ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2015.1.26 お別れの儀式は誰のものか

2015-01-26 19:54:12 | 日記
 今年は早々から悲しいお別れが続き、お別れの儀式に出席させて頂くにあたって、想うことがあった。
 自分の葬儀はいくら希望を言ったところで、結局のところ、自分で取り仕切ることはできない。自分プロデュースの生前葬でもするなら別だけれど、ということ。
 つまるところ、遺された方たちによる遺された方たちの為のお別れの儀式なのだろうな、と思う。

 クリスチャンでもないけれどクリスマスケーキは頂くし、仏教徒でも神道でもないけれど、神社仏閣にはお参りする私。
 実家も夫の実家もそれぞれ仏教だし、これまで記憶にある限り親族縁者の葬儀は全て仏式だった。
 このまま私が何も言わなければ、夫の郷里の菩提寺のご住職にこちらまでご足労頂き、戒名を頂き、お経をあげて頂くのだろう。
 だが、私のように世俗まみれな存在、戒名を頂いたところで仏様になど到底近づけそうにない。
 50数年生きてきた俗名のままで良いし、特定の宗教に拘らず、好きなお花と好きな音楽に囲まれて、親交のあった方たちにいらして頂ければそれで十分なのだけれど、と言ったのだが、やはり夫は困っている様子である。

 では、位牌はどうする、仏壇に入れていいのか、その時に俗名のままでいいのか、などなど。うーん、確かに戒名を頂いていないで仏壇には入れないだろうから、ならば家のちょっとしたスペースに写真でも置いてもらえればそれで十分、などと答えていたのだけれど。

 親しい親戚が殆ど住んでいない、夫の郷里にあるお墓に一人で入るのは切ないし、何しろ夫や息子にお参りに来てもらうのも難しいだろう、ということで再発が判ってまもなく、夫と息子の代位までは入ることが出来るものは準備してある。 出来上がった時は、正直やっぱりまだこの暗い穴の中には入りたくないな、と思ったし、今やすっかり図々しく、備えあれば憂いなし、用意していればなかなか使わないもの、とまで呑気に考えている。
 墓石にはそのままの名前を書いてもらえば良いと言ったのだが、じゃあ、俺はどうするのかな?ときた。先日、夫は叔父の一周忌から帰ってきて「聞いてもわからないお経を聞かされるは苦痛だし、そんなものがなければ成仏できないっていうのも変だよな」と、私の話が分からないでもないらしい。
 それでも、夫は郷里の菩提寺では墓守の長男である。夫がそこで「戒名はいりません、住職にお越し頂かなくても結構です」とまでは言えないだろう。そして、同じお墓に入る時に、方や戒名、方や俗名というのもバランスが悪いのだろうか。

 こう考えてみると、そうそう自分の我儘だけは通せないのかなとも思う。
 もちろん菩提寺を持たず、葬儀の時に初めて来て頂く一回ぽっきりのお坊さんに、積んだお金レベルの戒名を頂き、それっきり・・・というケースも多々あるのだろう。
 それに比べれば、私はご住職とはこれまでに何度もお目にかかっているから、この人誰だっけということはないのだろうけれど。

 余計なことは考えず、特に主張せず、遺された人たちが気の済むようにお願いします、と言ってしまった方が世話なしなのだろうか。
 お別れの儀式を完全に仕切ることなど、とても出来ないだろう。けれど、どこまで本人の希望が通せるものなのか、どこまでお任せしてよいものなのか、答えはなかなか出そうにない。

 とりあえず希望だけは聞いておく、出来るだけ叶えるようにするよ、と言ってくれる夫には感謝なのだけれど。お経を読んで頂きながら、結婚式の時のように好きな音楽をバックミュージックに、というわけにはいかないのだろうな、とぼんやり想っている。

 あっという間に1月も最終週になった。仕事も第四四半期の繁忙期に突入。朝から夕方まで会議やら来客やらで、息をつく暇もなかった。
 今日は日中とても暖かかったけれど、また夜半からお天気が崩れる模様。とはいえ、日が長くなってきたのがとても嬉しい。春が一日一日と近づいているのを感じる。甘味好きの夫が出張帰りに買ってきてくれたお土産は鶯餅と桜餅。眼も舌も、体中が“春よ来い”という気分である。
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2015.1.23 喉元過ぎれば・・・

