ヘミングウェイは、『移動祝祭日』で言っている。「もし誰でも運よく青年時代にパリに住んでいたら、残りの人生をどこで過ごそうとも、パリは自分についてまわる。パリは、持って歩ける楽しい祭りなのだから」と。
キャパにも青春時代のパリという「移動祝祭日」があったし、加賀乙彦や天沢退二郎にもあった。
しかし、誰にもそれぞれの「パリ」があり、「移動祝祭日」があるのだ、と思う。
そして、多田富雄の「パリ」は、コロラド州の州都デンバーだった。
本書の前半は、デンバー生活の思い出にあてられている。
著者は、2回デンバーで暮らした。さいしょは1964年初夏から2年間。医学部大学院を卒業した年のことで、30歳になったばかりだった。「小さな研究所」の研究員として赴任し、月給225ドルが支給された。1ドル360円の時代で、裕福ではないが、単身生活の青年には十分だった。二度目は、1968年から1年間。出立の年に娶った新妻が同行した。
デンバー回想は、おおきく3つに分かたれる。
第一、家主のドイツ系老夫妻との交際である(『春楡の木陰で』)。著者は、貧しい年金生活者の、ことに細君には大きな印象をあたえたらしい。英語の個人教授を受け、著者もなにかと気くばりしている。彼女の死にあたっては、葬儀のため動いた。
第二、行きつけのバー「リノ・イン」でふれた下町の人情である(『ダウンタウンに時は流れて』)。研究所や日本人会では噂になったらしいが、著者は「危険」な地区で出会った個性的な人々を記録している。著者は、彼らの仲間として受け入れられたらしい。たとえば、帰国の予定をバーで告げたとき、飲み仲間の先住民から「兄弟よ」と呼びかけられた。俺の養子になって米国に残れ・・・・。
第三、中華料理店で出会ったウェイトレス、チエコの運命である(『チエコ・飛花落葉』)。彼女は、いわゆる戦争花嫁として渡米したが、離婚。けなげに母子世帯をまもっていた。著者は、留学を終えてからも学会などで再三渡米し、コロラド大学で講演も行っているが、こうした機会にデンバーを再訪してなじみの人々と旧交をあたためた。手紙の交換もあり、チエコとの接触はつづいた。その悲惨な自死にいたるまで。
『跋に代えて』で、シェークスピアを引用し、著者はいう。得体のしれない幻を追いかけてダウンタウンをうろつきまわったあの頃は、若さゆえに奇跡的に現出した「私の黄金の時」だった、と。
鶴見和子との往復書簡集『邂逅』(藤原書店、2003)によれば、著者は我が意のままに動いてくれない自分の体に「非自己」を考えている。
おそらく著者にとって青春回想は、半身不随となった今の心理学的「自己」と過去のそれとの連続性を確かめる作業だったのだろう、と思う。
本書の後半の主題は、さまざまだ。観劇からスイスの免疫学の泰斗ニールス・カイ・イェルネの人物素描まで。
わけても『わが青春の小林秀雄』に注目したい。多田富雄は医学者だったが、文学者でもあった。後者を形作る原点がここに記されている、と思う。
この回想につづく『花に遅速あり』は、著者の叔母の逝去にあたって書かれたが、そのなかにこんな文章がある。著者の父親は長男だったが、叔母はその7人兄妹の「末っ子だったので、私の叔父、叔母という関係では、最後の生き残りだった。多少の狂いはあったが、みんな順序正しく死んでいった」。
「順序正しく死んでいった」・・・・この文体は、小林秀雄の弟子ともいえる大岡昇平の『俘虜記』を思わせる。事実を正確にたどりながら、いくぶんの諧謔をこめて、しかも端正である。
著者は、医学という普遍的な科学に生涯の多くの時間を費やしたが、半身不随となった身を内面で支えつづけたのは、特殊をとり扱う文学の力ではなかったか。
文学は・・・・芸術一般は、と広くとらえてもよいが、享受することもまたひとつの創造である。そして、創造力は「堅固な安定した『自己』ではなくて環境に新たに適応してあらたに生成した『自己』」(『邂逅』)を生む力をもたらすだろう。
本書は、そんなことを考えさせる。
□多田富雄『ダウンタウンに時は流れて』(集英社、2009)
