語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『主語を抹殺した男 評伝三上章』

2010年05月04日 | ノンフィクション
 17世紀のフランスには文学上の一ジャンルに「ポルトレ」があった。文字をもってする肖像の意で、風貌、気質、行為まで描きだそうとするが、本格的な伝記でも人間研究でもない。そう桑原武夫は紹介し、「ポルトレ」を訳せば「人間素描」となる、という。
 桑原武夫『人間素描』(筑摩書房、1976)は、30有余人の「人間素描」をおさめる。素描された一人に、『象は鼻が長い』の三上章がいる。
 三上章に係るポルトレは、いまはなき雑誌「展望」1971年1月号に掲載された。追悼文である。「やがて現れるににちがいない彼の伝記作者のために」、「この独創的な学者の風貌を書きとめ」ている。
 ここで紹介される逸話はいずれも瞠目するべきものだが、一例は後ほど記す。
 ところで、桑原は三上章を土着主義の先駆者の一人と位置づけている。土着の進化論者、今西錦司は、「三上から深い影響を受けたと書いている」。三高で、今西と三上は同級、桑原は1級下であった。

 このポルトレ、ついに現れた伝記作者により、本書で再三引用されている。
 本書を通読すると、さほど多くの接触があったわけではない桑原が、じつによく三上の人となりを見ぬいてることに驚かされる。
 たとえば、反骨精神。三高時代、ズボンの前のボタンをかけるのを忘れて教師に注意されると、翌日ズボンのボタンを全部ちぎって登校した。西洋人の多くはマワシあるいはパンツをはいていないからボタンをかけねば陽物がみえるおそれがあるが、日本人はきっちり下帯をしているからそんな紳士づらをする必要はない、という理屈であった。三上はそれで押しとおしたらしい、と桑原は伝える。
 本書も、類似の逸話を掘り起こしている。中学校の数学の考査で、問題が容易すぎて解答する気がしない、と用紙に○を書いて早々と提出し、図書館で読書にふけった。無礼といえば無礼なふるまいだが、教師は三上少年を可愛がり、後々まで世話をやいたらしい。

 人は文化をうけ継ぎ、成長していく。反骨も独創も、型破りは、「型」を前提とする。「型」が身についていなければ、単なる放埒にすぎない。
 三上は広汎に読書し、先人の知識と知恵をうけ継いだ。本書によれば、進化論を今西錦司に伝えたのは三上である。
 三上的思考の基本的な「型」は、数学にあったらしい。
 数学にすぐれていた、と桑原ポルトレは以下のような逸話を伝える。数学の試験を解く際、教師が教室で教えたのとはちがう解き口を見いだそうと努力して、おおむねそれに成功したらしい。また、既知数をabc、未知数をxyzとするのは日本人としておかしいのではないか、と疑問をていし、イセの3乗+ロスの自乗-ハン=0のごとき数式を組み立てて教師を怒らせた。
 本書でも、80人が受けた試験において、ある難問を正解したのは三上ひとりだった、と伝える。
 三上はポール・ヴァレリーを愛したが、ヴァレリーも数学に凝った人だった。

 三上は、文学評論家として立つ野心があったらしい。これを断念し、文法ひとすじに方向転換した契機はふたつある、と本書はいう。
 ひとつは、吉田健一が主宰する『批評』誌から連載を依頼されながら、一度掲載されたのみで、不明の理由により一方的に連載中止を宣告されたこと。もうひとつは、佐久間鼎『日本語の特質』との出会いである。いずれも1941年のことで、奇しくも日本が運命が大きく変転した年でもあった。太平洋戦争の勃発である。
 この1941年、三上は母フサと妹茂子を布施(現・東大阪市)の借家に呼び寄せ、同居をはじめた。以後、茂子は、家事の能力がまったくない三上を生涯ささえつづける。三上は、ついに妻を娶らず、研究に没頭した。

