免疫学者にして新作能作者の多田富雄と社会学者にして歌人の鶴見和子の往復書簡集である。期間は、2002年5月31日から2003年3月20日まで。それぞれ4信ずつ、計8信が交換された。
碩学によるやりとりはじつに刺激的で、巻をおくあたわず、といって過言でない。丸谷才一は、対話とは「共同作業による真実の探求みたいなものだ」といっている(丸谷才一・山崎正和『半日の客一夜の友』、文春文庫、1998)。本書にも「共同作業」が見てとれる。
たとえば、「自己」の概念。多田は細胞の階層を越える進化も「自己組織化」の原理で説明できるとし、鶴見は人間が階層を超えるためには「自己」という接点があるといい、認識が一致していることに多田は感嘆している。
ところで、専攻する学問は異なるが、二人には共通の要素がある。すなわち、重度の身体障害である。
往復書簡がはじまったころの二人は、つぎのような状況にあった。
多田は、2001年5月2日(67歳)、脳梗塞発病。即日金沢大学医学部付属病院入院。重度の右片麻痺、嚥下障害、構音障害。都立駒込病院、東京都リハビリテーション病院を転々とした。10か月後に退院。東京大学医学部付属病院に週2回通院し(歩行訓練等)、併せて都立大塚病院に週1回通院していた(構音の訓練)。
鶴見は、1995年12月24日(77歳)、脳出血発病。左片麻痺。1997年、会田記念病院(茨城県守谷町)で、「目的志向型のリハビリ」を開始。同年、補助具を装用して数十メートル歩行可能なまで回復。その後歩行距離は伸びた。しかし、2002年5月31日に、往復書簡の第一信をしたためたとき、その直前に転倒して大腿骨を骨折していた(のちに手術を受けたが、歩行困難となった)。
要するに、二人とも脳血管障害による半身不随で、リハビリテーション中だったのだ。両者とも知的能力は保持されたが、多田は左脳、鶴見は右脳を損傷したので、残存機能が異なる。多田は、重度の構音障害のため発語がなく、入院中に習いおぼえたワープロを自己表現の主な手段としていた。他方、鶴見は、言語能力は保持され、闘病中もおうせいに著作活動を展開していた。
まえがきに相当する冒頭の二人の文章のうち、鶴見の「回生」が興味深い。障害を逆手にとって、かねてから研究していた「内発的発展論」を深化させているのだ。
第一、闘病と伝統的短詩型文学との親和。
倒れてからいっときも意識をうしなうわず、その晩からことばが短歌のかたちで湧きだしてきた、という。その後の書簡によれば、短歌は発想の源泉となったらしい。
俳句、川柳、連句、短歌は、リハビリテーションと相性がよいらしい。全国各地の病院や老人保健施設などで実施されているし、脳梗塞で倒れた野坂昭如は、『ひとり連句春秋』(ランダムハウス講談社、2009)という本まで出している。鶴見は知ってか知らずか、芸術療法を自分で自分に対して施行したわけだ。
第二、障害と自然との親和。
鶴見は、ふたたび歩きはじめた1997年が「回生」元年だ、という。人類が直立して歩行した意義を再発見しているのだ。ふたたび歩きはじめてから、全身に酸素がゆきわたる感じで、頭がはっきりし、ひらめきがぽっぽこ出てくるようになったらしい。歩けない場合と歩く場合とでは文化がちがう、ものの見え方がちがう、とまでいう。
健康なときは、常に競争相手を意識して仕事をし、マックス・ウェーバーのいわゆる「金力・名声・権力」をめざす競争を多かれ少なかれやってきた。しかし、死者と生者が半々に自分のなかにある状況になって、自然の事物が鋭敏に感じ取られるようになったのだ。ここから共生の思想まで遠くない。
往復書簡から補足すると、日々の天候により足の痺れぐあい、痛みぐあいが時々刻々ちがうから、それだけ自分は自然に近くなった、という。「山川草木鳥獣虫魚のふるまいから自分が学ぶ」ことが初めてできるようになり、これが「新しい人生」を形づくったのだ。
