語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『殺人課刑事』

2010年05月16日 | ミステリー・SF
 タイトルから容易に察せられるように、ミステリーである。
 ヘイリー唯一のミステリーだ、と念を押そう。
 よって、アーサー・ヘイリーのファンもミステリー・ファンも見のがせない。

 ヘイリーはたっしゃなストーリー・テラーである。本書も山あり谷ありで、起伏に富む。
 ヘイリー作品の登場人物のおおくは、ことに主人公は組織の善良な一員であり、誠実に行動する。対立する者がいるけれど、立場の相違から意見をたがえるか、相手に思慮が足りない結果対立するにすぎない。組織全体としては、事はうまく運ぶ。つまるところヘイリー作品は、予定調和説の産物なのだ。

 本書には真の悪党が登場する。ヘイリーのこれまでの作品系列からはみだすが、ミステリーも予定調和説に立つのだ。たいがいのミステリーでは、最後には悪は滅び、善は栄えるのだから。よって、ヘイリーがミステリーをものしたのは、ちっとも不思議ではない。

 ミステリーである以上、本書には犯罪者が登場する。猟奇的な、残虐きわまる連続殺人を犯す。その犯人を主人公マルコム・エインズリー部長刑事が理解する。元カソリック神父という特異な経歴ゆえに、犯人が残した黙示録にちなむメッセージを正確に読み解くのだ。

 カソリック神父は、悪にも理解が深い。
 「あるものは同じものによって知られる」というアリストテレスの哲学が正しいとすれば、エインズリーも犯罪者の素質をそなえているのか。
 そうかもしれない、と思う。暴力団を取り締まる警官は、暴力団めいた行動をとるが、エインズリーも悪党的に考えることができるのだろう。
 ただ、暴力団めいた行動をとっても、警官は暴力団とは一線を画する。
 エインズリーも、犯罪には走らない。あくまで愛妻家であり、家庭を守るよき市民である。自分の中に悪の要素があるから犯罪者を理解するが、理解にとどまり、共感はしない。きわどい一歩のちがいかもしれないが、この一歩は大きい。
 エインズリーふうの理解は、彼が勤務するマイアミ警察殺人課の掲示板に張りだされた「エインズリー語録」に明らかだ。一例を引こう。

  もっとも巧みに嘘をつく者はときにしゃべりすぎることがある。

□アーサー・ヘイリー(永井淳訳)『殺人課刑事』(新潮社、1998、後に新潮文庫、2001)
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書評:『影の兄弟』

2010年05月16日 | ミステリー・SF
 スターリンは、晩年、ユダヤ人を弾圧した。1959年の反ファシズム作家委員会役員の逮捕に始まり、1953年の医師団事件に至る。そのADA医、暗殺があり拷問があり、1953年3月5日まで、つまりスターリンの死まで粛正が続いた。
 ノンフィクションをよくし、史実をたくみに取り入れた国際謀略小説に定評があるバー=ゾウハーは、如上の史実を背景にドラマを組み立てた。すなわち本書、詩人トーニャの二人の息子の数奇な運命である。

 KGBのボリス・モロゾフ大佐は、ユダヤ系の詩人トーニャを愛し、策謀をめぐらせてその夫ヴィクトルと離婚させた。夫のヴィクトルの助命と引き替えにKGB高官モロゾフの妻となったトーニャは、二子ジミトリを産む。しかし、スターリンのユダヤ人迫害の余波を受けてトーニャは処刑され、その1年後にボリス自身も銃殺された。ボリスは失脚の直前に、トーニャと先夫の間に生まれたアレクサンドルを米国在住のニーナ、すなわちトーニャの姉のもとへ送りとどけ、実子ジミトリーをモスクワの孤児院へ避難させた。

 アレクサンドルは長じてソ連通の学者となり、ジミトリーはKGBの有能な暗殺要員として順調に出世した。
 アレクサンドルは長らく弟の所在を求めていたが、フランスへ留学中に再会をはたした。兄弟が接触するなかだちになったのは、ロマノフ王家の血筋をひくタチアナだった。実はタチアナはジミトリーの手先であると同時に彼の愛人でもあり、兄弟再会は孤独なジミトリーが手配してアレクサンドルをパリに招いたからであった。肉親だけがもたらすやすらぎ。

 ところが、何ということか、事情を知らぬアレクサンドルはタチアナを愛してしまったのだ。
 タチアナも表裏のないアレクサンドルに惹きつけられる。
 だが、二人の関係はたちまちジミトリーの探知するところとなった。瞋恚の炎をもやすジミトリー。
 CIA工作員フランコ・グリマルディは、かつて自分が管理するスパイを抹殺したジミトリーを深く恨み、打倒の機会をねらっていた。好機到来とばかり、身を隠したタチアナの所在をジミトリーに密告した。
 タチアナは惨殺された。
 復讐心に燃えたアレクサンドルは、フランコのもくろみどおり復讐を誓ってCIAの局員となった。かくて、骨肉あい食む熾烈な闘いがはじまった。

 本書を流れる時間は1953年、スターリンが鬼籍に入る約2か月前から現代(原著は1993年刊)までの半世紀にわたり、舞台はソ仏米の3か国にまたがる。
 本書は単なるスパイの暗闘ではなくて、二人の成長史でもあり、兄弟とその両親の視点からする現代史の一側面でもある。
 兄弟が憎悪をぶつけあう後半がやや図式的だが、結末のどんでん返し、明らかにされる衝撃的な事実は、アイデンティティとは何か、民族とは何かという哲学的考察を誘い、奥ゆきの深いエンターテインメントとなっている。
 原題はそっけなく、ただの『兄弟』。訳題は裏社会の住民、スパイを暗示して、本書の内容をより正確に反映している、と思う。

□マイケル・バー=ゾウハー(広瀬順弘訳)『影の兄弟(上下)』(ハヤカワ文庫、1998)
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【読書余滴】女体幻想

2010年05月16日 | 小説・戯曲


 表紙絵は、ポール・デルボーである。静寂がおおう超現実的な背景。紺青の空と海、空と海をわかつ一条の水平線。遠くの海岸の砂浜が手前の石膏色の廊下と分かちがたく繋がっている。向かって左手には扉が開け放たれ、部屋の中には樹が生えている。右手にも密集した樹々。中央やや右よりの正面に素裸の女が浅く腰掛け、両足をそろえ、両手をついて、少し伏し目がちにこちらを見ている。肉感的だが、血の気がなく、印象はほとんど人形に近い。

 本書は、題名から容易に察せられるとおり、エロチシズムを主題とする短編小説集である。
 女体の十の部位、すなわち乳房、背中、髪、脣、瞳、茂み、臍、掌、腰、顔を各編のタイトルとする。

 作品によっては、ほとんどポルノである。
 しかし、書かれている内容はポルノ的なのに、読後感は妙に禁欲的な印象を残すのはなぜだろうか。

 医師が人体にメスをふるうとき、人間を見るのではなく、単なるモノを見ているのではないか。
 本書には、メスをふるう医師のような目が終始つきまとっている。
 人間は全体として人間なのであって、部分に分解すると、命の欠けたモノと化してしまう。
 部分に分解された女体がもたらすものは、単なるモノか、せいぜい幻想にすぎない。
 
【参考】中村真一郎『女体幻想』(新潮文庫、1995。単行本は新潮社、1992)
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