語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『邂逅』 ~多田富雄と鶴見和子の往復書簡~

2010年05月21日 | 医療・保健・福祉・介護
 免疫学者にして新作能作者の多田富雄と社会学者にして歌人の鶴見和子の往復書簡集である。期間は、2002年5月31日から2003年3月20日まで。それぞれ4信ずつ、計8信が交換された。
 碩学によるやりとりはじつに刺激的で、巻をおくあたわず、といって過言でない。丸谷才一は、対話とは「共同作業による真実の探求みたいなものだ」といっている(丸谷才一・山崎正和『半日の客一夜の友』、文春文庫、1998)。本書にも「共同作業」が見てとれる。
 たとえば、「自己」の概念。多田は細胞の階層を越える進化も「自己組織化」の原理で説明できるとし、鶴見は人間が階層を超えるためには「自己」という接点があるといい、認識が一致していることに多田は感嘆している。

 ところで、専攻する学問は異なるが、二人には共通の要素がある。すなわち、重度の身体障害である。
 往復書簡がはじまったころの二人は、つぎのような状況にあった。
 多田は、2001年5月2日(67歳)、脳梗塞発病。即日金沢大学医学部付属病院入院。重度の右片麻痺、嚥下障害、構音障害。都立駒込病院、東京都リハビリテーション病院を転々とした。10か月後に退院。東京大学医学部付属病院に週2回通院し(歩行訓練等)、併せて都立大塚病院に週1回通院していた(構音の訓練)。
 鶴見は、1995年12月24日(77歳)、脳出血発病。左片麻痺。1997年、会田記念病院(茨城県守谷町)で、「目的志向型のリハビリ」を開始。同年、補助具を装用して数十メートル歩行可能なまで回復。その後歩行距離は伸びた。しかし、2002年5月31日に、往復書簡の第一信をしたためたとき、その直前に転倒して大腿骨を骨折していた(のちに手術を受けたが、歩行困難となった)。
 要するに、二人とも脳血管障害による半身不随で、リハビリテーション中だったのだ。両者とも知的能力は保持されたが、多田は左脳、鶴見は右脳を損傷したので、残存機能が異なる。多田は、重度の構音障害のため発語がなく、入院中に習いおぼえたワープロを自己表現の主な手段としていた。他方、鶴見は、言語能力は保持され、闘病中もおうせいに著作活動を展開していた。

 まえがきに相当する冒頭の二人の文章のうち、鶴見の「回生」が興味深い。障害を逆手にとって、かねてから研究していた「内発的発展論」を深化させているのだ。
 第一、闘病と伝統的短詩型文学との親和。
 倒れてからいっときも意識をうしなうわず、その晩からことばが短歌のかたちで湧きだしてきた、という。その後の書簡によれば、短歌は発想の源泉となったらしい。
 俳句、川柳、連句、短歌は、リハビリテーションと相性がよいらしい。全国各地の病院や老人保健施設などで実施されているし、脳梗塞で倒れた野坂昭如は、『ひとり連句春秋』(ランダムハウス講談社、2009)という本まで出している。鶴見は知ってか知らずか、芸術療法を自分で自分に対して施行したわけだ。
 第二、障害と自然との親和。
 鶴見は、ふたたび歩きはじめた1997年が「回生」元年だ、という。人類が直立して歩行した意義を再発見しているのだ。ふたたび歩きはじめてから、全身に酸素がゆきわたる感じで、頭がはっきりし、ひらめきがぽっぽこ出てくるようになったらしい。歩けない場合と歩く場合とでは文化がちがう、ものの見え方がちがう、とまでいう。
 健康なときは、常に競争相手を意識して仕事をし、マックス・ウェーバーのいわゆる「金力・名声・権力」をめざす競争を多かれ少なかれやってきた。しかし、死者と生者が半々に自分のなかにある状況になって、自然の事物が鋭敏に感じ取られるようになったのだ。ここから共生の思想まで遠くない。
 往復書簡から補足すると、日々の天候により足の痺れぐあい、痛みぐあいが時々刻々ちがうから、それだけ自分は自然に近くなった、という。「山川草木鳥獣虫魚のふるまいから自分が学ぶ」ことが初めてできるようになり、これが「新しい人生」を形づくったのだ。
 第三、鶴見社会学の深化。
 会田記念病院では患者の自己決定権にもとづくオーダーメイドの「積極的リハビリテーション・プログラム」(上田敏)に即して訓練を受けたのだが、倒れる前には理屈として考えていた「内発的発展論」が実感として体得できた、という。
 社会の発展の理論は、「人間の発展の理論」でもある、と断じる。80歳を超えてなお「発展」を旗印としてかかげるのだ。後進への励ましでないはずはない。さらに、一番の弱者の立場から日本を開いていく「内発的発展論」というのがある、ともいう。ここで一番の原動力となるのがアニミズムだ、とも。ここにも共生への志向が見受けられる。
 往復書簡から補足すると、鶴見は左片麻痺の回復はあり得ないと宣告され、新しい人生を切り拓くと覚悟を決めた。そして、アメリカ社会学からの借り物のことばを捨て、やまとことばで語るようになった。
 第四、学問と道楽の親和。
 歌、踊り、着物は鶴見の道楽だったが、「内発的発展論」はこれら三つの道楽によって育まれた感性の所産であった。道楽と学問とのつながりを覚ったのは死に至る病のおかげだった、という。ここでも障害を逆手にとって新たな発見をしている。