2015-01-23 20:30:20 | 日記
 昨年の今頃、息子のセンター試験が終わったと同時にゼローダ、タイケルブの内服を開始した。私はミルク飲み人形か・・・というほど、翌朝から即副作用の嵐だった。この後の通院日まで脂汗、冷や汗状態。水を飲んでもお手洗いに籠るような事態で、怖くて何も口に入れられない。あっという間に3kg痩せたのだった。その後、薬を減量してはみたもののなかなかお腹の調子は落ち着かず、食べてはお腹を壊し・・・の繰り返し。結局、この3kg減を取り戻すのにほぼ1年かかった。

 おかげさまで、今は漢方と整腸剤でお腹の調子がほぼコントロール出来ている。ああ、1年経ったのだな、1年続けてこられたのだな、と色々な意味で思う。
 当時受験生だった息子は大学生となり、いとも簡単に家から巣立ってしまった。今では、あの胃がキリキリと痛むような受験生の母の気分はどこへやら、である。もちろん、大学受験生に対して母である私が何か具体的に出来るわけではないけれど、それでも、もしあの生活があと1年続いていたら・・・と思うだけで正直クラクラする。
 今は自分がやりたいことをやりたいように(夫に迷惑をかけない範囲で、と自分的には都合良く思っているが)無理なく過ごすことが出来ている。あの喉に引っ掛かりそうな大きなタイケルブ錠を飲むのにも(2錠だから1回で済めるせいか)すっかり慣れてしまい、お腹がガボガボになるほどの大量の水を飲まずとも、すんなりお腹に納められるようになった。そう、薬を飲む瞬間以外は図々しくも病気であることを忘れるほど。薬を飲みながらも、あ、これはそういう薬だったんだっけ・・・と思うくらい、ごくごく日常に組み込まれている。

 我ながら本当に現金というかなんというか・・・“喉元過ぎれば熱さを忘れる”単純さに苦笑する。
 今週初めの19日は、胸のしこり摘出の日帰り手術の日から丸10年目の日だった。ちょうど銀婚式記念旅行中だったから、あえてその話題を記事にはしなかったのだけれど、この後、来月早々には手術から10年の記念(?)日がやってくる。 
 当時“5年生存率”や“10年生存率”という言葉にビクビクしたものだが、それも一旦再発してしまえば(最初の手術からの生存率などは)ほぼ無意味な数字になってしまう。今の起点は再発治療開始時から何年か、ということだ。こちらの数字の方がよほど意味を持つ。
 このまま再発治療継続年数の数字をどこまで伸ばせるかは神のみぞ知るだけれど、このある意味いい加減な、というか喉元過ぎれば・・・のスタンスでいることが、エンドレスの再発治療には実は必要なことなのではないか、とも思っている。ひたすら真面目につき詰めて考え過ぎると、きっと自分で自分を追い込んで辛くなってしまうから。

 ようやく週末。ひたすら寒く、日射しすらなかった昨日一昨日と変わり、今日は久しぶりに青空になった。
 気付けば1月もあと1週間余り。1月は往ってしまい、2月は逃げてしまい、3月は去ってしまい・・・と、また慌ただしい季節がやって来る。
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2015.1.21 出来ることで予防して

2015-01-21 19:58:31 | 日記
 職場でもインフルエンザでダウンする人が増えている。そこで、何度もご紹介している朝日新聞静岡版から渡辺亨先生のコラム最新号のご紹介である。

※   ※   ※(転載開始)

