興南が春夏通じて初優勝…延長で日大三破る(読売新聞) - goo ニュース
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興南10―5日大三(選抜高校野球大会・決勝=3日)
興南(沖縄)が日大三(東京)を延長十二回、10―5で破り、初優勝を飾った。
試合は、5―5の同点のまま、延長戦に突入。興南は十二回、一死満塁から日大三の守備の乱れと島袋選手の適時二塁打などで計5点のリードを奪い、その裏の日大三の反撃を許さなかった。
沖縄勢の優勝は、第80回大会(2008年)の沖縄尚学以来2年ぶり3度目。日大三は、39年ぶりの優勝を逃した。
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私は、センバツ大会歌「今ありて」が大好きだ。三寒四温といわれ、冬と春がせめぎ合う季節が、この曲を聞くことで一挙に春になる、そんな気がする。夏の大会歌「栄冠は君に輝く」もいいが、冬から春になる感動には及ばない。
さて、第82回選抜高校野球は、延長戦にもつれ込んだ末、12回表に一挙5点を奪った興南が日大三を振り切った。センバツ大会決勝戦の延長は、1989年の東邦(愛知)×上宮(大阪)で東邦が勝って以来、21年ぶりだ。ちなみにこの時の上宮からは後に、元木大介(巨人)、種田仁(中日)らがプロ野球に進んでいる。
簡単に今大会を振り返ろう。
21世紀枠は、昨年の利府(宮城)に続き、今年も山形中央の出場という形で東北に割り当てられた。東北地方の出場枠は通常、3校だが、21世紀枠のおかげで2年連続して枠が拡大されたことになる。雪国のハンディは遠い昔の話になった。東北地方のレベルアップは著しい。
今大会はまた、悪天候に苦しめられた。1回戦の2日目は、4試合すべてが2日連続で順延となった。1日4試合すべてが2日連続で順延されたのは、1985年以来25年ぶりのことである。また、強風の日が多かったことも特徴的で、多くの球児たちが強風に苦しんだ。
大会中、21世紀枠で出場した向陽(和歌山)に敗退した学校の監督が「末代の恥」と発言して辞任に追い込まれる騒ぎがあったが、21世紀枠は、出場枠が足りない地域でどうしても出場させたい学校があるときに割り当てられる制度だから、「21世紀枠の出場校は弱い」というのは思い込みに過ぎないということが理解できるだろう。
1回戦から2回戦は、得点が少なく投手戦が目に付いた反面、準々決勝以降は大差のゲームが多かったが、これは通常の大会とは逆の現象だと思う。出場各校の戦力がバラバラな状態で対戦する1回戦から2回戦のほうが大差ゲームが多く、強い学校が勝ち残って戦力が均衡する準々決勝以降は投手戦が多いというのが通常の姿だろう。
そして、高校野球は「投手力の春、総合力の夏」と言われるとおり、春のセンバツは投手力が勝敗を決めるが、そこで各校の戦力が均衡するはずの後半戦で大差ゲームが多かったことは、投手力が発展途上にあるチームが多かったということを意味する。春から夏までに急成長するチームもあるから現時点で判断するのは早計だと思うが、今年は全体的に見て「打高投低」の年になるのではないだろうか。
ただ、その中でも優勝した興南のエース・島袋は速球がよく切れ、延長戦突入後も球速は140km代でまったく落ちなかった。日大三のエース・山崎も延長戦でスタミナ切れを起こしたものの、島袋同様140km代の速球と変化球で緩急をつけられ、コントロールもよく期待できる。夏に向け、スタミナをつければプロ入りも見えてくるだろう。
以上が当ブログ管理人のセンバツ講評だが、開会前に大きく話題になったのは、興南、嘉手納と史上初めて沖縄から2校が出場したことだ。昨年秋の九州大会で嘉手納は優勝、興南は3位だから、この成績を見る限りアベック出場となったのは別に不思議ではないが、米軍普天間基地問題が焦点となっているこの時期に、沖縄から2校がアベック出場を果たし、東京と沖縄が対決した決勝戦で沖縄が勝つという結果に、政治的な因縁を感じるのは私だけだろうか。
思えば、今年は沖縄代表が初めてセンバツに出場できるようになった1960年からちょうど半世紀に当たる。1960年、日本返還前の沖縄は米軍の軍政下にあり、戦後、初のセンバツ出場を果たした那覇高校は、「外国」だった甲子園にパスポートを持ってやって来た。その2年前の1958年、初めて夏の甲子園に出場した首里高校の選手たちは、記念に持ち帰ろうとした甲子園の土を、米国政府の検疫制度によって「米国領沖縄」に持ち込むことができず、すべて捨てさせられた。
戦後の沖縄史には、こうした悲劇がたくさん詰まっている。沖縄が日本に復帰するのは、それから12年も経った1972年のことである。今でこそ沖縄代表は優勝候補の常連となったが、50年の節目となった今年、ただ単に興南の優勝を喜ぶだけでなく、こうした沖縄の戦後史も、きちんと知っておきたい。