第三、鶴見社会学の深化。
会田記念病院では患者の自己決定権にもとづくオーダーメイドの「積極的リハビリテーション・プログラム」(上田敏)に即して訓練を受けたのだが、倒れる前には理屈として考えていた「内発的発展論」が実感として体得できた、という。
社会の発展の理論は、「人間の発展の理論」でもある、と断じる。80歳を超えてなお「発展」を旗印としてかかげるのだ。後進への励ましでないはずはない。さらに、一番の弱者の立場から日本を開いていく「内発的発展論」というのがある、ともいう。ここで一番の原動力となるのがアニミズムだ、とも。ここにも共生への志向が見受けられる。
往復書簡から補足すると、鶴見は左片麻痺の回復はあり得ないと宣告され、新しい人生を切り拓くと覚悟を決めた。そして、アメリカ社会学からの借り物のことばを捨て、やまとことばで語るようになった。
第四、学問と道楽の親和。
歌、踊り、着物は鶴見の道楽だったが、「内発的発展論」はこれら三つの道楽によって育まれた感性の所産であった。道楽と学問とのつながりを覚ったのは死に至る病のおかげだった、という。ここでも障害を逆手にとって新たな発見をしている。
脳血管障害は加齢とともに発生率が高まる。事は脳血管障害にかぎらない。大岡昇平も晩年は心臓弁膜症に悩まされた。そして、誰しも齢をとるのだから、人はいつかは障害のある身となる可能性が高い。いや、疾患にかぎらず、年齢を問わず、過労、労働災害や交通事故で障害をもつにいたることもある。
したがって、問題は障害者にならないことではない。ひとたび体が不自由になったとき、どう対処するかである。
この往復書簡は、重度身体障害に陥った者の見事な対処をしめす。げにも「魂は物質に抵抗するものである」(アラン)。
□多田富雄/鶴見和子『邂逅』(藤原書店、2003)
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碩学によるやりとりはじつに刺激的で、巻をおくあたわず、といって過言でない。丸谷才一は、対話とは「共同作業による真実の探求みたいなものだ」といっている(丸谷才一・山崎正和『半日の客一夜の友』、文春文庫、1998)。本書にも「共同作業」が見てとれる。
たとえば、「自己」の概念。多田は細胞の階層を越える進化も「自己組織化」の原理で説明できるとし、鶴見は人間が階層を超えるためには「自己」という接点があるといい、認識が一致していることに多田は感嘆している。
ところで、専攻する学問は異なるが、二人には共通の要素がある。すなわち、重度の身体障害である。
往復書簡がはじまったころの二人は、つぎのような状況にあった。
多田は、2001年5月2日(67歳)、脳梗塞発病。即日金沢大学医学部付属病院入院。重度の右片麻痺、嚥下障害、構音障害。都立駒込病院、東京都リハビリテーション病院を転々とした。10か月後に退院。東京大学医学部付属病院に週2回通院し(歩行訓練等)、併せて都立大塚病院に週1回通院していた(構音の訓練)。
鶴見は、1995年12月24日(77歳)、脳出血発病。左片麻痺。1997年、会田記念病院(茨城県守谷町)で、「目的志向型のリハビリ」を開始。同年、補助具を装用して数十メートル歩行可能なまで回復。その後歩行距離は伸びた。しかし、2002年5月31日に、往復書簡の第一信をしたためたとき、その直前に転倒して大腿骨を骨折していた(のちに手術を受けたが、歩行困難となった)。
要するに、二人とも脳血管障害による半身不随で、リハビリテーション中だったのだ。両者とも知的能力は保持されたが、多田は左脳、鶴見は右脳を損傷したので、残存機能が異なる。多田は、重度の構音障害のため発語がなく、入院中に習いおぼえたワープロを自己表現の主な手段としていた。他方、鶴見は、言語能力は保持され、闘病中もおうせいに著作活動を展開していた。