がん内科医の独り言(27.1.17)
予防に勝る治療なし
 ■猛威振るうインフルエンザ
 インフルエンザA香港型が猛威を振るっており、学級閉鎖や病院内の感染が連日報道されています。A香港型は、子どもでは脳炎や肺炎などの合併症を起こしやすいと言われていて、大人でも高熱や頭痛、全身倦怠(けんたい)感が強く出ます。
 毎年4月に「この冬に流行しそうなインフルエンザの型」が国立感染症研究所の専門家会議で検討され、厚生労働省が決定します。それに基づき、予防接種のためのワクチンが製造されます。
 医師会や医療機関は毎年11~12月、ワクチン接種を勧めています。しかしこの時期はまだ流行していないので、患者にワクチン接種を勧めても、「テレビでも話題にしていないので、今年は打ちません」という人は多いです。ひとたび流行が始まると、不安をあおるかのようにワイドショーで取り上げられます。
 ワクチンを打っていても、インフルエンザにかかる人はいますが、症状は軽く済みます。自分の体だけでなく、学校や会社など社会全体を守る、という観点から、毎年の接種が必要です。
 予防対策は元気なうちにやっておくべきですが、その大切さはなかなか理解されません。がんに関して言えば、肺がんにならないようにたばこはやめよう、胃がんにならないようにピロリ菌を除去しよう、乳がんにならないようにアルコールは控えよう――。いずれも重要な予防医学です。
 予防に勝る治療はないと言います。肺がんが脳に転移したヘビースモーカーの男性から、「先生、助けて」と涙で懇願されても、できることには限界があります。(浜松オンコロジーセンター・渡辺亨)

(転載終了)※    ※    ※

 私が最後にインフルエンザに罹ったのは今から約10年前。初発の手術が終わり、放射線治療中だった3月のことだ。ノルバデックスの副作用で腫れた顔をマスクで隠しながら、息子の保護者会に出席している時に悪寒が襲い、帰宅したらもう高熱で身体中が痛かった。息子がその数日前に罹っていたので、しっかりうつっていたということになる。息子も私も運良くタミフルを投与したおかげか、それほど長いこと苦しまなかったけれど、それでも身体が弱っていて免疫力が下がっていれば、簡単に罹ってしまうのだな、と肝に銘じた。この時、25日間連続で受けなければならなかった放射線治療が数日遅れたことを覚えている。

 その痛い思い以来、家族3人揃って毎年欠かさず予防注射を受けている。おかげで10年に渡り誰もインフルエンザで苦しんだことはない。特に再発後の7年間は、間断なく抗がん剤治療をはじめとする再発治療を続けているから、ただでさえ免疫力は低下しているし、そこで風邪を引いたり熱を出したりがあれば、治療が予定通り進まないことにもなる。
 だから、極力インフルエンザには罹らないでいる、というのが至上命題である。息子もその間受験が2回挟まっているが、罹ることなく無事にくぐりぬけてきた。今年は一人暮らしで、帰省してからの予防注射では遅いのでは、と心配していたが、大学の保健センターで12月初めに打つことが出来たので、無事のようである。

 基本は手洗いうがいの励行、それ以外は毎朝欠かさない赤いヨーグルト、野菜たっぷりの食事、ホットヨガで良い汗をかいてぐっすり眠る、必要以上に都心や人混みに行かない、これが私にとってのインフルエンザ予防法である。
 予防は元気なうちに、がセオリーなのは頷ける。まあ、自分に限って言えばもともとアルコールは頂かなかった。だから、乳がん予防のために控えていたわけではないけれど、控えていたって飲まなくたって、残念ながら乳がんになるものはなるのである。

 夫にはこうした思いはして欲しくないから、半ば強引だったが煙草を辞めさせることが出来たのは何より良かったと思っている(もちろんその後、何を食べても美味しいのか、口寂しいのか、お菓子大好きおじさんと化し、かなり体型が変わってしまったが・・・)し、何度も失敗はしているけれど、ピロリ菌の除菌もトライしてもらっている。
この後、私の身体の中のがん細胞がどんな経緯を辿っていくのかはわからないけれど、宿主である私を喰い尽くしてしまえば彼ら自身も生きていくことが出来ないのだから、私自身は体調を整え、そしてがん細胞には少しでも大人しくしていてもらいたい。そのために出来る予防は欠かさずに、細く長く共存していきたいものだと思う。

 今日は大寒の昨日よりずっと寒かった。朝から雪がチラつき、そのまま積もるのだろうかと思うほどだったが、霙交じりの雨になった。乾燥が少し緩和されればインフルエンザ対策には良いだろうが、暖かくしてしっかり休まないと。
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2015.1.20 直球ど真ん中!~がん患者だって働きたい!