選抜大会歌「今ありて」 2009年版
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興南10―5日大三(選抜高校野球大会・決勝=3日)
興南(沖縄)が日大三(東京)を延長十二回、10―5で破り、初優勝を飾った。
試合は、5―5の同点のまま、延長戦に突入。興南は十二回、一死満塁から日大三の守備の乱れと島袋選手の適時二塁打などで計5点のリードを奪い、その裏の日大三の反撃を許さなかった。
沖縄勢の優勝は、第80回大会(2008年)の沖縄尚学以来2年ぶり3度目。日大三は、39年ぶりの優勝を逃した。
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私は、センバツ大会歌「今ありて」が大好きだ。三寒四温といわれ、冬と春がせめぎ合う季節が、この曲を聞くことで一挙に春になる、そんな気がする。夏の大会歌「栄冠は君に輝く」もいいが、冬から春になる感動には及ばない。
さて、第82回選抜高校野球は、延長戦にもつれ込んだ末、12回表に一挙5点を奪った興南が日大三を振り切った。センバツ大会決勝戦の延長は、1989年の東邦(愛知)×上宮(大阪)で東邦が勝って以来、21年ぶりだ。ちなみにこの時の上宮からは後に、元木大介(巨人)、種田仁(中日)らがプロ野球に進んでいる。
簡単に今大会を振り返ろう。
21世紀枠は、昨年の利府(宮城)に続き、今年も山形中央の出場という形で東北に割り当てられた。東北地方の出場枠は通常、3校だが、21世紀枠のおかげで2年連続して枠が拡大されたことになる。雪国のハンディは遠い昔の話になった。東北地方のレベルアップは著しい。
今大会はまた、悪天候に苦しめられた。1回戦の2日目は、4試合すべてが2日連続で順延となった。1日4試合すべてが2日連続で順延されたのは、1985年以来25年ぶりのことである。また、強風の日が多かったことも特徴的で、多くの球児たちが強風に苦しんだ。
大会中、21世紀枠で出場した向陽(和歌山)に敗退した学校の監督が「末代の恥」と発言して辞任に追い込まれる騒ぎがあったが、21世紀枠は、出場枠が足りない地域でどうしても出場させたい学校があるときに割り当てられる制度だから、「21世紀枠の出場校は弱い」というのは思い込みに過ぎないということが理解できるだろう。
1回戦から2回戦は、得点が少なく投手戦が目に付いた反面、準々決勝以降は大差のゲームが多かったが、これは通常の大会とは逆の現象だと思う。出場各校の戦力がバラバラな状態で対戦する1回戦から2回戦のほうが大差ゲームが多く、強い学校が勝ち残って戦力が均衡する準々決勝以降は投手戦が多いというのが通常の姿だろう。
そして、高校野球は「投手力の春、総合力の夏」と言われるとおり、春のセンバツは投手力が勝敗を決めるが、そこで各校の戦力が均衡するはずの後半戦で大差ゲームが多かったことは、投手力が発展途上にあるチームが多かったということを意味する。春から夏までに急成長するチームもあるから現時点で判断するのは早計だと思うが、今年は全体的に見て「打高投低」の年になるのではないだろうか。
ただ、その中でも優勝した興南のエース・島袋は速球がよく切れ、延長戦突入後も球速は140km代でまったく落ちなかった。日大三のエース・山崎も延長戦でスタミナ切れを起こしたものの、島袋同様140km代の速球と変化球で緩急をつけられ、コントロールもよく期待できる。夏に向け、スタミナをつければプロ入りも見えてくるだろう。
以上が当ブログ管理人のセンバツ講評だが、開会前に大きく話題になったのは、興南、嘉手納と史上初めて沖縄から2校が出場したことだ。昨年秋の九州大会で嘉手納は優勝、興南は3位だから、この成績を見る限りアベック出場となったのは別に不思議ではないが、米軍普天間基地問題が焦点となっているこの時期に、沖縄から2校がアベック出場を果たし、東京と沖縄が対決した決勝戦で沖縄が勝つという結果に、政治的な因縁を感じるのは私だけだろうか。
思えば、今年は沖縄代表が初めてセンバツに出場できるようになった1960年からちょうど半世紀に当たる。1960年、日本返還前の沖縄は米軍の軍政下にあり、戦後、初のセンバツ出場を果たした那覇高校は、「外国」だった甲子園にパスポートを持ってやって来た。その2年前の1958年、初めて夏の甲子園に出場した首里高校の選手たちは、記念に持ち帰ろうとした甲子園の土を、米国政府の検疫制度によって「米国領沖縄」に持ち込むことができず、すべて捨てさせられた。
戦後の沖縄史には、こうした悲劇がたくさん詰まっている。沖縄が日本に復帰するのは、それから12年も経った1972年のことである。今でこそ沖縄代表は優勝候補の常連となったが、50年の節目となった今年、ただ単に興南の優勝を喜ぶだけでなく、こうした沖縄の戦後史も、きちんと知っておきたい。