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アイヌ民族 “私たちのことを知ってほしい”

2018-10-20 | アイヌ民族関連
NHK 10月19日
2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向け、多文化共生の取り組みが進むなか、アイヌを先住民族として位置づける、新たな法案が次の通常国会に提出される見通しです。
平成元年の東京都の調査では、都内だけで2,700を超えるアイヌの人々が暮らしていて、その数はさらに増えていると考えられています。首都圏に暮らすアイヌの人々の思いを取材しました。

東京駅のすぐそばに、首都圏に暮らすアイヌの人々が集う場所があります。
この日行われていたのは、伝統的な踊り(剣の舞)の練習です。
アイヌにルーツを持つ人たちが中心となって、50年以上前に作ったグループで、2年後の東京オリンピック・パラリンピックは、アイヌへの理解を広げるチャンスになると考えています。
「私がアイヌだと言っても、知らない人が多い。このまま アイヌがないものとされてしまうのはすごく嫌だったので、少しでも知ってもらいたい」と話すのは北海道出身の女性。
また、千葉県出身の女性は「アイヌだと教えてもらえずに育った。それはすごく悲しいことだと思う。自分の子どもたちには、恥じることなく言えるよう、大きくなってほしい」と話していました。
古くから北海道などに暮らし、独自の文化を育んできたアイヌ民族。
明治以降、政府は土地を奪い、日本語での教育を徹底するなど 同化政策を推し進め、その後も厳しい差別が長く続きました。
首都圏の団体でリーダーを務める1人、北海道出身の 島田あけみさんは、親族や知人が就職や結婚で苦労するのを目の当たりにし、新しい土地で暮らそうと二十歳で上京しました。
現在、政府はアイヌに関する新たな法律を検討しています。
島田さんは、政府の会合に招かれた際、歴史を踏まえ、先住民族としての位置づけを確かにしてほしいと要望しました。
「アイヌがなにものであったかという、歴史的なことをきちんと理解してほしい」
政府は、アイヌを先住民族として法律に明文化する方向で検討を進めています。
「 “劣っている” とか “困っている” とか、そういうものではないということをきちんと見せるのが、いちばん日本中に住むアイヌのためになると思う」と島田さん。
法案が次の通常国会にも提出される見通しのなか、島田さんはシンポジウムを企画しました。
『文化伝承だけではないということを、マオリから学ぶべきだと思っている』
招いたのは、ニュージーランドの先住民族、マオリの人々です。
自身もマオリで、国の大臣として権利回復に努めてきたテ・ウルロア・フラヴェルさんが駆けつけました。
『私たちがニュージーランドで経験したことを伝えたい。マオリとアイヌは “植民地化された” という同じ歴史を持っている・・・』
1960年代から活発な運動を展開し、マオリ語を公用語にするなど、独自の文化を取り戻してきたマオリ。
フラヴェルさんは、法律が果たす役割の大きさを指摘しました。
「法律は重要だ。政府に先住民族に対する義務を履行させるだけでなく、国全体のあり方を示すモデルになる」
マオリの積極的な動きに刺激を受けた島田さん。今後、アイヌの存在をもっと広く知ってもらい、理解者を増やしたいと考えています。
島田さんは「アイヌはこうだと、直接私たちに触れて 一緒に考えてもらう場を持ちたい。いろいろなことを 1つずつやっていくうちに、何かが生まれてくるかもしれない」と話していました。
島田さんたちは、あす(10月20日)午後、横浜市でアイヌ文化を体験できるイベントを開催する予定です。
問い合わせ先
◇アイヌ文化の体験・交流イベント【アイヌ感謝祭】について
 日時:10月20日(土)12:00~17:00
 会場:「スペース・オルタ」(横浜市港北区新横浜2-8-4 オルタナティブ生活館B1)
 電話・FAX:045-472-6349
 内容:刺しゅうやアイヌ語の体験教室、歌と踊りのパフォーマンスなど
◇首都圏でアイヌ関連の情報を得るには…
 「アイヌ文化交流センター」
 東京都中央区八重洲2-4-13
 電話:03-3245-9831
 営業時間:午前10時~午後6時/日&月曜休み(祝日は営業、翌日休み)
http://www.nhk.or.jp/shutoken/ohayo/report/20181019.html?fbclid=IwAR2OYMigHIh1ULEHs45cHDfJF8czdu-LOo1Tmjre2JJD1TIDfT590TVQosQ

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武四郎、アイヌと共存願う

2018-10-20 | アイヌ民族関連
読売新聞 2018年10月19日

津で講演、元記念館館長高瀬さん
「武四郎は共存の世界を願っていた」と語る高瀬さん
 「北海道」の名付け親として知られる松阪市出身の探検家・松浦武四郎(1818~88年)の生き方を考える講演会が、津市の県総合博物館(みえむ)で開かれ、松浦武四郎記念館元館長の高瀬英雄さん(80)(松阪市)が「武四郎の願いはアイヌの人たちとの共存だった」と語った。
 高瀬さんは1999年から毎年、武四郎の足跡をたどって北海道を訪ね、アイヌ民族との交流も続けている。講演では、松前藩から搾取されるアイヌの窮状を告発した武四郎の書物などを紹介。「アイヌを友とし、共生社会を望んだ武四郎の生き方は、現代の私たちに多くのことを教えてくれる」と強調した。
 武四郎の考え方の背景には、松阪市出身の国学者本居宣長らの影響があるとも指摘。「一揆が起こるのは、民に非はなく、為政者が非を行うからである」と藩主に抗議した宣長の著作をひもとき、「松阪、三重という土地が武四郎の人間性を育んだ」と話した。
 みえむで開催中の企画展「幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎」は16日から国重要文化財を中心に展示の一部が入れ替わっており、約9800のアイヌ語地名が記された「東西蝦夷えぞ山川さんせん地理取調図とりしらべず」などがお目見えした。企画展最終日の11月11日午後1時30分からは「幕末維新を三重から語る武四郎鼎談ていだん」と題し、北海道博物館の三浦泰之学芸主幹らが研究の最前線を語る。問い合わせはみえむ(059・228・2283)。
https://www.yomiuri.co.jp/local/mie/news/20181019-OYTNT50093.html

