ジュネーブにはこんな立て札が立っているそうだ。
「ゴミを路上に捨てたくなったら、1キロ先へ出かけてください。そこはフランス領です」
ことほど左様にスイス人は清潔好きである。
街の掃除も大がかりで、まず小型清掃車が道路のすみずみまでゴミをはじき出し、次いで大型清掃車がゴミを吸い取り、最後に散水車が仕上げする。こうした作業が週に3回おこなわれている。
美観を保つために、花壇はもとよりアパートのベランダにも花を飾ることが義務づけられているらしい。地方によっては花の種類や色も統一されているそうだ。かかる努力を払って、絵葉書のように美しいスイスの街が仕立てあげられるのだ。
しかし、花々の上に針金をはって、それに沿って電気カッターを走らせて高さをそろえる、というのはやりすぎではあるまいか。
スイス人には、独特の割りきった思考があるらしい。
その機能主義、その合理主義は、WHOやILOなど重要な国際機関が地元にありながら、中立維持のため、自衛のみの軍事行動をうたう憲法を守るために国連への加盟をながらく拒み続けてきた点にもみられる。
カントをして散策の時間を忘れさせた教育論『エミール』の著者は、5人の私生児を聖ヴァンサン・ド・ポールの乳児養育院に送りこみ、父子は生涯再会することはなかった。「ジュネーブの人」と自称するにふさわしい割りきり方である。
二度目にジュネーブを旅した夜、しばし涼をもとめてカフェの前の舗道にならべてあるテーブルについた。
ワインよりはビール・・・・そのとき、ポン、ポンと大きな音が響いてきた。
ん? 銃声?
あたりを見わたすと、隣のテーブルの若者が、私の背後の空を指さした。花火であった。
花火など珍しくもない、とスイス的に割りきって、私たちは会話をつづけた。
しかし、あとで聞くと、レマン湖上の花火は壮観だったらしい。惜しいことをした。
私の後悔と同程度でよいから、ジャン・ジャックは子どもたちに対する措置を後悔することがあったのだろうか。それならばすこしは許せる。
カルヴァニスムは、スイス人の生活を律し、商工業の担い手を理念的に支えた。
旧市街のはずれ、バスチョン公園の一角に宗教改革記念碑がたつ。巨大な4体の像は、改革に奔走したファレル、カルヴァン、ベーズ、ノックスの聖人たちである。当時の市民にとって、もしかすると今も、これら聖人たちは、高さ5メートルにふさわしい大きさをもっていた。
ジュネーブの旧市街には、古い街なみが保存されている。デコボコの石畳の街路、17世紀の建築様式の家居、サン・ピエール教会の鋭塔。高級住宅街の壁の随所に石碑がはめこんである。
グラン通り40番地の石碑には、横顔のレリーフ入りで、J・J・ルソーが「1712年6月28日この家で生まれた」と刻まれている。
通りは狭く、ガス燈らしきがところどころに。時計師の息子ジャン・ジャックが目にしたと同じ光景を3世紀後の私たちも見ることができるわけだ。
ルソーは過ぎ去ったが、私は生きている。私も、いずれ確実に過ぎ去る。
歴史的記念物の前に立つと、生の一回性を痛いほど感じる。石の文化の住民は、こうした緊張感を常に感じているにちがいない。
↓クリック、プリーズ。↓
「ゴミを路上に捨てたくなったら、1キロ先へ出かけてください。そこはフランス領です」
ことほど左様にスイス人は清潔好きである。
街の掃除も大がかりで、まず小型清掃車が道路のすみずみまでゴミをはじき出し、次いで大型清掃車がゴミを吸い取り、最後に散水車が仕上げする。こうした作業が週に3回おこなわれている。
美観を保つために、花壇はもとよりアパートのベランダにも花を飾ることが義務づけられているらしい。地方によっては花の種類や色も統一されているそうだ。かかる努力を払って、絵葉書のように美しいスイスの街が仕立てあげられるのだ。
しかし、花々の上に針金をはって、それに沿って電気カッターを走らせて高さをそろえる、というのはやりすぎではあるまいか。
スイス人には、独特の割りきった思考があるらしい。
その機能主義、その合理主義は、WHOやILOなど重要な国際機関が地元にありながら、中立維持のため、自衛のみの軍事行動をうたう憲法を守るために国連への加盟をながらく拒み続けてきた点にもみられる。
カントをして散策の時間を忘れさせた教育論『エミール』の著者は、5人の私生児を聖ヴァンサン・ド・ポールの乳児養育院に送りこみ、父子は生涯再会することはなかった。「ジュネーブの人」と自称するにふさわしい割りきり方である。
二度目にジュネーブを旅した夜、しばし涼をもとめてカフェの前の舗道にならべてあるテーブルについた。
ワインよりはビール・・・・そのとき、ポン、ポンと大きな音が響いてきた。
ん? 銃声?
あたりを見わたすと、隣のテーブルの若者が、私の背後の空を指さした。花火であった。
花火など珍しくもない、とスイス的に割りきって、私たちは会話をつづけた。
しかし、あとで聞くと、レマン湖上の花火は壮観だったらしい。惜しいことをした。
私の後悔と同程度でよいから、ジャン・ジャックは子どもたちに対する措置を後悔することがあったのだろうか。それならばすこしは許せる。
カルヴァニスムは、スイス人の生活を律し、商工業の担い手を理念的に支えた。
旧市街のはずれ、バスチョン公園の一角に宗教改革記念碑がたつ。巨大な4体の像は、改革に奔走したファレル、カルヴァン、ベーズ、ノックスの聖人たちである。当時の市民にとって、もしかすると今も、これら聖人たちは、高さ5メートルにふさわしい大きさをもっていた。
ジュネーブの旧市街には、古い街なみが保存されている。デコボコの石畳の街路、17世紀の建築様式の家居、サン・ピエール教会の鋭塔。高級住宅街の壁の随所に石碑がはめこんである。
グラン通り40番地の石碑には、横顔のレリーフ入りで、J・J・ルソーが「1712年6月28日この家で生まれた」と刻まれている。
通りは狭く、ガス燈らしきがところどころに。時計師の息子ジャン・ジャックが目にしたと同じ光景を3世紀後の私たちも見ることができるわけだ。
ルソーは過ぎ去ったが、私は生きている。私も、いずれ確実に過ぎ去る。
歴史的記念物の前に立つと、生の一回性を痛いほど感じる。石の文化の住民は、こうした緊張感を常に感じているにちがいない。
↓クリック、プリーズ。↓