2015-01-20 22:10:33 | 日記
 何度もこのブログで紹介させて頂いている、読売新聞医療サイトyomiDr.の大津秀一先生のコラムの最新号。まさに私のハートに“直球ど真ん中!”だった。
 以下、長文であるが、転載させて頂く。

(転載開始)※   ※   ※

専門家に聞きたい!終末期と緩和ケアの本当の話(2015年1月15日)
がん患者だって「働きたい」
 「先生、仕事をしたいんです」
 進行がんで抗がん剤治療を受けている50代の男性が、切実な目で訴えられます。
 「家と病院との往復なんて…何か生きている意味が感じられなくて…」
 仕事は確かに、誰にとっても楽なものではありません。一方で、日本人は仕事に生きがいを感じていらっしゃる方も少なくないでしょう。がんの方でも経済的理由ばかりではなく、その他の意味も含めて復職したい、新しい仕事を見つけたいと願っている方は少なからずいらっしゃいます。
 
 確かに仕事を通じて、社会とつながり、また重い病気にかかった際にしばしば訪れるスピリチュアルペイン(生きる意味の揺らぎ;以前の連載も参考にしてください)を回復し得る一つの手段とも言えるでしょう。
 前述の男性も、はっきりと明示はされませんでしたが、そのような思いだったのだと感じました。
 元々仕事人間であり、単身者でもあった彼は、職場での関係が人間関係のほとんどでした。それも退職により、断ち切られてしまいました。治療して延長している生には「ただ生きているだけ」との思いが彼にはぬぐえません。経済的な理由より、生きがいを求めていらっしゃったのです。社会の役に立っている実感も得たかったのです。
 そしてまた重い病気は、不安や「考えたくないのだけれども考えてしまう」状況を頻繁に呼びこみます。体を動かさないで、家であれこれ考えていると、あまり良い方向に考えが向かわないこともしばしばあります。がんとともに長く生活していらっしゃる方は、むしろ仕事をうまく気分転換の手段として、つまり家にいるとずっと考えてしまう病気や生死のことから離れる良い方法として使っていらっしゃると感じます。

 結局それが、長く質に満たされた生活を続けるコツなのかもしれない。私は就労を続けながら外来に笑顔で通って来られる患者さんをみるとよくそう考えます。

 年末年始にかけ、Yahoo!等のポータルサイトのトップページに何度もがん患者さんの就労についての記事が掲載され、良かったと思います。
 厚生労働省がまとめた『がん患者の就労や就労支援に関する現状』を読むと、状況は楽観的ではありません。
 報告書によると、仕事を持ちながらがんで通院していらっしゃる方は実に全国で32.5万人もいます。そしてがん診療連携拠点病院に寄せられる「働くこと」に関する相談のうちの約4割は「仕事と治療の両立の仕方」(第2位。1位は経済面)です。皆さんは仕事をしながら、治療を受け、何とかその両立を図ろうと努力されています。
 一方で勤務者の34%が依願退職・解雇、自営業者等の方の13%が廃業に至っているとの現状があるのです。

