彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

天秤櫓

2007年02月05日 | 彦根城
彦根城の代表的な建物の一つで、ドラマや映画の撮影で使用される頻度が高い物の中に天秤櫓があります。

表門と大手門から天守に向かって城山を登って両方の道が合流する所で出会う建物がこの天秤櫓です。鐘の丸から廊下橋を経て正面に見える門を中心に、左右対称に二階建ての櫓が建つ多聞櫓の形が荷物を乗せた天秤の形を連想させる櫓としてこの名前が付けられたと言われています。

しかし、実際にその建物を見てみると、櫓の向きや格子窓の数、そして幕末の大改修の影響で石垣の積み方も違っていて、決して左右対称という訳では無いのですが、妙に均等の取れた姿は芸術的でもあり、軍事的な美しさも感じられます。

さて、彦根城はリサイクル城として近江各地の城から建物が移築されて来たという話はもうしつこい程しましたが、この天秤櫓もその例外ではありません。
では、どこのお城から持ってきた物かと言うと、井伊家の資料では長浜城大手門からの移築だと記されています。
長浜城といえば、豊臣秀吉(とよとみの・ひでよし)が、まだ織田信長の重臣として羽柴性を名乗っていた頃に、浅井長政の旧領だった湖北地域を信長から与えられた時に築いた城として有名ですね。
そんな長浜城は、山内一豊が城主だった時に天正地震の被害を受けて建物が一部崩壊します。この時、一豊の娘・よね姫が建物の下敷きになって亡くなった話は大河ドラマ『功名が辻』でも描かれていましたね。

そして、一豊が掛川に領地代えになった後は江戸時代まで領主が置かれませんでしたが、1606年に徳川家康の異母弟・内藤信成が4万石の領主として入城し大改修を行います。

1615年に長浜が彦根藩領に組み込まれた事から、城が解体されて建物や石垣が彦根城に移築されたのです。
その証拠に、天秤櫓の解体修理時の調査では、内藤家の紋が入った瓦も見つかっています

1615年は、当時の藩主・井伊直孝が世田谷で猫に手招きされた年でもあります。その年に天下人まで出世した秀吉の城を自分の居城に組み込む事ができた運命こそが、井伊家が幕府最高職の大老にまで出世する礎だったのかも知れませんね。


追記:
豊臣秀吉の読み方を敢えて「とよとみの・ひでよし」と書いた事は、彦根の歴史とは全く関係がありませんが、余談として書いておきます。
豊臣姓は、源平藤橘に並ぶ第五の姓として帝から与えられた本姓ですが、名字はその没時まで「羽柴」でした。
本姓を名乗る時は源義経や平清盛のように、姓と名の間に氏への所属を意味する「の」を入れて読むのが原則ですから、正しくは「とよとみの・ひでよし」となるのです。

ついでにもう一つ豆知識。
秀吉は猿に似ているから秀吉を扱ったドラマや物語でも「サル」と呼ばれていたように一般的に広まっていますが、実際は関白になった時にその出身が低い事から、民衆の落書に“さる関白(どこの誰とも分からない関白)”と書かれた事がこの呼び名の伝説となりました。
したがって信長は秀吉のことを「サル」と呼んだ事は一度も無く、別のあだ名がありました。
そのあだ名は「六ツめ」というモノで、右手の親指が2本ある多指症だった秀吉の風貌を表したものだったのです。
(今回は、史実を伝えるために敢えて使いましたが、差別的な表現とも言える言葉ですので、今後も使わないでいただきたい言葉の一つです。)
コメント
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