 脳血管障害は加齢とともに発生率が高まる。事は脳血管障害にかぎらない。大岡昇平も晩年は心臓弁膜症に悩まされた。そして、誰しも齢をとるのだから、人はいつかは障害のある身となる可能性が高い。いや、疾患にかぎらず、年齢を問わず、過労、労働災害や交通事故で障害をもつにいたることもある。
 したがって、問題は障害者にならないことではない。ひとたび体が不自由になったとき、どう対処するかである。
 この往復書簡は、重度身体障害に陥った者の見事な対処をしめす。げにも「魂は物質に抵抗するものである」(アラン)。

□多田富雄/鶴見和子『邂逅』(藤原書店、2003)
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】シンガボール ~バード・パーク~

2010年05月21日 | □旅
 73階建てウェスティン・スタンフォード・ホテルに投宿し、夕食後、ぶらぶらと市内を散策した。ホテルから目と鼻の先に、1942年の「シンガポール虐殺」記念碑(125m)が建っている。たたずむと、なんとなく居心地がわるい。
 その日はちょうど中国系民族の祭り(旧正月)であった。ホテルの下のショッピング・センター、ラッフルズ・シティから南へ、つまり海へ向かって歩いていくと、露店の数が増えてきた。日本の縁日の雰囲気と似ているが、なんかちょっとちがう。ちがうのは熱気だ。この熱気は気候のせいか、群衆のせいか、定かではない。
 ゲームが射倖心をそそる。
 路傍に夜目にもあざやかなブーゲンビリアが咲き乱れる。
 広場の仮設小屋ではワイヤン(中国オペラ)。群がる人々にまじって立ち見する。
 岬に公園があり、高さ3mほどの白亜のマー・ライオンが二基たつ。一方はマリーナ湾に向かって対岸の灯に臨み、背中合わせの他方は足元の池に水を吐きだしている。この国の象徴、マー・ライオンは、頭が獅子で尾が魚の怪物である。一説によれば、シンガポールの名は、サンスクリット語のシンガ(sinfga、獅子)とプラ(pura、都市)に由来する。
 踵をかえし、シンガポール川の岸辺をさまよった。野外の京劇に人々が群がる。川面には大きな屋台船が浮かび、まばゆいイリュミネーションの中から音楽が漂ってくる。

 翌日、中国庭園にたち寄った。大尽の屋敷を一般に開放したものだ。上野動物園ほどありそうな広大な敷地である。蓮の花が咲く沼があり、花の下にはワニも棲む。龍をとりまく花壇があり、とにかくにぎやかだ。
 六角六層の石塔、入雲塔の最上階では、数人の小学生が腰かけて何やらおしゃべりに熱中していた。中国系とみて、「ニイハオ」とあいさつする。彼女たち、キャキャと笑いさざめき、あいさつを返す。ものおじしない。華人は、この国で優位にたつ。子どもたちにも自信というか、生気というか、生きる喜びがみなぎっている。
 この庭園で、「雨の木(レイン・ツリー)」に初めてお目にかかった。樹長10mを越える大樹のここかしこの枝から蔦が垂れ、あたかも雨滴がしたたるかのようだ。大江健三郎『「雨の木」を聴く女たち』なる小説がある。あまり読む気にならないタイトルで、じじつ一向に読んでないのだが、「雨の木」ということばに気を惹かれ、どんな木なのか、いろいろ想像していた。目前の詩的な樹相にはすっかり魅惑されてしまった。
 言葉と感覚の幸福な出会いは、ジュロン・バード・パークでも経験した。この広大な庭園は世界最大の鳥園で、随所にさまざまな鳥がはなし飼いにされている。フラミンゴ、ダチョウ、極楽鳥、サンバード。公園の一角には、空に網をはって、共棲できる鳥を自由に飛翔させている。2ヘクタールもある鳥篭なのだ。中をくぐり抜けながら、ハチドリを探したが、近眼の目にはキャッチできなかった。
 公園の出入口ちかくに菱形の建物があって、「暗闇の世界」と表示がたつ。夜行性の鳥だけがここに集められているのだ。ガラスでしきられている部屋のひとつに、フライイング・フォックスを見つけた。ミミズクの一種であった。R・S・スティーブンソン『南海千夜一夜』に「飛び狐」が出てくる。むかしむかし少年のころに読んだときには、羽根がはえている狐を想像したが、遠い異郷の地ではからずも積年の疑問が氷解した。
 異郷の地、という思いを痛感したのは、日本人墓地をおとずれた時だ。ここには、ロシアからの帰途、インド洋で客死した二葉亭四迷が眠っている。墓守に許可を求めると、すぐさま軍人の墓碑に案内し、某中将の墓前でていねいに線香を差しだすのであった。やむをえず合掌し、「で、二葉亭四迷の墓は?」とたずねると、私たちを妙な目つきで見た。
 ここには、バターン半島の戦没者が眠っている。
 「これがからゆきさん」と墓守が指さす先に、ちいさく貧相な墓が群れていた。山崎朋子『サンダカン八番娼館』に登場するのはボルネオのからゆきさんだが、シンガポールのからゆきさんも同様の日々を送ったにちがいない。