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キャパにも青春時代のパリという「移動祝祭日」があったし、加賀乙彦や天沢退二郎にもあった。
しかし、誰にもそれぞれの「パリ」があり、「移動祝祭日」があるのだ、と思う。
そして、多田富雄の「パリ」は、コロラド州の州都デンバーだった。
本書の前半は、デンバー生活の思い出にあてられている。
著者は、2回デンバーで暮らした。さいしょは1964年初夏から2年間。医学部大学院を卒業した年のことで、30歳になったばかりだった。「小さな研究所」の研究員として赴任し、月給225ドルが支給された。1ドル360円の時代で、裕福ではないが、単身生活の青年には十分だった。二度目は、1968年から1年間。出立の年に娶った新妻が同行した。
デンバー回想は、おおきく3つに分かたれる。
第一、家主のドイツ系老夫妻との交際である(『春楡の木陰で』)。著者は、貧しい年金生活者の、ことに細君には大きな印象をあたえたらしい。英語の個人教授を受け、著者もなにかと気くばりしている。彼女の死にあたっては、葬儀のため動いた。
第二、行きつけのバー「リノ・イン」でふれた下町の人情である(『ダウンタウンに時は流れて』)。研究所や日本人会では噂になったらしいが、著者は「危険」な地区で出会った個性的な人々を記録している。著者は、彼らの仲間として受け入れられたらしい。たとえば、帰国の予定をバーで告げたとき、飲み仲間の先住民から「兄弟よ」と呼びかけられた。俺の養子になって米国に残れ・・・・。
第三、中華料理店で出会ったウェイトレス、チエコの運命である(『チエコ・飛花落葉』)。彼女は、いわゆる戦争花嫁として渡米したが、離婚。けなげに母子世帯をまもっていた。著者は、留学を終えてからも学会などで再三渡米し、コロラド大学で講演も行っているが、こうした機会にデンバーを再訪してなじみの人々と旧交をあたためた。手紙の交換もあり、チエコとの接触はつづいた。その悲惨な自死にいたるまで。
『跋に代えて』で、シェークスピアを引用し、著者はいう。得体のしれない幻を追いかけてダウンタウンをうろつきまわったあの頃は、若さゆえに奇跡的に現出した「私の黄金の時」だった、と。
鶴見和子との往復書簡集『邂逅』(藤原書店、2003)によれば、著者は我が意のままに動いてくれない自分の体に「非自己」を考えている。
おそらく著者にとって青春回想は、半身不随となった今の心理学的「自己」と過去のそれとの連続性を確かめる作業だったのだろう、と思う。
本書の後半の主題は、さまざまだ。観劇からスイスの免疫学の泰斗ニールス・カイ・イェルネの人物素描まで。
わけても『わが青春の小林秀雄』に注目したい。多田富雄は医学者だったが、文学者でもあった。後者を形作る原点がここに記されている、と思う。
この回想につづく『花に遅速あり』は、著者の叔母の逝去にあたって書かれたが、そのなかにこんな文章がある。著者の父親は長男だったが、叔母はその7人兄妹の「末っ子だったので、私の叔父、叔母という関係では、最後の生き残りだった。多少の狂いはあったが、みんな順序正しく死んでいった」。
「順序正しく死んでいった」・・・・この文体は、小林秀雄の弟子ともいえる大岡昇平の『俘虜記』を思わせる。事実を正確にたどりながら、いくぶんの諧謔をこめて、しかも端正である。
著者は、医学という普遍的な科学に生涯の多くの時間を費やしたが、半身不随となった身を内面で支えつづけたのは、特殊をとり扱う文学の力ではなかったか。
文学は・・・・芸術一般は、と広くとらえてもよいが、享受することもまたひとつの創造である。そして、創造力は「堅固な安定した『自己』ではなくて環境に新たに適応してあらたに生成した『自己』」(『邂逅』)を生む力をもたらすだろう。
本書は、そんなことを考えさせる。
□多田富雄『ダウンタウンに時は流れて』(集英社、2009)
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