 ここでは三上文法の是非には立ち入らない。評者には、その素養がない。ただ、海外で日本語を教育するにあたって三上文法が有効である理由が本書第一章に整理されている、とだけ記しておく。オーストラリアほか、海外で三上文法の評価が高いことは、桑原ポルトレにも付記されている。
 ちなみに、この伝記作者は、本書刊行当時モントリオール大学東アジア研究所日本語科長で、三上章の学問的業績について別に論文、著作をあらわしている(『日本語に主語はいらない』、講談社選書メチエ、2002、ほか)。 
 「街の語学者」(第四章のタイトル)を支持する者はいたし、国語学者の金田一春彦は「保守的閉鎖的な国語学界でまったく例外的」に三上に早くから注目し、熱心に応援した。
 しかし、国内の学者の大多数は、三上とまともに議論を交わさなかった。
 伝記作者は、学者たちから「シカト」された、という。「さすがの強靱な精神も孤立感、無力感を強めていったのである」。そして、三上60歳の年の暮、異常なふるまいにより警察に保護され、入院した。躁鬱病と診断された。

 晩年の三上は傷ましい。
 若年時の三上は、快活、洒脱なユーモアにあふれた談話の名手だったらしい。自宅に客がひきもきらず、談笑の声が別室の妹の耳にもとどいた、と妹は証言する。
 しかし、晩年の三上は、大学へ教授として招聘するという吉報の使者を、「相手の心を見透かすような眼鏡越しの冷静な視線」で迎えた。
 1965年、新設の大谷女子大学の国語科教授に推されて就任したが、三上の心身はすでに病んでいた。肺をガンがおかしつつあった。精神は硬直し、ユーモアを忘れていた。たとえば、始業時刻ちょうどになるまで廊下に立って待ちうけ、終業のチャイムが鳴るなり、発言の途中でも打ち切って、さっさと教室をあとにした。学生たちは、鐘が鳴るとすぐでていく「消防自動車」とあだ名した、という。
 ハーバード大学から招かれたが、なにも教えず、3週間で帰国した。桑原ポルトレは「大学側の用意した部屋があまり大きく立派すぎて落着かぬからというのがその理由と聞いた」と逸話ふうに記すが、本書によれば、そんな容易なものではなかった。不眠がつづき、生活面での不如意があり(妹は同行しなかった)、「精神が立った」状態になって入院。日本へ送り返された。
 帰国した三上には、1年間余の命しか残されていなかった。

 三上の生涯をたどってみると、たしかに才能のある人だったらしい。才人らしく、型にはまった行動をとらず、ある意味で自由気ままに生きた。金融恐慌の就職困難な時期にようやく得た台湾総督府の技官の「顕職」を、退屈を理由に2年で辞したのはその一例である。
 型破りはしかし、型にはまった世間から復讐される。「主語を抹殺した男」は、国語学者という世間から抹殺・・・・されかけた。
 三上文法が斯界の主流を占めなかった、というだけのことであれば、一掬の涙をながすことはあっても、それ以上の思いをいだく必要はない。学問上の正否は、学問の世界で決着をつけるしかない。
 しかし、まともな議論がおこなわれず、三上が「シカト」されたことには滂沱たる涙をながしてよい。異説をとなえる者、あるいはちょっとした変わり者に対する組織的排除は、小学校のイジメに端的にみられるように、日本社会の陰湿な側面である。三上は、その犠牲者だった。

□金谷武洋『主語を抹殺した男 評伝三上章』(講談社、2006)
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【言葉】行政マンの条件

2010年05月04日 | ●スタンダール
 彼はもともと事務の才能のない男だったが、十四年間田舎で侍僕、公証人、医師ばかり相手に暮らしていたうえに、突然現れた老人らしい不機嫌も手伝って、まったく無能な人間になっていた。しかるに、オーストリアで一つの要職を維持するのには、この古い君主国の緩慢複雑ではあるが、たいへん条(すじ)の通った行政が要求する、一種の才能なくしては不可能なのであった。デル・ドンゴ侯爵の間違いは下役どもを怒らせ事務を停滞させた。彼の過激な王党的言辞は、惰眠と無関心のうちに眠らせておかねばならないはずの人民をかえって刺激した。ある日彼は陛下がかしこくも彼の辞表を受理せられ、同時にロンバルジア・ヴェネチア王国の副大膳職に任じたもうことを知った。

【出典】スタンダール(大岡昇平訳)『パルムの僧院』(新潮文庫、2005)

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