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北海道は「帝国主義の『練習場』」だった 保阪正康さん、J-CAST講演会で近代日本を語る

2018-10-20 | アイヌ民族関連
J-CASTニュース2018/10/19 14:51
J-CASTニュースで「保阪正康の『不可視の視点』 明治維新150年でふり返る近代日本」を連載中のノンフィクション作家・保阪正康さんが2018年10月17日、東洋文庫(東京都文京区)で講演した。
保阪さんは、幕末から明治維新にかけて、日本には4つの国家像がありえたものの、結局は「帝国主義国家」を選択したと指摘。今回の講演では、自らの出身地でもある北海道が帝国主義の「練習場」になり、それが日本全体の帝国主義化につながる一因になったとの見方を示した。

「4つの国家像」について講演するノンフィクション作家の保阪正康さん
明治政府がアイヌを「旧土人」と呼ぶ意味
連載は、歴史にあえて「イフ(if)」を持ち込むことで、多様な角度から明治150年を読み解く内容。保阪さんは、国家像には(1)後発の帝国主義国としての道、(2)植民地解放、被圧迫民族の側に立った帝国主義的道義国家、(3)自由民権を国の柱に据えた国民国家、(4)江戸時代の国家像を土台に独自の連邦制国家、の4つがありえたと説いている。
北海道では2019年に「北海道命名150年」を迎える。1869年は明治政府が開拓使を設置し、アイヌ民族が住む蝦夷地を「北海道」と命名した年だ。アイヌの同化政策を進めていた明治政府は、1878年にアイヌ民族を「旧土人」と呼称することを決めている。講演では、保阪さんは
「その(『旧土人』という言葉を使う)神経というのは、北海道という土地が実は帝国主義的な国家の練習場になった(ということを示している)」
と批判した。
北海道統治が朝鮮、台湾の植民地政策のモデルケースに
さらに、明治政府が1886年に北海道庁を設置したのに続いて、1895年に台湾総督府、1910年に朝鮮総督府を置いたことを引き合いに、
「アイヌの人たちに対する中央政府、北海道庁が果たした役割が、実は満州、朝鮮、台湾で果たした中央政府の植民地政策とほとんど重なるということに気づく。この視点は、これからうんと検証しなければいけない。『フロンティアスピリット』などという甘い言葉で語って本質をごまかそうとする北海道論というのが、いかに北海道そのものの存在やアイヌの人たちを侮辱しているか、ということに根本からメスを入れなければならない」
などと訴えた。
さらに、この帝国主義というシステムが朝鮮半島や台湾でも上手く機能したことで、日本全体としても帝国主義を選ばざるを得なくなったと説いた。
「すでに北海道という土地を使いながら練習しているシステムがそこ(朝鮮半島や台湾)で機能しているということ。だから、それを選ぶしかないということは言えると思う」
イベント「J-CAST会員限定・特別講演 保阪正康 ANOTHER JAPAN」は、J-CASTニュースが登録会員向けに主催。約30人が熱心に耳を傾けた。
(J-CASTニュース編集部 工藤博司)
https://www.j-cast.com/2018/10/19341614.html?p=all

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白老・ポロトの森でキャンプ体験 訪日外国人客向けモニターツアー

2018-10-20 | アイヌ民族関連
苫小牧民報 2018/10/19配信

たき火を囲む参加者たち
 白老町のポロトの森エコミュージアム推進協議会主催のインバウンド(訪日外国人客)向けモニターツアーが16、17の両日、白老ふるさと2000年ポロトの森で行われた。外国人6人が参加し、普段はなかなか立ち入ることのできないもみじ平でキャンピングカーに寝泊まりしながら、森の中を散策したり、アイヌ文化を取り入れた食事を食べるなどして豊かなポロトの森を満喫した。
 同協議会は17年度から農林水産省の農山漁村振興交付金(農泊推進対策)事業の補助を受け、取り組みを進めている。今年度は北海道宝島旅行社へ事業を委託し、ポロトの森でアイヌ文化を取り入れた自然体験プログラムツアーの造成を進めており、その一環でインバウンド向けモニターツアー・ワークショップを企画した。
 今回のツアーのコンセプトは「ポロト・NeoFolk NeoAinu」。スペインやカナダから男女6人がツアーに参加した。
 現地に到着した一行は、早速、木を削ってスプーンを作るクラフト作りに挑戦したり、ガイドの案内で森の中を散策。夕食は、シカ肉とサケを薫製にしたものや、イタヤカエデの樹液と昆布でだしを取ったアイヌの伝統料理オハウなどを提供。静まりかえった森の中でたき火を囲んでの夕食に参加者たちも満足した様子。キャンピングカーで就寝し、翌朝には焼いたシカ肉を挟んだパンや前日のオハウをアレンジしたものなどを食べ、ツアーを終了した。
 スペインから北海道を訪れているセリア・サンシリロさん(28)は「自然が大好きなので、とてもリラックスできた」と話し、カナダから来たシャマヤ・ハチキンソンさん(24)は「日本で初めてのキャンプ。カナダも自然が豊かなので、とっても楽しい」と話した。
https://www.tomamin.co.jp/news/area2/14902/

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北欧発スーパーナチュラル・スリラー『テルマ』少女の秘められた力が初恋で覚醒する

