語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【言葉】小泉改革、診療報酬改定

2010年05月06日 | 医療・保健・福祉・介護
 鶴見和子さんは1995年12月24日に脳出血で倒れました。左半身の運動能力は失われたが、言語能力と認識能力は完全に残された。一年も過ぎた1997年に、日本のリハビリの草分け、東大元教授上田敏氏に出会い、茨城県にあったリハビリ病院で、上田氏の主張する「目的志向型のリハビリ」の訓練に精を出しました。一言で言えば、一人ひとりの患者の自己決定権に基づいて行うオーダーメイドのリハビリです。
 この療法のおかげで、1997年には適当な補助具を使えば、何十メートルか歩けるようになったのです。(中略)
 それが2002年に床に転倒して大腿骨を骨折し手術を受けたために、歩くのが無理になっても、月二回派遣されてくる理学療法士について、リハビリの訓練をたゆまず続けました。
 ところが今まで月二回理学療法士を派遣していた二つの整形外科病院から、突然制度がかわり、あと三ヶ月だけは、月一回は派遣できるが、その後は打ち切りになると宣言されました。後は自主トレーニングに励んでくださいといってきたのです。ついでに、これは小泉さんの政策ですと告げられたといいます。
 それから三ヶ月もたたないうちに、それまでベッドから楽に起き上がって、車椅子に移動できたのに、急に背中が痛くなって起き上がるのが困難となったのです、そして日増しに痛みは強くなり日常生活が不自由になりました。(中略)
 彼女は大腸癌でまもなく亡くなりましたが、その前にリハビリを打ち切られ、とうとう起き上がれなくなった現実が深く影を落としています。直接の死因は癌でも、間接的にはリハビリ打ち切りがこの碩学を殺したのです。
 彼女も生前しきりに「小泉に殺される」といっていたそうです。

【出典】多田富雄『わたしのリハビリ闘争』(青土社、2007)
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【大岡昇平ノート】『愛について』

2010年05月06日 | ●大岡昇平
 本書は、風俗としての愛の諸相を描く連作小説である。
 愛はもっぱら男女の恋愛だが、家庭をもった夫婦の愛情も勿論あるし、親が子に子が親に対する愛がある。恋愛まで展開しない友情があり、アイドルへの憧れがあり、年上の同性に対する慕情がある。不倫もあれば、火遊びもあり、ありとあらゆる愛がすくいとられていて、無いのは人類愛くらいだ。昇天してなお愛に悶える魂魄を描く、SF的な一章さえある(第九章「地球光」)。
 本書で記される愛は、いずれも不安定だ。相互に愛し合う堅固な夫婦関係のように見えて、いや、たしかに愛し合ってはいるのだが、妻が夫に隠していた過去があって、それが亡霊のように甦ることで新たな秘密が生まれ、結果として二人が引き裂かれるケースもある。

 再三登場し、全体の主人公の位置をしめる織部春夫は、二つの愛を経験する。路傍で話しかけられたのをきっかけに結婚し、2年間、幸福を味わう。これが第一の愛。その妻を交通事故で失い、亡妻の面影を求めて別の少女と出会って、同棲する。これが第二の愛。
 妻には過去があって、その過去は別の物語をなす。
 少女には最初の男がいて、これまた別の物語が展開する。少女も交通事故に合うが、命は助かる。しかし・・・・。

 小説の至るところで、愛についての考察が入る。
 たとえば、「ロミオとジュリエットの悲劇は、突然知った恋の情熱に、若い恋人達が適応を誤った例といわれる。/二人がかいま見たのはまさしく人生を美しく楽しく、生きるに値するものとする感情だった。しかし二人はあまりに若く、ものを知らなかったので、モンタギュ、カピュレット両家の争いという現実を前にして、どうしてその恋を実現してよいかわからなかった。二人は、自分の恋を実現するために、何の努力もしなかった。/悲劇の本質は、主人公が何事かをなし遂げようとし、神や運命にはばまれて、破滅するところにあるとすれば、『ロミオとジュリエット』は悲劇とはいえない」
 著者の愛したスタンダールによれば、小説のなかに政治をもちこむのは音楽会で発砲するようなものだが、小説の中に批評が挿入されるのも似たようなものではあるまいか。ただし、スタンダールはかく言うものの、平然と政治を持ちこんでいるし、『愛について』の作者もまた批評は小説の一部と心得ているらしい。