まえがきに相当する冒頭の二人の文章のうち、鶴見の「回生」が興味深い。障害を逆手にとって、かねてから研究していた「内発的発展論」を深化させているのだ。
第一、闘病と伝統的短詩型文学との親和。
倒れてからいっときも意識をうしなうわず、その晩からことばが短歌のかたちで湧きだしてきた、という。その後の書簡によれば、短歌は発想の源泉となったらしい。
俳句、川柳、連句、短歌は、リハビリテーションと相性がよいらしい。全国各地の病院や老人保健施設などで実施されているし、脳梗塞で倒れた野坂昭如は、『ひとり連句春秋』(ランダムハウス講談社、2009)という本まで出している。鶴見は知ってか知らずか、芸術療法を自分で自分に対して施行したわけだ。
第二、障害と自然との親和。
鶴見は、ふたたび歩きはじめた1997年が「回生」元年だ、という。人類が直立して歩行した意義を再発見しているのだ。ふたたび歩きはじめてから、全身に酸素がゆきわたる感じで、頭がはっきりし、ひらめきがぽっぽこ出てくるようになったらしい。歩けない場合と歩く場合とでは文化がちがう、ものの見え方がちがう、とまでいう。
健康なときは、常に競争相手を意識して仕事をし、マックス・ウェーバーのいわゆる「金力・名声・権力」をめざす競争を多かれ少なかれやってきた。しかし、死者と生者が半々に自分のなかにある状況になって、自然の事物が鋭敏に感じ取られるようになったのだ。ここから共生の思想まで遠くない。
往復書簡から補足すると、日々の天候により足の痺れぐあい、痛みぐあいが時々刻々ちがうから、それだけ自分は自然に近くなった、という。「山川草木鳥獣虫魚のふるまいから自分が学ぶ」ことが初めてできるようになり、これが「新しい人生」を形づくったのだ。
第三、鶴見社会学の深化。
会田記念病院では患者の自己決定権にもとづくオーダーメイドの「積極的リハビリテーション・プログラム」(上田敏)に即して訓練を受けたのだが、倒れる前には理屈として考えていた「内発的発展論」が実感として体得できた、という。
社会の発展の理論は、「人間の発展の理論」でもある、と断じる。80歳を超えてなお「発展」を旗印としてかかげるのだ。後進への励ましでないはずはない。さらに、一番の弱者の立場から日本を開いていく「内発的発展論」というのがある、ともいう。ここで一番の原動力となるのがアニミズムだ、とも。ここにも共生への志向が見受けられる。
往復書簡から補足すると、鶴見は左片麻痺の回復はあり得ないと宣告され、新しい人生を切り拓くと覚悟を決めた。そして、アメリカ社会学からの借り物のことばを捨て、やまとことばで語るようになった。
第四、学問と道楽の親和。
歌、踊り、着物は鶴見の道楽だったが、「内発的発展論」はこれら三つの道楽によって育まれた感性の所産であった。道楽と学問とのつながりを覚ったのは死に至る病のおかげだった、という。ここでも障害を逆手にとって新たな発見をしている。
脳血管障害は加齢とともに発生率が高まる。事は脳血管障害にかぎらない。大岡昇平も晩年は心臓弁膜症に悩まされた。そして、誰しも齢をとるのだから、人はいつかは障害のある身となる可能性が高い。いや、疾患にかぎらず、年齢を問わず、過労、労働災害や交通事故で障害をもつにいたることもある。
したがって、問題は障害者にならないことではない。ひとたび体が不自由になったとき、どう対処するかである。
この往復書簡は、重度身体障害に陥った者の見事な対処をしめす。げにも「魂は物質に抵抗するものである」(アラン)。
□多田富雄/鶴見和子『邂逅』(藤原書店、2003)
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