2018-10-20 | 先住民族関連
『母の残像』の新鋭ヨアキム・トリアー監督による新境地
webDICE 2018-10-19 20:15

映画『テルマ』 ©PaalAudestad/Motlys
カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品された『母の残像』などで注目されるノルウェーの映画監督ヨアキム・トリアーの新作『テルマ』が10月20日(土)より公開。webDICEではトリアー監督のインタビューを掲載する。
主人公となる大学生の少女テルマは、同級生の女性アンニャとの恋をきっかけに、自らの超能力に気づき、幼少期の記憶を手繰り寄せていく。インタビューでも様々なホラー映画の名前が登場するが、とりわけ少女の通過儀礼とホラーを組み合わせるという意味では『キャリー』『炎の少女チャーリー』といったスティーヴン・キングを彷彿とさせる語り口が特徴的。ホラー映画の系譜を受け継ぎながらも、ノルウェーの美しい自然とそこに漂う不穏な空気を、トリアー監督らしい繊細なタッチとゴア描写、主人公テルマの出自の謎解きと青春譚が絶妙な配分でミックスされている。
「2つのテーマを構想に入れようと思ったのです。ひとつは『母の残像』で描いた弟の成長の物語のような、そして『オスロ、8月31日』で描いた孤独のメランコリーのようなテーマ、もうひとつはホラー映画の要素です。特異なキャラクターの物語の展開として、想像以上の世界の中で視覚的な効果を上げていくことを考えるというプロセスはとても楽しいものでした」(ヨアキム・トリアー監督)
クローネンバーグ『デッドゾーン』的な超自然的物語を目指した
──監督のこれまでの作品『リプライズ』(06)、『オスロ、8月31日』(11)、『母の残像』(15)を見てきた観客にとっては、このスーパーナチュラル・スリラー(超自然的スリラー)をテーマにした作品は驚きだったと思いますが、本作を製作しようと思った理由を教えていただけますか?
率直に申し上げて、私はいつもその時に創りたいと思った作品を作っています。今回は何か新しいことに挑戦してみたいということで、これまでにない方向に進めてみました。想像の中で描くイメージよりも、強烈に表現された多くの映画を観て私は育ちました。ミケランジェロ・アントニオーニ、イングマール・バーグマン、そしてブライアン・デ・パルマという錚々たる監督たちの作品です。特に、デヴィッド・クローネンバーグの『デッドゾーン』(83)がとても好きで、それはまるでおとぎ話のようで、それでいてとても人間味にあふれている物語が、超自然的なフレームワークの中で起こっているという現実的な感じがとても好きなのです。
──『テルマ』の物語はどこで始まったのですか?
オスロを舞台にした魔女の物語のようなことを考えていました。ある段階にきたところで、私が映画通であるが故の企画を考えるのは中断して、共同脚本家であるエスキル・フォクトと一緒に1970年代の“ジャッロ”という呼ばれるイタリアン・ホラー映画をたくさん見ました。エイドリアン・ライン監督の『ジェイコブズ・ラダー』(90)、トニー・スコット監督の『ハンガー』(83)を見ながらヒントを得ようと思いました。私とエスキルは、ジャンルは関係なく、これらの映画が表現しているのは、不安と死、本当に実在するのかという疑問に対して、人としてどのように接するのかを描いているのではないかという会話をしたことを覚えています。それがこの作品の一部なのです。そして、私たちは特定のシーンやイメージのコンセプトから考え始めたのです。さらに想像することを進めるにつれて、テルマというキャラクターのアイディアが膨らんできたのです。
そして、2つのテーマを構想に入れようと思ったのです。ひとつは『母の残像』(15)で描いた弟の成長の物語のような、『オスロ、8月31日』(11・未)で描いた孤独のメランコリーのようなテーマ、そしてもうひとつはホラー映画の要素です。特異なキャラクターの物語の展開として、想像以上の世界の中で視覚的な効果を上げていくことを考えるというプロセスはとても楽しいものでした。
精神的なジレンマを表現する
──主演のエイリ・ハーボーは繊細な痛みを伴うテルマの感情を表現していました。若い女性の成長の物語とともに、他の女性への魅力を感じるという、彼女の信仰に背くという展開も魅力だと思います。
テルマは、彼女の両親を通して内在化した生活をしていたことで苦悩しますが、私は、それ故の純粋さと美しさを同時に表現したかったのです。彼女にとって真実の彼女を受け入れることはとても複雑です。興味深いことに、私は本作の編集をしていると同時に、ノルウェーの作家カール・オーヴェ・クナウスゴールが、絵画「叫び」を描いたノルウェー出身の画家エドヴァルド・ムンクの恐怖に支配された人生を語るドキュメンタリーを撮っていました。ムンクは、スカンジナビア文化の美しく、繊細で、喜びに満ち、鮮やかな絵も多く描き、エネルギーにあふれ、自身を理解する若い人々とも多くの仕事をしていたのです。
──あなたには、テルマが抑制されることによって起こす超常現象であるということが見えていたのですね。
私は、物語のスタートとして精神的なジレンマを表現するヒッチコックのやり方の大ファンです。子どものころのトラウマを描いた『マーニー』(64)、不安と罪の意識を描いた『めまい』(58)の中にはヒッチコックらしいお茶目さが表現されていて、それらに私自身影響を受けています。本作の場合は、人間の体に起こる不安です。映画の最初、若い女性が予期しない発作を何度も起こしますが、医学でも科学でもなぜ起こるのか明快に答えることができません。多くのリサーチをしたのですが、心因性非てんかん発作(PNES:Psychogenic Nonepileptic Seizures)は実際にある病気なのです。もちろん、超自然的なものとして診断はされていませんが、説明しきれない人体の中で起こっている精神的、身体の経験等に起因する多くの事柄が原因と考えられています。
──若い女性たちが主人公で、その一人の念動のシーンを見て思い出したのではスティーブン・キングでした。
確かに、『キャリー』(74)、『炎の少女チャーリー』(84)です。この作品たちはまるでギリシャの神話のようで、遅かれ早かれ主人公たちは彼女たちの運命に向かい合わなければならない。そして、物語は主人公が中心に描かれていて、スティーブン・キングは人間を描く素晴らしい作家だと思います。
オリジナリティを如何に作り上げられるのか
──キャスティングについてお伺いしたいと思います。どうして新人俳優2人を主人公に起用したのですか?
この2つの役のために1,000人以上の人を調べました。主演のエイリ・ハーボーは、演技の経験は少しはありましたが、訓練を受けた俳優ではありませんでした。しかし、エイリに出会ったとき、彼女が普通の才能の持ち主でないことはすぐに分かりました。彼女の持つ成熟さと純粋さは、主人公が大人になっていく成長の過程を表現できると感じました。予想したように、主人公と同じ年齢でもある彼女はテルマの感情をつかんでくれました。
