語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【旅】フランス ~モン・ブラン~

2010年05月07日 | □旅
 道中、変化する山容を楽しんでいるうちにシャモニーの町(1,037m)に到着した。いたるところに優雅な山荘が、緑に囲まれて建っている。アルヴ川の北側にはホテルが林立している。この町の人口は1万人程度だが、夏季には3倍にも4倍にもふくらむらしい。
 モン・ブランに初登頂したソシュールとバルマの銅像を横目で見て過ぎる。銅像の指さす先がモン・ブランの山頂である。

 まずは、ロープ・ウェイに乗りこむ。
 60人乗りの鉄の箱がおもむろに動きはじめ、大地を離れた。地を舐めるように這い、急上昇していくにつれて、丘陵から緑がうせて岩肌の灰褐色が、そしてさらに灰褐色から氷雪の白色に変わっていく。町はどんどん小さくなり、掌くらいの大きさになると、盆地を囲む連山が全貌をあらわす。

 中間駅(2,310m)に降りた。寒気が身を包み、もはや半袖の軽装ではしのげない。セーターを着る。
 ナップ・ザックを背負った数人が駅を出て、下界へむかって歩き出す。

 呼吸をととのえたのも束の間、ふたたび鉄の箱の人となる。
 こんどは、刻一刻急速に眺望が開けていく。
 先ほどからキャピキャピ騒いでいた若い女族も鳴りを静め、窓の外に見いっていた。
 沈みゆく尾根に山頂。その向こうの、波うつ山岳が目にはいる。
 ロープ・ウェイは険しい絶壁に近づき、また遠ざかる。

 北の峰ことピトン・ノール(3,777m)の駅に降り立ち、トンネルを歩みだすと、不覚にも体がぐらりと傾いた。希薄な空気に一瞬貧血状態になったらしい。
 展望台に立つや、絶景が目を奪った。見上げれば、エギーユ・デュ・ミディの山頂(3,842m)が指呼の先にある。正面の高みにモン・ブラン(4,807m)の白くたおやかな、ほとんど優雅といってよい稜線が、青空をくぎって輝いている。
 見わたすかぎり、峻険な山また山。
 ノコギリの歯のように連なるシャモニー針峰群、剣のように屹立するベルト針峰。重畳する山なみ。陽を受けて赤く燃える岩屏風のような山塊は、いくたりかのアルピニストが北壁で命を落としたグランド・ジョラスか。そして、足元から下方になだれ落ちるボソン氷河。

 人類が登場する以前の世界である。人間の存在を必要としない自然がそこにある。
 頭をめぐらせば、遥かかなたに、孤影が見える。天をめざして雄壮にそそり立つマッターホルン(4,477m)である。
 雪片が頬をうった。古代から堆積した雪のひとカケラであろう。
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【読書余滴】勝海舟

2010年05月07日 | 歴史
 『海舟余波 -わが読史余滴-』は、咸臨丸船長として渡米した38歳から、明治32年(1899年)77歳で生涯を閉じるまでの半生を追う評伝である。
 江戸城明け渡しに多くの紙数を割く。このとき、海舟の立場は幕府側に立つネゴシエーターであった。抗戦する軍事力は幕府に残っていた。鎧袖一触、江戸は火に包まれるか。仮に無血開城しても慶喜は刑死、徳川家の財産は没収される可能性があった。
 海舟は、英仏をはじめとする列国の圧力を利用して、敵将西郷隆盛を相手に有利に交渉をすすめた。このへんの筆は冴え、海舟の内面に踏みこんで描くから、ほとんど小説を読むがごときである。

 しかし、官軍は、西郷を手玉にとった海舟を信頼しなくなり、その後の政治情勢はおしなべて海舟に不利な方向へ推移した。
 将軍慶喜も、海舟を信頼しなかったらしい。その才能ゆえに、あるいは幕府における人材不足ゆえに登用されたにすぎなかった。江戸城明け渡しの前日、打つべき手を打ったと満足して上野の寛永寺に赴き、ことの次第を報告したとたん、慶喜から面罵された。その後も慶喜は海舟に対して冷ややかだった。