 毎日出版文化賞、新潮社文学賞 を受賞した『花影』では、磨きあげた文体でヒロインの死にいたるまでの緊迫した刻々を謳いあげた。しかし、その後大岡昇平の文体は変わった。どうやらモデル問題でいろいろ言われて嫌気がさしたらしい。
 『野火』にせよ『武蔵野夫人』にせよ、初期の作品では作者は、いわば登場人物とともに作品のなかを生きていた。だから、ストーリーがどう展開するのか、作者自身にも予想がつかない、とでもいうべき緊張感が全編に漲っていた。しかし、『花影』以後、作者は作品の外側に位置し、初期作品のようには作品のなかに没入しない。構成は安定するのだが、作品は小粒になった印象をぬぐいがたい。作者の厳格なコントロール下におかれた登場人物は、しばしばあやつり人形のように動き、なまじ作者が先を見とおし過ぎているため意外性を欠いた。
 作者が作品のなかを生きるような作品の再登場は、『レイテ戦記』を待たねばならなかった。「死んだ兵士たちに」とエピグラフにあるとおり、作者は全身全霊を作品のなかに沈め、死者とともに作品のなかを生きた。歴史だから結末は明かなのだが、資料を発掘し、読みこみ、事実を再構成する過程で、作者自身予想のつかなかった世界が展開した。そして、『レイテ戦記』は空前の傑作となった。 

 本書は、『花影』以後の風俗小説のうちで、もっとも充実した作品だ。やはり作者は作品の外に身を置いているし、登場人物はチェスの駒のような動きをするのだが、それぞれの存在感を発揮している。これは、『レイテ戦記』とほぼ同時期に刊行されたことと無関係ではない、と思う。
 『愛について』は1970年刊、『レイテ戦記』は1971年刊だが、前者の後者に対する関係は、『武蔵野夫人』の『野火』に対する関係とおなじではなかろうか。『武蔵野夫人』は『野火』と前後交錯して書かれ、『野火』のモチーフが一部こちらで使用されている(『大岡昇平集』第3巻の「作者の言葉」、岩波書店、1982)。
 本書は、平和ニッポンを舞台とし、戦争はちっとも登場しないが、登場人物の市民的幸福はもろく、その愛は死と隣合せである。『レイテ戦記』の兵士たちの生と死に呼応している、と思う。

□大岡昇平『愛について』(新潮文庫、1973)
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【読書余滴】人はなぜ自殺しないのか

2010年05月06日 | 批評・思想
 『考える日々Ⅲ』は、「サンデー毎日」に1999年12月26日号から1年間連載した「形而上時評」の集成である。
 たとえば、『そうでなければ、それまでだ』は、当時起きた少年による凶悪犯罪をとりあげ、翻って大人の側の去就を求める。

 いわく、NHKスペシャルは「理解してあげよう」「話してごらん」というが、一見ものわかりがよさそうに見えて、こんなことをいうのは大人に自信がないからだ、と池田はいう。
 少年が望んだように「死ぬこととはどういうことなのか」を知りたければ、少年自身が死んでみればよい。事実、かつて少年と同じ望みをいだいた者は、自殺を考えるか、実際に自殺した。
 しかるに、少年は自分を殺すかわりに他人を殺した。自分が悩むことと他人を殺すこととの間には、何の関係もない。自殺の代わりに他殺を選ぶのは、悩み方が足りないからであり、注目されたいからだ。自分よりも他人を見ている。それは単に甘えているだけのことだ。
 少年がほんとうに自殺すると困る、と人はいう。「しかし、なぜ自殺せずにわれわれは生きているのだろうか。この問いを私はその人に返したい。自殺の可能性と不可能性、人生の意味と無意味、それらについての徹底的な思索を経ていない人生の不安定は、その人自身がよく知っているはずである。なぜ子供にそれを拒むのか」

 在野で死について語りつづけ、自らもガンで早すぎる死(享年46)を迎えた池田晶子のことばは重い。

【参考】池田晶子『考える日々Ⅲ』(毎日新聞社、2000)
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