語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『添乗員撃沈記』 ~小集団運営術~

2010年05月20日 | ノンフィクション
 紀行文を読むのは楽しい。それが自分が行ったことのある土地の話であれば、記憶をよみがえらせ、再訪した心地になる。
 それが自分が出かけたことのない土地であれば、かりそめの旅ができる。

 本書が語るのは、ギリシア、東アフリカ、ドイツおよびベネルクス、シルクロードの4つのツアーだ。
 たとえば、ギリシアでウゾーを水で割って飲むくだりに、地中海クルーズの記憶をよみがえらせる人もいるだろう。からりと晴れわたった青い空、紺碧の海。波をかきわけて進む白い船、そのデッキで喉をうるおすウゾー。だが、帰国してから飲んだウゾーには、あの美味は再現されなかった。松やにのまじるこの酒は、湿気のつよい国には合わない・・・・。

 本書はしかし、ありきたりの紀行文とは異なる。著者の立場は添乗員だから、話題はもっぱらツアーに参加した観光客になるのだ。
 長期にわたる海外ツアーの参加者は、時間とお金に余裕のある年配の方々がもっぱらだ。ということは、ひとクセもななクセもある人ばかりで、このあたりの個性発揮ぶりが本書の読ませどころになる。
 そして、客がなにかのきっかけでポロッと口にする人生の一端がまた興味深い。
 たとえば、ギリシア編の「米田耕蔵をはじめとする酔いどれ三人組」。セクハラ行為でスチュワーデスを泣かせるわ、著者も騒ぎのまきぞえをくって眼鏡を壊されるわ、ために夜もサングラスでとおす羽目におちいるわ。しかし、腹をわって話しあう機会があり、聞けばかくかくしかじか、読者も、なるほど・ザ・納得する背景があるのであった。

 ツアーは集団だから、リーダーシップ、集団凝集性といったグループダイナミックスが働いたりもする。添乗員は、この集団の構成員であるような、ないような微妙な立場だから、このヌエ的な視点からみたツアー集団の社会心理学的行動がおもしろい。読者は、翻って自分の属する小集団はいかに、とふりかえるキッカケになるだろう。
 たとえば、ドイツ~ベネルクス編のツアー集団内ミニ集団の対立。ミニ集団のそれぞれリーダーがいて、すったもんだが起きる。しかし、じつのところリーダー(意識旺盛な人)の意識過剰のきらいがあって、ミニ集団のいずれにも属しない「美女と野獣」カップルの謎が解けることによって大団円・・・・までいかずとも小団円くらいの結末を迎える。

 永年添乗員をつとめていれば、こういった話題に事欠かないだろう。
 しかし、永年の経験を続々と公表した添乗員は、著者くらいだろう。著者が今までに刊行した24冊は、大部分は添乗員時代を回顧したものだ。しかも、文庫書き下ろし作品が多い。ノンフィクション界の佐伯泰英と呼ぶべきか。
 克明なメモを残していたのかもしれない。しかし、かくも臨場感あふれる作品をものするほど鮮明な記憶が著者にのこったのは、惰性に流されることなく毎回新鮮な気持ちで仕事に取り組んだからではあるまいか。だとすると、このプロ精神、学ぶに足る。
 また、語り口がいい。生きがよくて、たくまざるユーモアがにじみでている。経験を積んだ者の余裕からくるユーモアかもしれない。この人、おおまかなようでいて細心、なにかと難題をおしつけられながらも、これも添乗員の役目と心得て、厄介事をそつなく(結果オーライ的に)さばくのだ。本書の随所にみられる目くばり、気くばりは、小集団運営術というものだ。これまた大いに学ぶに足る。

□岡崎大五『添乗員撃沈記』(角川文庫、2004)
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【読書余滴】日本語の音楽性

2010年05月20日 | 詩歌
 『現代俳句の論理』は、3章構成の俳論集で、第1章が「現代俳句の論理」、第2章が「現代俳句の展開」、第3章が現代俳句の主題」、末尾に「短さの恩寵」を付す。以下は、第1章の冒頭におかれている「定型について」のおおよそである。