 がんは、他の疾患と比べると、比較的良い状態が最後の2~3か月前まで続く特徴があります。

 また疼痛に対しての適切な医療用麻薬の治療では、「意識に影響を与えず」苦痛緩和ができます。私の外来患者さんでも、医療用麻薬を使って苦痛緩和をされながら、知的労働を含めて、繊細な、判断力を要する仕事を為している方も当然いらっしゃいます。
 適切な医療用麻薬治療は判断力にも性格にも影響を与えてはいません。もちろん必要な医療用麻薬の量を巧く調整し、むやみに増やし過ぎない等の通常通りの配慮は必要です。
 がん患者に対する就労支援モデル事業として、平成25年度からがん診療連携拠点病院とハローワークの協働も全国5か所で始まっています。がん患者のうちの3人に1人は就労可能年齢(20~64歳。罹患者全体の32.4%)であることを考えると、支援体制のますますの拡充が求められるでしょう。
 それと同時に、私からのお願いは、どうか企業の方にも「比較的末期まで良い状態が保持される傾向がある」進行がんの方を受け入れて頂きたいというものです。確かに治療に伴う体調の変化、例えば就労の妨げとなる倦怠感や下痢などの副作用が一過性に出現しうるなど、まったくの健康人を雇うよりも大変な場合、躊躇する場合もあるとは思います。しかしその一方で有能な人材、頼りになる働き手が埋もれているとも思います。そしてまた病を得たものであるからこそ培われた、細やかな配慮や優しさにあふれた方も多くいらっしゃいます。罹患されている方の希望があれば、ぜひ就労可能かどうかを罹患者とともに担当医に尋ねて頂きたいと思います。
 がんの累積罹患リスクは生涯で男性54%、女性41%(がん情報サービス)です。
 誰もがなり得る状況であり、明日の我が身かもしれません。「がん=近い将来の死」であった時代は終わりを告げているにも関わらず、いまだに「がん」という言葉は必要以上に重々しく捉えられ、その世間の感覚が就労の妨げになっているとも感じます。実際は、私より活動的で、より創造的な進行がんの方もまったく珍しくないのです。個人差がとてもありますから、「がん患者」ではなく、どうか目の前の「○○さん」の事情や状況はどうなのかということを担当医の意見も求めながらよく見て頂きたいと思います。

 「がんとともに生きる」ことになっている時代、経済的な安定や生きがいを継続的に得られることは質に満たされた生活を送るうえで非常に重要だと思います。もちろん無理をして働くことはありませんが、希望がある方には、必要としている方には、どうか職が与えられてほしいと思います。そして世間一般にももっと、現代のがん治療の考え方や、進行がんを抱えていらっしゃる方の生活のことが知られてほしいと思います。
 「先生…ダメでした。問題外だそうで…仕方ありません、諦めます」
 50代の彼は、窓口ですげなく断られてしまったそうです。聞いた私もとても残念でした。
 一朝一夕には変わりませんが、上と現場の努力と、世間の正しい理解の広まりで、彼のような苦悩が改善されてゆくことを願います。

(転載終了)※   ※   ※

 さて、どこから書き始めようか、と思うほどあれもこれも頷くところばかりである。先生の文章の順を追って、なるべく対応する形で思うことを書いていきたい。
 罹患した時も再発転移確定した時も40代だった私であるが、既に五十路を超えて3年が経つ。この年齢で再発進行がんであることを明らかにして、今以上の就職口を見つけるのはまず無理だろうと重々承知している。
 誰にとっても仕事は決して楽なものではない。ひたすら地味な積み重ねが殆どだ。言ってみれば、自分の自由な時間を切り売りしてお給料を頂いているわけだ。そして、ご褒美があるとすれば、年末に私が記事にしたような20年ぶりのメールだったりする。けれど、そうした本当に小さなご褒美こそが仕事を続けていられる原動力、醍醐味であるとも思う。もちろん綺麗事ばかり言うつもりはないし、仙人ではない(タイの仙人もいいかもしれない、とヨガスタジオのルーシーダットンクラスには細々と通っているけれど)から、霞を食べて生きて行くわけにもいかない。口に糊するために働くことは必須である。更に今の私にとっては治療費を自分で捻出する為、というのも大きい。

 この10年の間、特にエンドレスの再発治療を始めて7年の間、仕事を辞めることなく働き続けることが出来て良かった、と思うことは一度や二度ではなかった。先日のお友達のお別れの式でご遺族の弟さんが、知識欲に溢れ、自らの職務に忠実だった彼女が、上司から「(君は)もう来なくていいよ」と言われなかったことが姉の大きな励みになっていた、とご挨拶されていた。本当にそうだ、と思う。自分が役に立てていること、自分が必要とされていること、それを実感出来ることがどれほどの力になるだろう。それが家と病院の往復だけの生活になったら、と考えると本当に切ない。24時間、365日全く働けないほどの不調であるわけでない。治療により辛い幾日か、あるいは数週間かをやり過ごせば、十分仕事をする意欲も能力もあるのに、問題外、と全面否定されてしまうこと、辞めざるを得なくなること、は、ずっと仕事をして生きてきた人にとって絶望以外の何物でもないと思う。

