05/11/24
安全・安心の心
———安全も安心も心の問題としてみると
●安全、安心は人の基本的な欲求
図に示すマズロー*の5段階の欲求階層説はよく知られている。人は自己実現を目ざして成長していく存在ととらえ、その過程で、4つの欲求満足の段階を踏むとするものである。
この2段階目に、「安全(safety)と安心(stability)」の欲求満足がある。これが満たされた上での、自己実現へ向けてのさらなる成長ができるというのである。
「安全と安心」は、このように、人にとっての基本的な欲求の一つなのである。それが今、脅かされつつある(満たされない)日本社会は、このままほっておけば、自己実現が脅かされることにもなりかねない。
●安全と安心を保証するもの
「安全と安心」の欲求に限らないが、およそどんな欲求も、すぐれて人の内部の心の問題である。しかし、それが保証されるためには、人をとりまく状況の力も大きい。「安全と安心」の心をもたらすのは、幼児であれば、親からの愛に満ちたケアーであるし、大人であれば、よそから侵害を受けない、いつもと同じ安定した生活環境である。
しかし、だからといって状況の力の強さにだけ目を向けば、「安全と安心」にまつわる問題は、解決するというわけではない。人の心にも充分に配慮する必要がある。人の心への配慮を欠いた「安全と安心」環境の設計は、へたをすると自己実現を妨げるものになってしまう可能性もあるからである。
たとえば、危険を恐れて子供を家の中に閉じこめてしまったり、失敗を恐れて挑戦的な仕事をしなくなってしまったりでは、本末転倒である。
●安全と安心は手段である
マズローもそうであるが、「安全と安心」は、それ自体が目的ではない。「安全と安心」ができる環境で、何かを達成することがねらいである。「安全と安心」はあくまで手段でしかない。誤解を恐れずに言うなら、仕事の内容、たとえば、戦争などでは、「安全と安心」は手段としては最適でないこともある。
「安全と安心」を自己目的化してしまうと、過度の法律的な規制、自由闊達な行動の抑制、些末安全主義への傾斜、リスクを恐れた保守主義が跋扈してしまう恐れもある。
●安全と安心を組み合わせてみると
「安全と安心」は、実は一体ではない。やや強引であるが、それをあえて直交させてみたのが、図である。安全の反対語「危険」、安心の反対語「不安」で4つの象限に分けてみた。こうしてみると、「安全と安心」は、ごく一部の世界をとらえているだけで、他にも関連する世界のあることに気づかされる。
第2象限「安全と不安」な世界は、遊園地などの遊具に作り込まれている。恐怖に耐えられるかどうかの不安が、遊具での楽しみを深めている。
第4象限「安心と危険」な世界は、旅客機に代表されるように、最新技術を駆使しての便益と安全の提供の一方では、ひとたび何かがあればすべて終わりという世界である。高度技術社会では、こうした世界が拡大の一途をたどっている。
第3象限「危険と不安」な世界は、「安全と安心」な世界の対極になる。この世界を極小化し、「安全と安心」の世界を極大化することが、「安全と安心」の科学や施策の大きなねらいとなる。また、個人の心の問題として、「危険と不安」を心の底に抱いてこそ「安全と安心」への努力がなされることになる。その際、第2象限,第3象限のような世界の存在も忘れてはないことを、この分類は教える。
●不安は安全の番人
安全な状態が続くと、人は誰しもが安心する。しかし、それがあまりに長く続くと、安全を確保するための工夫や努力が次第になされなくり、安全を脅かす事が起こりやすくなる。そして、心の不安も高まってくる。それが危険の発生を防ぐ工夫と努力をさせることになる。
このように、不安は、安全の心理的な番人のような役割を果たしている。ところが、不安も安全馴れしてしまうと、感度が鈍くなってくる。それを防ぐには、1部で述べる危険予知力を磨くことであるが、ごく日常的な努力としては、事故、災害、犯罪のニュース内容をできるだけ自分の身に引きつけて考える習慣をつけることである。幸いなことに?、ニュース報道では必ず何件かのそうしたニュースを報道してくれる。これを活かすのである。(K)
図 「安全対危険」と「安心対不安」とを
組み合わせてみると
安全
旅客機 警察
不安—————————安心
BSE
戦争
危険
脚注*
Maslow,A 1943 「A theory of human motivation」 Psychological
Review,50, 370-396
図****
自己実現
承認と自尊心
所属と愛情
安全と安定*
生理的満足
*マズローは、safety & stabilityとしているが、もっぱらsafety needに言及している。
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