ある退職教師のつれづれなるままに

38年間の教職26.3.31退職
4月1日再任用。自分の目でみたこと感じた事など
つれづれなるままに記します。

2024-55 廃墟と化した鉄の街

2024年03月28日 | 日記
連日のように水原通訳と大谷選手のニュース。何となく事の真実が分かってきた感じがします。
いよいよ明日から開幕戦はつらつとしたプレーを期待したいものです。

旅行に行っている期間、愛ネコが隣の家の猫と喧嘩したらしく顔の上がもっこりはれあがった顔。
帰ってから動物病院にいって治療。どうにか腫れは治まってきました。

まだまだ紛争が続いている中ですが、ようやく春の温かい日差が戻ってきました。
この春と共に早く停戦になればと思うところです。

タイトルの鉄の街とは釜石の街です。
全国で空襲にあった昭和20年、盛岡も東京大空襲の同日の3月10日、駅前に焼夷弾が落とされ160戸焼失、
3名が犠牲。そして8月10日には国鉄盛岡工場機関区が羅災、職員が負傷、父も国鉄職員で駆け付けたと。
しかし、鉄の街釜石はより大きな被害。
最初は7月14日、午前11時艦砲射撃が2時間に及び、特に製鉄所構内は筆舌に尽くしがたく
従業員100名近くが犠牲に。約1460戸が焼失。(1月1日能登半島沖地震、輪島の朝市では300戸焼失。)
ついで、8月9日長崎原爆投下された日に再び艦砲射撃、2800発は釜石の市街地、社宅などに砲撃され、
前回以上の被害があり、全くの焼け野原と化してしまう。2度の艦砲射撃により
被災世帯4543世帯、被災者17000人 死者数750名余り、県内最大の犠牲地域である。
製鉄所を破壊する目的なら特に2度目は全く意味のないもの。なぜ2回も行ったのか。

後日判明されたのが昭和20年2月のアメリカ、イギリス、ソ連のヤルタ会談により既に日本へのソ連の参戦が決まっていたこと。
戦後の処理の仕方などで秘密協定とされていた。
日本軍は最後までソ連は敵にならないと考えていたのだから・・・
結果、終戦の1週間前にソ連は参戦。アメリカなどはできるだけソ連の影響を少なくしようと
早く終戦させたかったのだ。シナリオはできていたのだ。

世界の動きを日本軍は読めなかったということか。

コメント
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