語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『沈まぬ太陽』 ~事実とフィクションとのややこしい関係~

2010年05月28日 | 小説・戯曲
 国民航空(日本航空がモデルとされる)の過度の営利中心主義、組織的たるみ、そこから発生した事故(1985年8月12日の日本航空123便、ボーイング747SR-46墜落事故がモデルとされる)、遺族が物心両面に受けた深甚な被害、遺族に対する国民航空の不誠実な対応をえがく小説である。
 たとえば、労務管理。組合を分裂させ、昇格差別・不当配転・いじめを徹底的におこなう。端的な例は元委員長、恩地元(日本航空元社員の小倉寛太郎がモデルとされる)の不当配転である。通常なら僻地勤務は2年間のところを、10年以上中近東やアフリカへの赴任を強いられる。国見会長(カネボウ会長の伊藤淳二がモデルとされる)は恩地を抜擢するが、国見が解任されるや否や、恩地はまたしてもナイロビへ追いやられる。
 あるいは、整備。収入増をはかって他の航空会社の飛行機整備もおこなう。ために、自社の飛行機の整備がおろそかになる(小説では事故原因=圧力隔壁修理ミス説を採る)。
 交渉力のある組合は現場の声をトップに伝える機能を持つのだが、組合の分断、第二組合の御用組合化によって、上層部は現場の問題点を把握できなくなる。かくて、整備未了のまま飛び立つのはザラ、という事態に陥ったのだ。
 また、世界に例のない機長=管理職制度は、機長の経営者に対する発言を封殺した。
 経営能力より政治的能力の高いトップ、政治家との癒着、高級官僚の背後にうごくカネ、御用組合幹部の豪勢な汚職、なども描かれるが、いちいち言及するに耐えない。

   *

 山崎豊子は、長大な大作を次々にものするエネルギーの持ち主で、とりあげる主題も切り口もわりと好みなのだが、一点、権力者の陰険な手口をあれやこれや、しつこく描くのには閉口する。読んで愉快なものではないからだ。
 たとえば、利根川総理(中曽根康弘がモデルとされる)は三顧の礼をもって国見を会長に迎えるのだが、国見があまりといえばあまりな国民航空の実態に匙をなげ、総理のブレーン龍崎一清(瀬島龍三【注】がモデルとされる)へ辞職願を提出する。龍崎としては、総理のメンツをつぶすわけにはいかない、と裏で手をうち、国見を蚊帳の外においたまま解任の新聞発表へもっていく。悪いのは総理ではなくて国見だ、と宣伝するために。

 【注】山崎豊子『不毛地帯』の主人公、壱岐正のモデルでもある。

 ところで、小説はフィクションであり、現実とは別個の言語空間なのだが、本書の場合・・・・というより山崎のおおくの作品の場合、事実とフィクションとの境目が朦朧としている。前述の権力者の手口のくだりにみられるように、小説の登場人物と現実のモデルとがきわめて近接しているのだ。
 この結果、二つの問題が生じる。
 第一、小説はフィクションである以上、現実とは別個のもの、とオーソドックスな読み方をする人は、作家の想像力が生みだした作品のはずなのに生の資料をまるごと取りこんだ文章に出くわし、眉をひそめることになる。
 第二、小説を現実の出来事そのものと受け取って読む人には、「これは自分が知っている事実と相違する」とする点が問題となる。

 第一点は、山崎に何度も起きている盗作疑惑と関係する。
 作家は、自分の文章は自分の言葉で紡ぎださねばならないのだが、山崎は資料や他人の文章を(ほとんど)そのまま小説のなかに溶けこませて、しかも一言も断らないで平然としている。図々しいのはけっこうだが、自分の文体を守らず、手抜きしている作家を小説家と呼んでよいのだろうか。
 山崎作品の登場人物は類型化がはなはだしいが、これも山崎の手抜きから来ているのではないか。

 第二点は、森鴎外の『堺事件』の捏造ぶりを批判した大岡昇平にならって、事実を再構成するしかない。
 『レイテ戦記』で事実の壮大な再構成をおこなった大岡さえ、『堺港攘夷始末』は未完のまま、志なかばにして鬼籍にはいった。
 「国民航空」をめぐる事実を再構成する作業は容易ではないだろう、と思う。

□山崎豊子『沈まぬ太陽(1~5)』(新潮文庫、2001~2002)
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