 私も休職中家にいた時は、どうしても思考がネガティヴになり、負の螺旋に陥っていくのが判った。考える時間がたっぷりある、ということは病とともに生きる上で決してプラスにだけ働くことではないのだ、と身をもって知った。だからこそ、今も気付けばどんどん予定を詰め込んで、目一杯忙しくしている。考えることから逃げているのかな、と苦笑いすることさえある。少なくとも仕事をしている時には病気のこと、予後のことなど必要以上に余計なことは考えなくて良い。そして、人のために役立っていると実感出来るわけだから、こんなに幸せなことはない。
 おかげさまで私なりに、とても良い生活を送ることが出来ている。そのことを実現させてくださっている職場関係者の皆様、病状をうまくコントロールしてくださっている主治医をはじめとした医療チームの皆様に改めて感謝したい。

 先生も書いておられる通り、最近がん患者の就労について、テレビでも新聞でもしばしば取り上げられるようになったと思う。だんだん他人事ではなくなっているのだな、という思いを強くする。もちろん、望む人全てが仕事と治療を両立させていける社会が実現出来ればそれが理想だけれど、まだまだ道が険しいのも事実だろう。こう書くと、お前は公務員で恵まれている、職住近接で暇だから務まっているだけだ、偉そうに言うな、とおっしゃる方もおられるかもしれない。けれど、真剣に仕事をした経験のある人ならば仕事は暇が幸せだ、などとは決して思わない筈だ。仕事をする人間にとって暇であることは辛いことではないだろうか。少なくとも私は暇だったら苦痛に苛まれるであろうと思う。

 お正月に旅立ったお友達も10月の半ばまでは第一線で激務をこなしておられた。そして、11月末迄年休を取り、12月はなんとか在宅勤務で繋いで、新年から休暇がリセットされたところでまた仕切り直しをしたい、と思っていらした。
 実際にがんは、末期といわれる病期でも、最後の最後まで働くことが出来る病気であるのは間違いなさそうだ、と思う。彼女は医療用麻薬治療もされておられたけれど、実に上手にコントロールされていて、私がお目にかかった(その後10日で旅立たれたのだけれど)時まで、判断力も性格も元気な時の彼女のままだった。もちろん、先生が書いておられる通り、何事にも個人差は当然あるのだろうけれど。

 一方、私のような進行がん患者を受け入れてくれている今の職場には、感謝しても感謝しすぎることはない、と思っている。これ迄7年間という長期に渡り再発治療を続けてきた中で、薬のチェンジのタイミングで緊急入院したり、酷い副作用が出現し、いつも通りの成果が出せない日も少なからずあった。けれど、病を抱えたことによって、かつてブイブイ言わせながら仕事をしていた時には考えられなかった優しく穏やかな気持ちが、ごく自然に湧きあがって来るのを感じることがしばしばだ。誰か困っていそうであれば、配慮してあげる、ではなく自然に手を差し伸べたくなる、そんな気持ちになるのが不思議でさえある。

 そう、私は“乳がんステージ4で全身に多発転移があり、近い将来、間違いなく死んでしまう可哀想な患者”ではない。これまでどおり仕事も趣味も欲張って、言ってみれば更に欲張ったことに“しぶとく治療を続けている”という○○○○個人なのである。
 同じような境遇のがん患者、あるいはそれに限らず、働きたいと希望する誰もが働ける世の中、小さな子どもを育てるお母さんも、ハンディキャップを持って生まれた方も、皆がそれぞれの働き方で働ける、それがバリアフリーな世の中なのではないだろうか。そういう社会に一日も早くなってほしい、と切に思う。

 今日は大寒。天気予報を信じしっかり完全防備の厚着で出かけたので、震え上がることなく過ごせた。冬至からひと月、日一日と日が長くなっているのを実感する。日が暮れた後のマジックアワーの空の色が美しかった。
 帰宅すると今年初めてのお花が届いていた。赤とピンクのアルストロメリアが2本ずつ、白いスプレーカーネーションが3本、そしてカスミソウが2本。花言葉はそれぞれ「凛々しさ」、「女の愛」、「清い心」だという。カスミソウの英名がBaby's Breathということも初めて知った。寒い日の夜、ぱっと気持ちが明るくなった。

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2015.1.19 旅行3日目、珊瑚礁の海に別れを告げて無事帰京