この役柄に求める体力的な演技へのプレッシャーを乗り越えることができるかということに少し不安がありました。ヘビと一緒の演技に加え水中での演技の訓練を乗り越えなければならないのですから。それでも、彼女はスタントに頼ることなく、大部分を自分で演じたいと言ってくれました。彼女は痛みが伴う発作の演技も実際に起こっているように演じなければなりませんでしたので、CGIでの編集の可能性も視野には入れていました。私たちは彼女に、多くの兵士たちが訓練を受けている外傷後外レス解放のための自己誘導発作トレーニング(TRE:Tension&Trauma Releasing Exercise)を薦めました。彼女はこの自己誘導発作を学んでくれたのです。私はこれまでに、ひとつの役にここまで身体的にも精神的に徹底的に挑戦してくれる俳優には出会ったことはありません。
カヤ・ウィルキンスはとても有名なミュージシャンです。ノルウェー出身とアメリカ出身の両親のもとに生まれたハーフで、現在はニューヨークを拠点に活躍しています。そして、今回俳優としての素晴らしい才能の持ち主であるということを証明してくれました。二人の女優の演技の応酬は、本作をダイナミックな作品にしてくれました。彼女は全てのことをとても簡単にこなしてしまうタイプで、ストレスが続く撮影の日々の中、周りの人々を落ち着かせてくれました。彼女はとてもクールな女性ですよ。
──俳優陣とはどのように接して、作品を作り上げていったのか少し教えていただけますか?製作準備、脚本とアドリブのバランスをどのようにしていたのか教えていただけますか?
スーパーナチュラル・スリラー映画の制作を考えたときに、「オリジナリティを如何に作り上げられるのか?」ということをまず考えました。そして、それは主人公のキャラクターを詳細に描くことによって、より微妙な違いを作り出すことができるのではと思いました。それは、イギリスのナショナル・フィルム&テレビジョン・スクールや学校で教鞭をとっているスティーブン・フリアーズ監督に学ぶことで考えることができました。ある企画を進めていく場合、俳優たちが演技をしやすく、挑戦しやすい空気感を現場で作っていかなければなりません。例えば、ある脚本があり、撮影前にリハーサルをしながら、さらに脚本を書き換えていく。次にセットでの撮影の際、脚本を再度、結果として3度目の手直しをして撮影に挑むのです。そのやり方を私は“ジャズ・テイク”と呼んでいます。
計画的にシーンを撮影した後、俳優たちがやってみたい演技に挑戦できるちょっと伸び白を意識して撮影することもあります。撮影の際、私はいつも俳優たちがより自由な演技ができるような空気感を作るようにしています。本作で、主人公は不安と恐怖にさいなまれながら、ある特定の恐ろしいシーンを演じなければなりませんでした。こういう高い緊張感の中で撮影をするにあたって、エイリのために礼拝をし、撮影の技巧を凝らしました。彼女自身が精神的に強い意志を持って緊張感を高めて、この役を演じることに挑戦をしてくれたことにより、信じられないようなシーンを撮ることができたのです。日々の撮影で、このような緊張感を維持して演じてくれた彼女は、本当に勇敢だと思います。
──シネマスコープでの撮影は初めてだということですが、何故シネマスコープを起用することを決めたのですか?それはあなたにとってどのような経験になりましたか?
本作の撮影監督を務めたのは、これまでの私の3作品でも担当をしてくれたヤコブ・イーレと私は、何か新しいことにチャレンジしてみたいと考えていました。私は今でも映画館に行くことを楽しんでいて、大きなスクリーンで映画を観ることが大好きです。大きなスクリーンを使うことによって、テルマというキャラクターもつパワーがそうであるように、何か小さいものが大きなスペースの中心にあるという映像を何とか表現できればと思ったのです。
──本作の中で、特に景色の美しさを映像で表現していると思います。それはシネマスコープの効果のひとつだと思います。
ノルウェーのおとぎ話の中で、1800年代中頃に書かれたものはグロテスクなものが流行っていました。デンマークの作家ハンス・クリスチャンセン・アンデルセンにも見られるように、北欧の神話は人間が自然にどのようにかかわっているかが描かれていました。本作では、それは、鳥、ヘビ、風、そして海なのです。それは、ノルウェーの北に住む先住民族サーミ人の文化にも見られるものです。私がこれまでに経験したこと以上に都会と自然との違いを表現したいと思い、私たちは北部に行き、雪が多く、氷に閉ざされた地域を、さらにはこの物語を語るにふさわしい場所となる荒野をノルウェーの西海岸で探さなければなりませんでした。私は都会出身で、パンク・ミュージックを聞いて、ブラック・デニムを来て、ブレイクダンスを踊っていたような輩です。それ故、ロケハンは私にとって、神話にあふれるスカンジナビアへの冒険の旅でもありました。ノルウェーの人々はきっと「なんと!ヨアキムが森の奥深くに行って、自然を撮影するようだ!」と思っていたと思います。それほど、私にとっては不自然なことだったのです。
(オフィシャル・インタビューより)
ヨアキム・トリアー (Joachim Trier) プロフィール
1974年、デンマーク生まれ。長編映画監督デビュー作の『リプライズ』(06・未)は、トロント、ロッテルダム、サンダンスなどの国際映画祭に正式出品され、ノルウェーのアカデミー賞外国語映画賞ノルウェー代表作品に選ばれ、“崇高で生まれながらの天才”と絶賛される。2作目の『オスロ、8月31日』(11・未)は、カンヌ(ある視点部門)、トロント、サンダンスなどの国際映画祭に正式出品され、アマンダ賞監督賞を受賞し、セザール賞外国語映画賞にノミネートされる。さらに、2013年には、“ニューヨーク・タイムズが選ぶ注目の監督20人”に選ばれる。続く『母の残像』(15)は、ガブリエル・バーン、ジェシー・アイゼンバーグ、イザベル・ユペールなどの国際的な実力派俳優を迎え、初の英語映画としてカンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品され、アマンダ賞監督賞、脚本賞を獲得するなど今や北欧を代表する監督となった。
映画『テルマ』
10月20日(土)YEBISU GARDEN CINEMA、ヒューマントラストシネマ有楽町他全国順次ロードショー
監督・脚本:ヨアキム・トリアー
出演:エイリ・ハーボー、カヤ・ウィルキンス、ヘンリク・ラファエルソン、エレン・ドリト・ピーターセン
配給:ギャガ・プラス
原題:Thelma
2017年/ノルウェー・フランス・デンマーク・スウェーデン/116分
公式サイト
▼映画『テルマ』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=0bdLOA6os8g
投稿者:webDICE編集部

