのでお先に」と命を絶つと、それに続いたのです。
そんな隊士たちが見たお城は小さい物でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2a/57/d245ebaa61d494536d4cfc21d78f11c2_s.jpg)
(↓上の写真の枠の中)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/07/3c/e7f9260884dab7bdd383a9a8aeb004b2_s.jpg)
あとでわかったことは、燃えていたのは城下でお城はまだ残っていたということです。
しかし、白虎隊士19名は亡くなり、飯沼貞雄だけが後に蘇生します。
そんな19名はこの地で神として祀られています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1a/57/df72bd051e5494df8007f35b83774f17_s.jpg)
白虎隊士たちがこの地に訪れる為に潜った戸ノ口洞門は今も水を通しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/28/a0/d87c844e6ca535337740b5f5a0a877bf_s.jpg)
もし、あの瞬間に写真で見るくらいに水が流れていたら、隊士たちはここにこれなかったでしょう。もし什の掟が無ければ、あの時点で死を選ぶのみが選択ではなかったはずです。
でもその悲劇は起きたのです。
ここの水は今も会津若松市内に流れて生活用水になっています。会津の精神が今も生活にフ深く関わっているのを感じました。
白虎隊のメンバーの中には戦いの途中で隊からはぐれてしまい、飼い犬が探しに来たことで命を長らえた人物もいました。
その逸話が像として残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/39/11/92004fe933269002dede8a1c760054ef_s.jpg)
また、隊士たちが学んだ日新館の遺物を見ることもできます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/52/0a/8bad27c23fa27a03038c807a7ce851b1_s.jpg)
悲しみばかりが思い出される飯盛山ですが、一つ恩白い建物があります。
通称「さざえ堂」と呼ばれる江戸時代の塔です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/37/c4/e4bb09dae389e8620f0feff6b541cfec_s.jpg)
中は階段ではない坂になっていて、ずっと登ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2e/af/362593634f0a072821c42459e14871da_s.jpg)
いつの間にか頂点に着き、そのまま真っ直ぐ進むと、下に降りれます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0f/26/672605a3398f0f507f648a2c137b6f12_s.jpg)
この間、登る人と降る人がすれ違うことは無く、ただまっすぐ歩くだけで誰にもすれ違わずに登って降れる建物なのです。
こうして巡礼が行われたそうなのですが、江戸時代の人はさぞ驚いたでしょうね。
幕末の日劇に触れ、ここから雨の中を白虎隊士も目指した鶴ヶ城に向かいました。