慶長7(1602)年2月1日、井伊直政が佐和山城で亡くなりました、享年42歳。
当時としても若すぎる氏といえる直政の死因は、1年半前に起こった関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷によるものだったといわれています。
直政と徳川家康の関係については以前『徳川家康と井伊家』という項目で触れていますのであまり深くは書きませんが、直政は家康の家臣の筆頭と目されてもおかしくない逸話が幾つか残っていますので、それをご紹介しましょう。
・直政が亡くなる原因となった関ヶ原の戦いでの事。
戦いの終盤で島津義弘軍が家康本陣近くに突撃して撤退すると言う前代未聞の撤退戦を開始し、これを追って果敢に戦ったのが直政だったのです。
その時に島津軍が放った鉄砲の弾を受けて倒れた直政に対し、戦いの後に徳川家康は自らの手で薬を付けて手当てをしたのです。
この時、家康の四男で直政の娘婿だった松平忠吉も怪我をしていたのですが、息子よりも直政が先だったのです。
・豊臣秀吉にも愛された直政
小牧長久手の戦いで家康に敗れた秀吉は、どうにかして家康を臣下にしたいと考えて、妹・朝日を家康の正室として送り、自らの母・大政所も人質として家康の居城・岡崎城に行かせたのです。
この時、大政所を警護したのが直政でした。
直政の丁寧な饗応を伝え聞いて、感動した秀吉は、直政に注目するようになったのです。
そして、“豊臣姓”を与えられたのでした。直政は井伊家は藤原氏の末裔だからと言う理由でこれを辞退した居ます。
しかし、秀吉の興味は冷めず、天正16年に秀吉が後陽成天皇を聚楽第に招いた時に家康の配下として唯一秀吉直属の大名と同席に参列したのでした。
この時に“井侍従藤原直政”と記した記録が残っていますが、陪臣でありながら侍従と言う官職に正式に就いていた事を示す貴重な資料とも言え、それだけ秀吉の信頼も厚かったのです。
・死後のこと
直政死去の報せを受けた家康は大いに悲しみました。
そして、直政の死に顔を見たいとして、至急に佐和山に使者を送って直政の遺体を保管するよう指示したのです。
こうして直政の遺体は、領内の河内の風穴で保管されて、家康との対面を果たしてから葬られたのでした。
こんな逸話がある直政ですが、実は恐妻家だったという一面も持っています。
直政の正室は、家康の養女となった松平康親の娘でした。この正室には頭が上がらなかったそうで、以後井伊家は徳川家と婚姻を結ぶ事を禁じる遺言を残したと言われています。
当時としても若すぎる氏といえる直政の死因は、1年半前に起こった関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷によるものだったといわれています。
直政と徳川家康の関係については以前『徳川家康と井伊家』という項目で触れていますのであまり深くは書きませんが、直政は家康の家臣の筆頭と目されてもおかしくない逸話が幾つか残っていますので、それをご紹介しましょう。
・直政が亡くなる原因となった関ヶ原の戦いでの事。
戦いの終盤で島津義弘軍が家康本陣近くに突撃して撤退すると言う前代未聞の撤退戦を開始し、これを追って果敢に戦ったのが直政だったのです。
その時に島津軍が放った鉄砲の弾を受けて倒れた直政に対し、戦いの後に徳川家康は自らの手で薬を付けて手当てをしたのです。
この時、家康の四男で直政の娘婿だった松平忠吉も怪我をしていたのですが、息子よりも直政が先だったのです。
・豊臣秀吉にも愛された直政
小牧長久手の戦いで家康に敗れた秀吉は、どうにかして家康を臣下にしたいと考えて、妹・朝日を家康の正室として送り、自らの母・大政所も人質として家康の居城・岡崎城に行かせたのです。
この時、大政所を警護したのが直政でした。
直政の丁寧な饗応を伝え聞いて、感動した秀吉は、直政に注目するようになったのです。
そして、“豊臣姓”を与えられたのでした。直政は井伊家は藤原氏の末裔だからと言う理由でこれを辞退した居ます。
しかし、秀吉の興味は冷めず、天正16年に秀吉が後陽成天皇を聚楽第に招いた時に家康の配下として唯一秀吉直属の大名と同席に参列したのでした。
この時に“井侍従藤原直政”と記した記録が残っていますが、陪臣でありながら侍従と言う官職に正式に就いていた事を示す貴重な資料とも言え、それだけ秀吉の信頼も厚かったのです。
・死後のこと
直政死去の報せを受けた家康は大いに悲しみました。
そして、直政の死に顔を見たいとして、至急に佐和山に使者を送って直政の遺体を保管するよう指示したのです。
こうして直政の遺体は、領内の河内の風穴で保管されて、家康との対面を果たしてから葬られたのでした。
こんな逸話がある直政ですが、実は恐妻家だったという一面も持っています。
直政の正室は、家康の養女となった松平康親の娘でした。この正室には頭が上がらなかったそうで、以後井伊家は徳川家と婚姻を結ぶ事を禁じる遺言を残したと言われています。