現在は、桶狭間古戦場公園として整備されている史跡が田楽坪です。
桶狭間古戦場は、大きく分けて2か所の批准地が知られています。一つがこの地であり、もう一つが1キロ程北東にある豊明市の古戦場跡です。
大きな目で見れば、桶狭間の戦いは5回の衝突があったことが『信長公記』にも、信長が義元本陣を攻撃した後、「真丸になつて退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合わせ帰し合わせ次第次第無人になつて後には五十騎計りになりたるなり」と記されているように、義元は五度引いては戦い引いては戦いを繰り返してだんだん兵が減って行ったのです。
つまり、古戦場と思しき場所が5か所くらいあっても不思議ではなく、古戦場と宣言しているどちらともが桶狭間の戦いの戦場だったと解釈しています。
そもそも、戦いなんてものは広範囲で行われるのでどちらも戦場の一角と考えるほうが自然ですよね。
ただし、この2か所がお互い譲らないのが、どこで義元が討たれたか?ということのようですね、これこそ資料をいくら読み込んでも解る訳はない(影武者や身代わりや偽首も横行するので、当時の人でも正しいことは解らない)論争なのですが…
そんな考えはさておき、名古屋市緑区での義元討死の地とされているのが田楽坪の桶狭間古戦場公園です。
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以前紹介しました首洗いの泉や
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行軍を表したモニュメントも公園内にあります。
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史跡として、
・義元のお墓2基
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・馬繋ぎの「ねずの木」
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・義元討死の地の石碑
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が残っています。
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所在地 名古屋市緑区桶狭間
桶狭間古戦場は、大きく分けて2か所の批准地が知られています。一つがこの地であり、もう一つが1キロ程北東にある豊明市の古戦場跡です。
大きな目で見れば、桶狭間の戦いは5回の衝突があったことが『信長公記』にも、信長が義元本陣を攻撃した後、「真丸になつて退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合わせ帰し合わせ次第次第無人になつて後には五十騎計りになりたるなり」と記されているように、義元は五度引いては戦い引いては戦いを繰り返してだんだん兵が減って行ったのです。
つまり、古戦場と思しき場所が5か所くらいあっても不思議ではなく、古戦場と宣言しているどちらともが桶狭間の戦いの戦場だったと解釈しています。
そもそも、戦いなんてものは広範囲で行われるのでどちらも戦場の一角と考えるほうが自然ですよね。
ただし、この2か所がお互い譲らないのが、どこで義元が討たれたか?ということのようですね、これこそ資料をいくら読み込んでも解る訳はない(影武者や身代わりや偽首も横行するので、当時の人でも正しいことは解らない)論争なのですが…
そんな考えはさておき、名古屋市緑区での義元討死の地とされているのが田楽坪の桶狭間古戦場公園です。
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以前紹介しました首洗いの泉や
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行軍を表したモニュメントも公園内にあります。
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史跡として、
・義元のお墓2基
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・馬繋ぎの「ねずの木」
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・義元討死の地の石碑
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が残っています。
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所在地 名古屋市緑区桶狭間