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意外と知らない!?蜂蜜の種類や気をつけたいこと

2018-10-20 | 先住民族関連
CYCLE 2018年10月19日

金色のとろりとした蜜が優しい芳香を漂わせる蜂蜜は、料理に使うと砂糖とは違う深みを与えてくれる。紅茶などのドリンクに入れるのもおすすめ。今回は蜂蜜の歴史や収穫までの道のり、蜂蜜の種類などについて説明する。
意外と知らない!?蜂蜜の種類や気をつけたいこと
金色のとろりとした蜜が優しい芳香を漂わせる蜂蜜は、料理に使うと砂糖とは違う深みを与えてくれる。紅茶などのドリンクに入れるのもおすすめ。今回は蜂蜜の歴史や収穫までの道のり、蜂蜜の種類などについて説明する。
1.蜂蜜の歴史
●大陸における蜂蜜の歴史
ヨーローッパでは蜂蜜の歴史はふるく、スペイン北部のアルタミラ洞窟の壁画に蜂蜜の採取風景が描かれていることから、紀元前1万8000年~1万5000年くらいには食べられていたと考えられている。また、古代エジプトでは、霊魂を蘇らせるためにミイラに塗っていたそうである。また、蜂蜜は世界で最も昔から食べられていた食物だとも言われている。内服や外傷用の薬として珍重され、その後蜂蜜酒が作られた。それから、化粧品やパン、菓子、料理の材料として使われるようになったという変遷を遂げている。
●日本の蜂蜜の歴史
日本では、643年(皇極2)に百済の太子余豊が大和三輪山で養蜂していたと「日本書紀」に記述されている。ただ、蜜蜂を4家族三輪山に放ったが、繁殖はできなかったそうだ。その後、平安時代には、当時の法令集「延喜式(えんぎしき)」に、蜂蜜を朝廷に供進させたと書かれている。当時、蜂蜜は非常に貴重なものであり、主に神饌用(しんぜんよう)や薬用に使われていたのではないかと考えられている。ニホンミツバチから採れる蜂蜜の採取量は少ないため、明治初期にセイヨウミツバチが輸入されるまで、なかなか蜂蜜は一般には広まらず、貴重な食べ物であった。
2.蜂蜜の栄養
●蜂蜜は花の蜜?
蜂蜜というと、蜜蜂が花の密を集めてきたものをそのまま蜂蜜として食べられるように思える。確かに蜜蜂は花の蜜を集めるのだが、そのままではショ糖という、白砂糖と同じ成分の蜜なのである。蜜蜂は花の蜜を吸って、その蜜を巣の中にいる貯蜜係の蜂に口移しで渡す。そして貯蜜係の蜂は、巣の壁に花の蜜を塗り、羽で水分を蒸発させる。この過程で蜜蜂の唾液に含まれる転化酵素が花の蜜に混じり、花の蜜はブドウ糖と果糖に変わるのである。やがて蜂蜜の水分が20%ほどになると、蜜蜂は蜜蝋で薄いフタをする。その蜜から蜜蝋などの不純物を取り除いたものが蜂蜜である。
●蜂蜜の糖分
花の蜜のショ糖が蜜蜂の唾液によってブドウ糖と唾液に変化する蜂蜜。糖分以外にもビタミンや酵素、ポリフェノールなどさまざまな栄養が含まれている。しかし、特に蜂蜜の糖分が健康に及ぼす影響は素晴らしいものがある。ブドウ糖も果糖も単糖類と言われるもので、消化吸収のために分解する必要がない。そのため体内に入ってから20分ほどで吸収され、エネルギー源になるのである。素早く吸収されるので、胃腸への負担も軽い。また、ブドウ糖は素早く脳のエネルギー源になり、果糖はブドウ糖よりゆっくり吸収さるれため、そのエネルギーを長く持続することができる。
3.蜂蜜の種類と使用上の注意
花の数だけ蜂蜜の種類があると言ってもいいくらい蜂蜜の種類は多い。ここでは代表的な蜂蜜や変わり種の蜂蜜について説明する。
●アカシア
日本や中国、ハンガリーで採れる。クセのない風味で香りも優しいので、日本人に好まれる。レンゲの蜂蜜に似ている。蜂蜜は時間が経過すると結晶化するが、アカシアの蜂蜜は結晶になりにくい。
●クローバー
さっぱりとした風味、華やかな香りの蜂蜜だ。カナダ原産のものが多い。世界中で人気の蜂蜜でもある。
●そば
コーヒーのような濃い茶色をしていて、黒砂糖に似た味わい。中国原産のものが多い。ところてんやわらびもちにかけて食べても美味。
●マヌカ
ニュージーランドの先住民、マオリ族がマヌカの木を病気や怪我の治療のために使っていたことから、マヌカハニーは民間療法のひとつとして注目を集めている。クリーミーな食感で濃厚な風味がする。他の蜂蜜に比べて高価格である。
とろりとした食感や自然の甘みが人気の蜂蜜。健康のために食べる人もいるかと思うが、1歳未満の幼児や赤ちゃんに蜂蜜をあげるのは避けてなければならない。蜂蜜にはボツリヌス菌が含まれていることがあり、乳児ボツリヌス症にかかることがある。大人の場合は、他の腸内細菌にボツリヌス菌が負けるので影響しないが、1歳未満の場合は注意が必要である。
結論
素早くエネルギー源になり、特に脳の活性化を促す蜂蜜。そのまま食べるのはもちろん、照り焼きなどの料理に使うのもおすすめだ。ミントやブラックベリーなど種類も豊富なので、お気に入りの蜂蜜を見つけるのも楽しみ方のひとつである。
はちみつが固まったらどうする?結晶の原因と戻し方投稿者:
オリーブオイルをひとまわし編集部
監修者:
管理栄養士 出口美輪子(でぐちみわこ)
https://cyclestyle.net/article/2018/10/19/67478.html