2015-01-19 22:24:53 | 
 銀婚式旅行の最終日。
 昨日到着したツアー客がとても多く、今朝は混雑を予想して、レストランのオープン時間が30分早まると聞いた。昨日とあまり変わらない出発時間だから、オープンに合わせて朝食を早めに済ませ、その後パッキングをしようと考えたのだが、考えることは皆同じようだった。
 浴槽足湯を済ませ、まだ日の出前の真っ暗な中、レストランに到着すると中に入れない人たちで溢れ返っている。ウェイティングリストに名前を書くが、結局、30分近く待たされてぐったり。昨日より30分早めに出かけたのに、昨日と変わらないどころかドタバタの落ち着かない食事になってしまった。
 部屋に戻って慌てて荷物を作り、チェックアウトを済ませる。エントランス付近で写真を撮りながら待っていると、ほどなくして、17人にはもったいないほどの大型バスで添乗員のKさんがお迎えに。

 今日は、国の指定名勝地に選ばれているという島内随一の景勝地・川平湾を目指す。30分ほどの車中では、19世紀に起こったロバート・バウン号事件の犠牲となった中国人のお墓を集めて建立したという唐人墓や、広々とした干潟で長い期間潮干狩りが楽しめるという島で最も大きな名蔵湾を通り、ミシュラン・グリーン・ガイドで三ツ星評価を受けたという川平湾へ到着。
 天気が多少悪くとも、海の色が綺麗に出る人気のスポットだそうだが、朝の連続テレビ小説さえ始まっていない時間の到着で一番乗り、さすがにまだガラガラ。お店もまだ閉まっていてとても静かだ。公園になっている高台から砂浜を望む景色にうっとりし、団体写真をパチリ。エメラルドグリーンの美しい海に舟が漂う風景は本当に素敵で、どこを切り取っても絵葉書のようだ。

 そして、今回の旅行最後のイベント、グラスボート乗船だ。珊瑚礁の海探勝へと出発する。カラフルで面白い形の珊瑚や、シャコ貝の大群に圧倒される。アオブダイ、テバスズメダイ等がスイスイ気持ちよさそうに泳いでいる。「カクレクマノミもいますよ」というアナウンスだったけれど、“ファインディング・ニモ”は見つけられずじまいで残念。
 30分ほどのグラスボート遊覧を終えて、白い砂浜を散策し、美しい海に別れを告げる。思い切ってやって来て本当に良かった。2,000㎞の旅ではとても癒され、心なしか寿命が延びたような気がする。

 再びバスに乗り込み、一路“南ぬ島(ぱいぬしま)”の空港を目指す。途中サトウキビ畑、パイナップル畑を車窓から見ながら、また来ることはあるだろうか、とちょっとおセンチになる。17人のツアー参加者の時間厳守、若干早めの出発が功を奏して空港にも予定より早めに到着。
 添乗員さんからチケットを頂いた後は、荷物を預け身軽になって、皆さんに「お世話になりました」とご挨拶を済ませる。フードコートで、機中で頂く軽食を調達し、カフェでお茶をして時間調整。すると、昨年息子がお世話になった、学問の神様の総元締め・太宰府天満宮が出張サービス中で、願掛けのお札を架けるサービスがあったので、お友達の受験生の息子さんの名前で合格祈願をしてくる。

 帰路は羽田直行便で定刻通りに離陸。フライト時間は僅か2時間半。時間が早い所為か満席でもなく、ゆったりした旅となった。朝が早かったこともあり、なんとなくウトウト。文庫本を持ち込みそびれたので、ipodに入れた瞑想CDを聴きながら、メディテーションしているような半分眠ったような。お昼に羽田に到着する便に乗ることはあまりないので、夫は私がウトウトしている間に、伊豆七島やら何やら、窓外に見える光景の写真を沢山撮っていた。

 到着後、最寄駅行きのバスの時間が合わず、お茶をしてひと休み。いいお天気で風もなく、思いの外寒さが体に堪えず、ほっとした。リムジンバスは全く渋滞なく、1時間半足らずで最寄駅に到着した。
 
 明日からまた職場と自宅の往復の生活が始まる。体調を整えて繁忙期に備えなくては。
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