 シンガポールの歴史の一端にふれ、なぜか現代の住民たちの生活をのぞいてみたくなった。
 コミュニティ・センターを2か所訪れた。インド人街のセンターは、ややみすぼらしく、漆黒の肌の老人が二人、所在なげに建物の壁にもたれて腰をおろしていた。チャイナ・タウンのセンターはもっと大きくて新しく、活気もあった。マーライオンのマークが入口に掲げられているから国営かもしれないが、地域の住民の資力を反映するらしい。
 センターでは就学前児童のデイサービスや相談事業、ダンスなどの行事や各種講座の情報提供がおこなわれている。バスケットボールのコートが半分(センターラインまで)付属している。掲示板のポスターもチャイナ・タウンのセンターのほうが数が豊富で、メニューも多かった。
 コミュニティ・センターと類似の施設は日本にもありそうだが、対応する施設をうまく例示できない。位置づけとしては公民館に近いように思われるが、日本の公民館は行政の出先機関にすぎない。ここではもっと住民の生活に直結しているように察せられる。
 掲示板のポスターは、二つ以上の言語で併記されている。
 シンガポールは、多民族国家で、中国系(華人)、マレー系、インド・パキスタン系の4つに大別される。それぞれの出身地によってさらに細かい集団に分かれる。宗教ももちろん雑多だ。政治的経済的に有力なのは、人口の8割を占める中国系(華人)だが、国の周囲をイスラム教国家が取り巻き、水や食料をマレーシアが提供していることもあって、マレー系の立場も弱いものではない。しかし、インド系は社会の底辺に位置している。バード・パークでも、清掃などの汚れ仕事はインド系とおぼしき人たちが受け持っていた。
 風俗も多様だ。たとえば、シンガポールでは正月が4回もある。新正月(元旦、ただの休日)、中国正月(旧正月)、マレー正月(ハリ・ラヤ・プアサ)、ヒンドゥー正月(ディーパ・バリ)。最後のふたつは、他民族との対抗上、仮に正月と呼んでいるだけで、実際は宗教上の節目である。
 複数の民族と言語、多様な宗教と風俗。こうした国家では言葉は道具以上のものとなる。
 ものの本によれば、英語を第一言語とし、民族言語を第二言語として教育された者は、民族言語を第一言語とし、英語を第二言語として教育された者より活発で外向的、率直になるよし。反面、たとえば華語を第一言語として教育された者は、無愛想で控えめだが、誠実にことにあたる性向が見られるとか。どうやら、言語の背景にある民族文化も引き継ぐらしい。
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書評:『インパール』

2010年05月21日 | ノンフィクション
 1944年、太平洋で連合軍に圧迫され、じり貧の日本帝国軍は、乾坤一擲、インパールを攻撃した。
 無謀な作戦であった。いや、作戦の名にすら価しなかった。航空機の支援はなく、快速進撃の旗印のもとに軽装備、砲は各連隊に三一式山砲5門程度にすぎなかった。糧秣は糒(ほしい)主体でしかもわずか2週間分、補給計画はまったくなくて敵の糧秣弾薬を奪ってしのげばよいとするお粗末さ。
 加えて、敵情がまったく不明のままであった(要塞を戦車や航空機でかためて、しかも兵員が増強されつつあった)。
 作戦に疑問を投げかける参謀長や師団長は次々に更迭された。更迭したのは第15軍軍の司令官は牟田口廉也中将。「わしには神様がついてる」

 牟田口中将の神様によって、7万人の将兵が山野に屍をさらした。
 撤退後、ラングーンのビルマ方面軍首脳部に対して、牟田口は昂然と胸をはって宣うた。「インパール作戦は失敗したと思っていない。インパールをやったからこそ、ビルマをとられずにすんでいる、云々」
 一同気をのまれ、座はたちまち白けかえったという。

 本書は、南方軍(威)ビルマ方面軍(森)第15軍(林)第33師団(弓)、ことに柳田元三師団長及びその幕僚、そして歩兵第214連隊(中突進隊)の作間連隊長及びその指揮下の将校に焦点をあて(兵士はあまり登場しない)、武人らしい剛毅さと、悲惨な状況においてこそあらわになる人情を記録にとどめる。
 牟田口中将の大言壮語、唯々諾々の幕僚の無能がインパールの原野にもたらした7万体の白骨は、組織のトップしだいで隷下がどんなに苛酷な運命を強いられるかのよき象徴である。

□高木俊朗『インパール』(『世界ノンフィクション全集15』、筑摩書房、1968、所収)
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする