彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

4月25日、近藤勇処刑される

2007年04月25日 | 何の日?
慶応4(1868)年4月25日、新選組局長・近藤勇が板橋で斬首されます。35歳でした。

近藤は、坂本龍馬を暗殺した罪で処刑されたのでした。
後の研究から照らしあわせれば、新選組が坂本暗殺を行なったとは考え難い状況なのですが、この時はそう信じられていたのです。
切腹を許さずに斬首にしたばかりか、刑場でもない馬捨て場で首を斬ったといいます。官軍のやり方は近藤勇を武士として扱わないだけではなく、人としても否定させるような信じられないものでした。

近藤は全てを承知して一身に責任を負って処刑されたのです、でも実はこの時に近藤と一緒に処刑された新選組隊士が居たのでした。
その隊士は名前も残っていなければ、なぜ処刑されたのかも分かっていません。
ただ分かっている事は近藤勇と一緒に処刑されて、近くに埋められたということだけだったのです。

余談ですが、大河ドラマ『新選組!』では、この人物の謎を解くために捨助という架空の人物を作り出して、脚本家・三谷幸喜さんなりの解釈を加えたのですよ。

近藤処刑後、その門弟と身内がそれぞれ刑場に入り込んで近藤の遺体を掘り起こし改葬しています。
しかし、近藤は一人しか居ないのに門弟と身内がどちら共に遺体を運んだ記録を残している事から、門弟が運んだ遺体はこの隊士の分を間違えて運んだのでは無いかという説が有力になっているんです。



さて、近藤勇の出身地は武蔵国多摩だし、処刑されたのは板橋だし、活躍したのは京都なので、全く彦根には関係ないのになぜここで紹介したのでしょうか?

近藤勇は流山という場所で“大久保大和”という変名を名乗っていたのですが、この大久保大和を近藤勇だと見破った人物が彦根藩士・渡辺九郎左衛門昌守でした。
当時、彦根藩は官軍として300の藩兵が薩摩藩士・有馬藤太と水戸藩士・香川敬三に従っていました(よりによって水戸藩士・汗)。
流山に籠もる近藤たちを囲った官軍に近藤が投降し、その時に「大久保大和」と名乗ったのです。
渡辺昌守は、京で近藤に会ったことがあったらしく、大久保大和が近藤勇であることを進言したのでした。

こんな所にも彦根藩が関わってくるんですね。

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