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唯一無二のクールな台湾土産が買える 原住民族の文化を伝えるブランド

2018-10-20 | 先住民族関連
楽天WOMAN 2018/10/19 15:00
タロコ族の青年が立ち上げた部族文化を伝えるブランド
 台湾には漢人系住民のみならず、中国語で「原住民族(※)」と呼ばれる少数民族が暮らしています。
 タイヤル族、アミ族、パイワン族、ルカイ族、プユマ族、タオ族、タロコ族、サイシャット族など、現在、政府の認定を受けているのは16部族。それぞれが独自の文化を持ち、言語や習慣に差異が見られます。
 今回はそういった彼らの文化に迫るショップをご紹介します。
 台北市の西部、迪化街に店を構える「花生騒」は台湾原住民族の文化をモチーフにしたファッションブランドです。店内には部族の伝説に登場する動物たちを描いたカジュアルウェアや伝統的な紋様をモチーフにしたアクセサリー、月桃の葉を編んだかごバッグなど、個性的な商品が並んでいます。
迪化街の南側、南京西路との交差点の近くに店があります。
 ここを経営するのはタロコ(太魯閣)族のDerlaさんと、大学時代の同級生だったというデザイナーのWoodsさん。
 Derlaさんは大学時代に原住民族の青年が集まるイベントに参加し、自らのルーツに目覚めたとのこと。「若い世代にも部族の文化に興味をもってもらいたい。また、外国の方々にも台湾の豊かな文化を知ってもらいたい」との思いを抱き、ブランドを立ち上げました。
Derlaさん(右)のタロコ族の名前は「Derlabers Saw」で、ピーナッツを意味します。中国語ではピーナッツは「花生」、「Saw」は「騒」の発音と似ているので、「花生騒」という店名に。ちなみに、広東語では「花生騒」は「ファッションショー」の意味もあるそうです。
 Derlaさんたちは商品のデザインを考える際、伝説や昔話などを調べるほか、実際に集落を訪ね、長老たちに話をうかがうのだそうです。
 伝統文化を大切にしながらも、若者たちを惹きつけられるように、ファッショナブルで実用的な商品を開発しています。また、オリジナルグッズ以外に、友人たちが手がけた作品も扱っています。
月桃のかごバッグやアクセサリーは台湾南部の屏東に暮らす友人たちの作品。
 店の2階には原住民族の文化を紹介するスペースを設け、織物教室やアワ酒作りなどのイベントも開催しています。
 これからは単なるショップではなく、文化を発信する基地として注目されていくことでしょう。
アワは原住民族の暮らしに欠かせないものです。
※台湾では「原住民族」というのが正式な表記で、「先住民」は「すでに滅んでしまった民族」という意味になりますので、ここでは現地の文化を尊重し、「原住民族」という言葉を用いています。
聖なる樹木と伝統模様が
素敵なTシャツ
◆Tシャツ 
680元、880元
聖なる樹木を描くことで環境保護の大切さも訴えているのだそうです。
 伝説などに登場する聖なる樹木のイラストと織物や刺繍を組み合わせたTシャツ。現在、タイヤル族、タロコ族、パイワン族の3種類があります。
 例えば、タイヤル族のTシャツに描かれているのは半分が樹木で、半分が石の「石生樹」。彼らの祖先はこの樹木から誕生したという伝説があるそうです。Derlaさんによれば、これを胸ポケットに描くことで、部族の精神を常に心の中に抱いてほしいという願いを込めているそうです。
素朴ながらも可愛らしい
月桃のかごバッグとお財布
◆月桃のかごバッグ 
大1,200元、小600元
◆月桃のお財布 
1,000~1,600元
伝統的な素材を現代風にアレンジしたアイテムです。
 屏東県の三地門に暮らすパイワン族の女性たちが製作したかごとお財布。
 かごは使いやすいように、持ち手部分には革を使用しています。また、お財布には可愛らしい柄のファブリックも組み合わせています。
 なお、月桃の葉は器を作ったり、チマキを巻いたりなど、昔から原住民族の暮らしに欠かせないものでした。
原住民族文化を表現した
マスキングテープ
◆マスキングテープ 
120元(2個セットは199元)
知られざる原住民族の文化に触れられるグッズ。
 マスキングテープは全6種類。ルカイ族の伝説に登場する台湾黒熊と雲豹(ウンピョウ)をモチーフにした模様や、パイワン族の伝統家屋に用いられるスレート板と頭飾りに用いられる獣骨をモチーフにした模様。
 さらに、アミ族の伝統衣装に見られる華やかな十字刺繍をイメージした模様もあります。
個性が光るキュートなピアス
◆ピアス 
490~590元
シックな装いの時には魅力的なワンポイントアイテムとなります。
 屏東県にあるアトリエの商品。
 ここではパイワン族とルカイ族の文化をモチーフにした商品を製作しています。この2部族は原住民族の中でも特に芸術的センスに秀でていると言われています。
 カラフルな幾何学模様の刺繍が入ったピアスなど、いつもとはちょっぴり違うオシャレが楽しめることでしょう。
台湾の野生動物を描いた
可愛らしいコースター
◆コースター 
230元
野生動物を通して原住民族の文化を知ることができます。
 伝説や昔話などに登場する動物をモチーフにしたコースター。台湾黒犬、石虎(台湾ヤマネコ)、ムササビ、白鹿、台湾黒熊、フクロウ、カンムリワシなどが描かれています。台湾黒熊の顔にはタイヤル族の伝統である「入れ墨」も施されていたりするなど、ディテールにもこだわっています。
クールな伝統模様柄が
目を引く靴下
◆靴下 
199元
一つ一つの模様に興味深い意味が込められています。
 靴下のデザインは、伝説の中に登場する動物や、部族の伝統的な紋様、森や海などの自然がモチーフになっています。中には、原住民族の中でも唯一の海洋民族であるタオ族の木彫り船の紋様が入ったものもあります。
 男女兼用です。
トビウオとシイラの形をした
ユニークなポーチ
◆魚ポーチ 
480元
ペンケースとして、あるいはマイお箸などを入れるのにちょうどよいサイズです。
 台湾東部の洋上に浮かぶ蘭嶼。この島に暮らすタオ族はトビウオ漁で知られています。
 トビウオはシイラに追われることによって飛び跳ねる習性があることから、ここではトビウオのほか、シイラのポーチも開発しています。
 製作者は台湾南部の沿岸部にある喜樹地区に暮らす裁縫が得意なおばさまたち。彼女たちは「喜樹菜奇仔」というグループを結成し、台南の特産である「虱目魚(サバヒ―、ミルクフィッシュ)」の魚型ポーチを製作し、話題を集めました。
 これはその「喜樹菜奇仔」とコラボして生まれた商品です。
花生騒(ホワセンサオ)
所在地 台北市大同區迪化街一段3號
交通 MRT北門駅2番出口から徒歩8分
電話番号 02-2559-5312 
営業時間 10:00~19:00
定休日 無休
https://www.wasangshow.com/
片倉真理 (かたくら まり)
台湾在住ライター。1999年から台湾に暮らし、台湾に関するガイドブックや書籍の執筆、製作に携わる。そのほか、機内誌への寄稿や女性誌のコーディネートなども手がけている。2011年に台湾で出版した中国語書籍『在台灣,遇見一百分的感動~片倉真理 旅的手記』(夏日出版社)のほか、共著に『食べる指さし会話帳・台湾』(情報センター出版局)、『台湾で日帰り旅 鉄道に乗って人気の街へ』(JTBパブリッシング)など。2018年4月20日に新刊『台湾探見 Discover Taiwan-ちょっぴりディープに台湾体験』(ウェッジ)を刊行。
文・撮影=片倉真理
https://woman.infoseek.co.jp/news/trend/creabunshun_20955

