この論文が発表されたのは、1996年である。当時盛んだったパソコン通信は、NIFTY SERVEにせよ、PC-VANにせよ、この10年間余のうちに消滅した。 しかし、会費をとらないパソコン通信とでもいうべきソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が普及しつつある今日、この論文を再読してみるのは無駄ではあるまい。ただし、ここでとりあげられたモデルにもっともあてはまるのは、都会の孤独な人間ではないかと思われる。
森岡正博は、ほぼ以下のように説く。ここでパソコン通信はSNSと置き換えて読んでも、大差はないと思う。
パソコン通信/インターネット(や電話という制限メディア)のコミュニケーション類型は二つある。(1) 情報通信と(2) 意識通信である。
(1) 情報通信は、情報のキャッチボールである。メディアを道具として使うもので、データ/用件/知識などの情報をAからBに、またはその逆に一方向/双方向に受けわたすことを目的とするメディアの使い方だ。
(2) 意識通信は、意識交流と心の変容である。それ自体の楽しみのために、たとえばメディアの中で誰かと会話すること自体を目的とするようなメディアの使い方だ。
現実には、この二つの側面は混じりあっているのだが、パソコン通信/インターネット(や電話という制限メディア)の場合、意識通信の側面がきわだっている。
深夜、チャットをするのは、用件の伝達というよりは、自分の寂しさをまぎらわし、不安をとり除き、ほんの少しのやすらぎや癒しを得る(自分の心の状態や形を変容させる)というのが大きな動機である。
意識通信のモデルには、7つの要素がある。すなわち、「意識交流場」「交流人格」「触手」「人格の形態」「自己表現」「意識」「構造」である。
人と人とが出会うときに意識交流場が設定され、そこでお互いが触手を触れあわせ、その触手を伝わってお互いの意識が流出する。流出した意識は意識交流場で交わりあい、相手の人格の内部へはいって、その底にある心の構造を変容させる。
チャットを例にとると、電話回線をつうじてチャット・ルームで出会い、Aからメッセージが流出し、Bからメッセージが返され、メッセージが交錯していき、それぞれの心の構造を変容させる。
意識通信のモデルの核心は、「触手」の触れあいと流出した意識の「意識交流」にある。「断片的人格」(匿名の相手が送りだす人格の断片にもとづいて受け手の想像力のなかで組みあげられたもの)の一部がアメーバのように長く伸び、会話する相手から伸びてきた触手とからまりあい、押したり引いたりする。
この触手の運動をつうじて、個人の意識がコミュニケーションの場(意識交流場)へ流れだす。お互いの触手から流れだした意識が混ざりあい、混ざり合った双方の意識は相手の意識の痕跡を自分の内に刻印し、ふたたび触手を逆につたわって自分の人格のなかへ逆流する。逆流した意識は、変容を受けており、さらに自分の心に影響を与えて、自分の心の底にある独自の傾向性にも影響を与えることがある。
「触手」「流動体としての意識」は、多方向コミュニケーションに関する新たなパラダイム創出のための装置だ。この装置を採用することで、たとえばチャットで時折訪れる異様な臨場感、画面から溢れでてくるようなコトバの肉感的なインパクトを説明できる、と思う。
【参考】森岡正博「意識通信の社会学」(井上俊・上野千鶴子・大澤真幸・見田宗介・吉見俊哉編『岩波講座・現代社会学第22巻 メディアと情報化の社会学』、岩波書店、1996、所収)
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森岡正博は、ほぼ以下のように説く。ここでパソコン通信はSNSと置き換えて読んでも、大差はないと思う。
パソコン通信/インターネット(や電話という制限メディア)のコミュニケーション類型は二つある。(1) 情報通信と(2) 意識通信である。
(1) 情報通信は、情報のキャッチボールである。メディアを道具として使うもので、データ/用件/知識などの情報をAからBに、またはその逆に一方向/双方向に受けわたすことを目的とするメディアの使い方だ。
(2) 意識通信は、意識交流と心の変容である。それ自体の楽しみのために、たとえばメディアの中で誰かと会話すること自体を目的とするようなメディアの使い方だ。
現実には、この二つの側面は混じりあっているのだが、パソコン通信/インターネット(や電話という制限メディア)の場合、意識通信の側面がきわだっている。
深夜、チャットをするのは、用件の伝達というよりは、自分の寂しさをまぎらわし、不安をとり除き、ほんの少しのやすらぎや癒しを得る(自分の心の状態や形を変容させる)というのが大きな動機である。
意識通信のモデルには、7つの要素がある。すなわち、「意識交流場」「交流人格」「触手」「人格の形態」「自己表現」「意識」「構造」である。
人と人とが出会うときに意識交流場が設定され、そこでお互いが触手を触れあわせ、その触手を伝わってお互いの意識が流出する。流出した意識は意識交流場で交わりあい、相手の人格の内部へはいって、その底にある心の構造を変容させる。
チャットを例にとると、電話回線をつうじてチャット・ルームで出会い、Aからメッセージが流出し、Bからメッセージが返され、メッセージが交錯していき、それぞれの心の構造を変容させる。
意識通信のモデルの核心は、「触手」の触れあいと流出した意識の「意識交流」にある。「断片的人格」(匿名の相手が送りだす人格の断片にもとづいて受け手の想像力のなかで組みあげられたもの)の一部がアメーバのように長く伸び、会話する相手から伸びてきた触手とからまりあい、押したり引いたりする。
この触手の運動をつうじて、個人の意識がコミュニケーションの場(意識交流場)へ流れだす。お互いの触手から流れだした意識が混ざりあい、混ざり合った双方の意識は相手の意識の痕跡を自分の内に刻印し、ふたたび触手を逆につたわって自分の人格のなかへ逆流する。逆流した意識は、変容を受けており、さらに自分の心に影響を与えて、自分の心の底にある独自の傾向性にも影響を与えることがある。
「触手」「流動体としての意識」は、多方向コミュニケーションに関する新たなパラダイム創出のための装置だ。この装置を採用することで、たとえばチャットで時折訪れる異様な臨場感、画面から溢れでてくるようなコトバの肉感的なインパクトを説明できる、と思う。
【参考】森岡正博「意識通信の社会学」(井上俊・上野千鶴子・大澤真幸・見田宗介・吉見俊哉編『岩波講座・現代社会学第22巻 メディアと情報化の社会学』、岩波書店、1996、所収)
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