 山本健吉は和歌を論じて次のようにいう。「枕詞・歌枕・序詞・本歌・季語その他、虚辞をつらねて、一見無内容とも見える詞章の中に、器をうつろにすることによって湧き出てくる、実に新鮮な花の香りのようなものがある。それを日本の短詩型文学の『いのち』と言っても、思想と言ってもいい」

 この議論を出発点に、平井照敏は、加藤楸邨、金子兜太、石原吉郎の定型論、土井光知、秋元不二男、別宮貞徳の音韻論を紹介しつつ、自分の定型論を組み立てていく。
 整理すると、次のようになるだろう。

 詩のことばは、語らぬ部分、沈黙の部分を地として成り立つ。
 加藤楸邨は沈黙の表現のダイナミスムを解き明かすが、自己表現ととらえるのは狭い。すぐれた作品は作者の意図、意欲を超えて、予期せぬかたちでやってくるのだ。それが「花の香り」で、ひろがりやまぬ真実のゆたかさ、茫洋とした湧出感が啓示のごとく出現する。
 ここに、俳句をつくるよろこびがある。

 定型は安住するものではない。石原吉郎が説くように、これに抵抗し、脱出するべきものである。定型は不定型との不断の戦いのうちに生まれる。「混沌としてひろがるものが、あることばを核として、贅肉をこそぎおとし、単純化され、きっぱりと定型に結晶するとき、定型の恩寵は訪れるであろう」
 「定型の抵抗を逆用して、感動を表現面の裏に沈め、詩形の底から返照してくる動きを生かす」のが俳句の方法である。

 俳句の定型は、二種類しか分類できない。
 二句一章または一句二章か、十七音を言い切る一句一章である。三句切れは統一感がなくなるので、古来嫌われている。

 定型の音楽性は、等時拍の日本語では西洋の詩のもつメロディは期待できず、リズムが基本になる。
 土井光知の音歩説は、「さいた」の三音を「さい・た」に細分し、二気力(2・1)が等時であることを検証した。
 秋元不二男は音歩説を援用して「妻二タ夜あらず二タ夜の天の川」のリズムをうまく説明したが、なぜ俳句の定型が五音と七音の組み合わせになるかという見通しに欠ける。

 この点、別宮貞徳の四拍子説は、俳句の内在律をよく説明する。
 「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣つくるその八重垣を」は「○○ヤクモ○タツ イヅモ○ヤヘガキ ○○ツマゴメニ○ ヤヘガキツクル○ ソノヤヘガキヲ○」のように四分の四拍子の一拍をつくる(別宮貞徳)。
 この理論を俳句の五・七・五定型に適用すると、八・八・八の四分の三拍子となる。
 俳句に字足らずが少ないのは拍数を減らし、四拍子を崩すからであり、反面、字余りも八音以内なら容易に四拍子になるため無理なく俳句として認められる(別宮貞徳)。

 しかし、俳句の音楽性は、拍子に限られない。
 ことばの基調音となる母音(「あ」は雄大、「え」は温雅、「い」は軽快・繊鋭、「お」は荘重、「う」は沈鬱)の音色や子音の特長的、個性的な音色が無限の変奏をもたらす。俳句は絵画性だけではない・・・・。

 ちなみに、三好達治によれば、「五個の母音A、E、I、U、Oのうち、E、Iの二つは痩せた、寒冷な感じを伴う側のもので、他の三者にその点で対立している。後の母音のA、O、Uはいずれも豊かな、潤った、温感の伴って響く性質をもち、就中Aは華やかに明るくまた軽やかに大きく末広がりに響く傾向をもつ」うんぬん(「【読書余滴】ミラボー橋の下をセーヌが流れ ~母音~」)。

【参考】平井照敏『現代俳句の論理』(青土社、1981)
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