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一生に一度だけの旅 地元の人しか知らないカナダの素敵な場所 知られざる入植者たちの歴史 ──ノバスコシアとニューブランズウィック

2018-10-20 | 先住民族関連
ナショナルジオグラフィック 2018/10/19
カナディアンロッキーやプリンスエドワード島、ナイアガラの滝など、世界的な観光名所をいくつも擁するカナダ。一方で、評判の良い国や住みやすい都市のランキング上位に選ばれることも多く、美しい自然も暮らしやすい街も世界中の人々を引きつける。かつてプリンスエドワード島で暮らし、第二の故郷と呼ぶ風景写真家 吉村和敏が、知られざるカナダの魅力を写し撮る。
 カナダ東部、ノバスコシア州の州都ハリファックスからヤーマスにに向かう道はライトハウス・ルートと呼ばれている。いくつもの灯台や素朴な漁村、歴史ある港町が点在する、人気のドライブコースだ。ハリファックスから南に延びる333号線を40分ほど走ると、巨大な花崗岩の上に真っ白な灯台がポツンと立つ、ペギーズコーブにやって来る。開放感ある美しい岬を一目見ようと、この日も多くの観光客で賑わっていた。
 入江沿いに宗派の異なる3つのキリスト教会が立ち並ぶマホーンベイは、イギリス植民地時代に誕生した古いコミュニティーで、現在は多くのアーティストが暮らす村として知られている。すず細工で人気が高いアモスピューター発祥の地でもあり、大通り沿いに本店と工房がある。
 さらに10分ほど走るとルーネンバーグにたどり着く。ここは、かつてドイツやスイスから海を渡ってきたプロテスタントの人たちが築いた美しい港町。18~19世紀の建物が残された一角は、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。
 早速、町中を散策してみる。入江沿いの斜面に、切妻屋根を持つゴシック調、チューダー調の邸宅が密集して立っている。壁は赤や黄、紫など鮮やかな色でペイントされているので、町全体が随分と華やかな感じだ。海霧がよく発生する地で生きる人々の知恵だという。モンタギュー・ストリートに店を構えるクラフトショップに入ってみると、浮子(うき)の置物、貝殻のアクセサリー、海を描いた絵画など、思わず財布のひもを解きたくなるような素敵な作品が、所狭しと並んでいた。