 かかる仕打ちを受けながらも、前将軍と幕臣の生活維持に終始気をくばり続けた。
 その結果、亡くなるまで明治政府内に隠然たる影響力を保ち続けることになる。

 江藤淳は、海舟は幕府と官軍の双方から理解されなかった孤独な政治的人間としてとらえている。そして、海舟のもつ新しい国家観がその孤独を支えていた、という。
 だが、その国家観がいかなるものであったかは、本書では詳述されていない。ために、海舟の行動がいまひとつわかりにくい。
 そのいわゆる新しい国家観は、米国における見聞に着想を得たらしいが、海舟は将軍と幕府に終始忠実だったから、トクヴィルが見た民主主義国家とは別のものだにちがいない。

【参考】江藤淳『海舟余波 -わが読史余滴-』(文藝春秋社、1974。後に文春文庫、1984)
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書評:『魔王の島』

2010年05月07日 | 小説・戯曲
 柘植久慶は、じつに多産な作家だ。その作品が国会図書館に2009年末までに394件納本されている。ちなみに、同様に量産している作家、佐伯泰英でさえ、国会図書館には243件しか納本していない。

 柘植作品の特徴は、文章が明快なことだ。行動を綴るからだ。そして、主人公の行動は果断、考えは断定的で、誤読の余地はない(深読みの余地もない)。
 むかし鶴見俊輔は大藪春彦の文体に賛辞を贈ったが、いまなら柘植久慶の文体を賛嘆するのではあるまいか。柘植久慶には従軍経験があるから、大藪春彦のような武器フェティシズムがなく、この点でも賞賛が増すと思う。

 文章が明快だから、読後感は爽快である。
 ストーリーは類型的だから、現代の混沌たる小説を読むときのように頭を悩ます必要がなく、ますます爽快である。
 柘植作品のどの主人公も精神的にも肉体的にもタフで、戦士として優秀、じじつ戦闘すればかならず勝利するから、爽快にしんにょうが付く。
 かててくわえて、殊にハルキ・ノヴェルズのシリーズでは常に美人がかたわらに侍るから、読者はハードボイルド的主人公に代わって鼻の下を伸ばすことができる。西にジョームズ・ボンドあり、東に柘植久慶(作品の主人公)あり。

 人は誰しも怒り、攻撃的になることがある。
 かの高名な免疫学者、多田富雄さえ、ときの政府による診療報酬改定に直面して怒髪天を衝いた。「なおも君は忿怒佛として/怒らねばならぬ/怒れ 戦え 泣き叫べ」(『わたしのリハビリ闘争』、青土社、2007)。

 ましてや多田ほど紳士ではない私たちなら、怒りくるう事態にいくたびも直面する。
 ただ、怒りをもろにぶつけても、あまり好ましい結果は生まれないものだ(モラリスト的考察)。
 こうしたとき、柘植作品を読めば降圧剤の効果を得られる。主人公が自分に代わって悪党を成敗してくれるからである。

 さて、本書。
 柘植久慶には、『獅子たる一日を』(飛鳥新社、1988)や『獅子たちの時代』(集英社,、1990)のような佳作があるのだが、本書はあくまでハルキ・ノヴェルズの書き下ろしシリーズの一冊である。著者は、四月一日(わたぬき)とか鬼(きさらぎ)とかいった妙な、しかし実在する姓の主人公を登場させ、遊んでいる。読者は著者の遊びにとことん付き合い、登場人物とともにゲームするしかない。
 そう、ハルキ・ノヴェルズの柘植作品はいずれもゲームである。本書の場合、無人島サヴァバルの要素もあるので、降圧剤的効果は倍増する。

□柘植久慶『魔王の島』(角川春樹事務所、2010)
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