鶴見和子さんは1995年12月24日に脳出血で倒れました。左半身の運動能力は失われたが、言語能力と認識能力は完全に残された。一年も過ぎた1997年に、日本のリハビリの草分け、東大元教授上田敏氏に出会い、茨城県にあったリハビリ病院で、上田氏の主張する「目的志向型のリハビリ」の訓練に精を出しました。一言で言えば、一人ひとりの患者の自己決定権に基づいて行うオーダーメイドのリハビリです。
この療法のおかげで、1997年には適当な補助具を使えば、何十メートルか歩けるようになったのです。(中略)
それが2002年に床に転倒して大腿骨を骨折し手術を受けたために、歩くのが無理になっても、月二回派遣されてくる理学療法士について、リハビリの訓練をたゆまず続けました。
ところが今まで月二回理学療法士を派遣していた二つの整形外科病院から、突然制度がかわり、あと三ヶ月だけは、月一回は派遣できるが、その後は打ち切りになると宣言されました。後は自主トレーニングに励んでくださいといってきたのです。ついでに、これは小泉さんの政策ですと告げられたといいます。
それから三ヶ月もたたないうちに、それまでベッドから楽に起き上がって、車椅子に移動できたのに、急に背中が痛くなって起き上がるのが困難となったのです、そして日増しに痛みは強くなり日常生活が不自由になりました。(中略)
彼女は大腸癌でまもなく亡くなりましたが、その前にリハビリを打ち切られ、とうとう起き上がれなくなった現実が深く影を落としています。直接の死因は癌でも、間接的にはリハビリ打ち切りがこの碩学を殺したのです。
彼女も生前しきりに「小泉に殺される」といっていたそうです。
【出典】多田富雄『わたしのリハビリ闘争』(青土社、2007)
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この療法のおかげで、1997年には適当な補助具を使えば、何十メートルか歩けるようになったのです。(中略)
それが2002年に床に転倒して大腿骨を骨折し手術を受けたために、歩くのが無理になっても、月二回派遣されてくる理学療法士について、リハビリの訓練をたゆまず続けました。
ところが今まで月二回理学療法士を派遣していた二つの整形外科病院から、突然制度がかわり、あと三ヶ月だけは、月一回は派遣できるが、その後は打ち切りになると宣言されました。後は自主トレーニングに励んでくださいといってきたのです。ついでに、これは小泉さんの政策ですと告げられたといいます。
それから三ヶ月もたたないうちに、それまでベッドから楽に起き上がって、車椅子に移動できたのに、急に背中が痛くなって起き上がるのが困難となったのです、そして日増しに痛みは強くなり日常生活が不自由になりました。(中略)
彼女は大腸癌でまもなく亡くなりましたが、その前にリハビリを打ち切られ、とうとう起き上がれなくなった現実が深く影を落としています。直接の死因は癌でも、間接的にはリハビリ打ち切りがこの碩学を殺したのです。
彼女も生前しきりに「小泉に殺される」といっていたそうです。
【出典】多田富雄『わたしのリハビリ闘争』(青土社、2007)
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