アナポリスバレーは、土地が肥沃で気候が温暖なことから、人々は農業中心の生活を営んでいる。なかでもリンゴ栽培が盛んで、花が咲く5月下旬は里が真っ白に染まる。かつてこの地で暮らしていた1万人以上のアカディアンたちは、未開の地であったノバスコシアの東海岸、プリンスエドワード島の西海岸に追放された。
 州北西部のファンディ湾に面した一帯は、アナポリスバレーと呼ばれるなだらかな丘陵地帯。ムギやマメ、ジャガイモなどを栽培する広大な農地が広がり、リンゴの果樹園が多いことでも知られている。10月初旬、どの木もあふれんばかりの真っ赤な実をつけていた。
 この地は、カナダで初めての本格的な植民地が造られ、カナダ入植の歴史の第一歩が記された地である。1605年、フランス国王から新大陸における毛皮交易の独占権を与えられたピエール・ドゥ・モン卿は、仲間と共にこの地に最初の植民地を建設。やがて訪れたフランスからの入植者たちは、先住民の知恵を借りながら土地を開拓し、独自の文化が花開いていった。
 当時、この地区一帯は、「アカディア」と呼ばれ、ヨーロッパから新大陸への玄関口として重要視されていた。しかし、植民地争奪の戦いで完全にイギリスの領土になると、アカディアに暮らしていた人たち(アカディアン)は追放されてしまう。当時の悲劇は、アメリカの詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの詩『哀詩 エヴァンジェリン』(岩波文庫)で知ることができる。エヴァンジェリンと、恋人ガブリエルの悲恋を描いた物語だが、ここで語られていることはほぼ事実といわれている。
 かつてアカディアンが豊かな暮らしを営んでいた、グランプレ村を訪れてみた。牧草地に抱かれるように小さな歴史公園があり、そこに石造りの教会がポツンと建っている。内部には、彼らが追放されたときの様子を描いた絵画や資料が展示されている。すぐそばに立つエヴァンジェリン像。悲しみに満ちた表情で遠くの空を見つめる彼女の瞳が印象的だ。
 ノバスコシア州の北西にニューブランズウイック州が隣接する。州都フレデリクトンは、イギリス王室に忠誠を誓ったロイヤリストたちが築いた街だ。セントジョン川沿いには、ニレの街路樹に抱かれるように、ビクトリア様式の邸宅が立ち並んでいる。いくつかの大学や短大、専門学校があるためだろう、街は若者たちで賑わっていた。
 この街の郊外に、18世紀のロイヤリストの生活を垣間見ることができる歴史村「キングス・ランディング」がある。かつてダム湖の建設によって水没が決まった村から、民家や納屋、教会などの建物を移築し、この広大な歴史村を誕生させたのだ。
 ゲートをくぐり、村の中に一歩足を踏み入れた途端、目の前に広がる世界に驚愕した。映画でしか知らなかった18世紀の村が、そのままの形で再現されていたからだ。面白いことに、ここで働く人たちも、当時の服装に身を包み動き回っている。カメラのシャッターを盛んに押しながらいくつかの農家を訪問し、昔の家具や調度品、農機具を見せてもらった。その後、学校、教会、雑貨屋、鍛冶屋、製材所と巡ったが、まるで300年前にタイムスリップしたかのような不思議な感覚を味わった。
 ノバスコシア州とニューブランズウイック州を分けるファンディ湾は、世界最大の干満差があることで知られている。その光景を間近に見られるのは、ニューブランズウイック州モンクトン郊外にあるホープウェルロックだ。訪れたのがちょうど満潮時で、高さ10メートル以上もある岩の大半が海の中に沈んでいた。しかし6時間後に訪れてみると、先程とは全く異なる光景が広がっていた。なみなみとした湾の海水はずっと先の方まで後退し、どの岩も根元まで露出した状態になっていた。
 干潮時、周辺の漁港でも、目を見張る光景が広がっている。桟橋に係留されているすべての漁船が船底をさらけ出し、露出した湾の底にぺたりと横たわっているのだ。当然、この時間帯、漁師は海に出ることが出来ない。彼らは、毎日の潮の流れをチェックし、働く時間を決めているのだろう。自然界のリズムに合わせて生きるその姿に、アトランティック・カナダで暮らす人々の心の豊かさを感じた。
この連載はカナダ観光局の提供で掲載しています。
吉村 和敏(よしむら かずとし)
1967年、長野県松本市生まれ。田川高校卒業後、東京の印刷会社で働く。退社後、1年間のカナダ暮らしをきっかけに写真家としてデビュー。以後、東京を拠点に世界各国、国内各地を巡る旅を続けながら、意欲的な撮影活動を行っている。自ら決めたテーマを長い年月、丹念に取材し、作品集として発表する。絵心ある構図で光や影や風を繊細に捉えた叙情的な風景作品、地元の人の息づかいや感情が伝わってくるような人物写真は人気が高く、定期的に全国各地で開催している個展には、多くのファンが足を運ぶ。近年は文章にも力を入れ、雑誌の連載やエッセイ集の出版など、表現の幅を広げている。作品集、写真展、テレビ出演等多数。2003年 カナダメディア賞大賞受賞、2007年 日本写真協会賞新人賞受賞、2015年 東川賞特別作家賞受賞。写真集に『プリンス・エドワード島』『「フランスの最も美しい村」全踏破の旅』(講談社)、『BLUE MOMENT』『MORNING LIGHT』(小学館)、『光ふる郷』(幻冬舎)、『あさ/朝』(アリス館)、『こわれない風景』(光文社)、『ローレンシャンの秋』(アップフロントブックス)、『林檎の里の物語』(主婦と生活社)、『PASTORAL』(日本カメラ社)、『Sense of Japan』(ノストロ・ボスコ)、『Shinshu』(信濃毎日新聞社)、『雪の色』(丸善出版)などがある。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/18/083000017/101500004/

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今、ホモ・サピエンスのアフリカ起源説など人類史の常識が次々と覆されている

2018-10-20 | 先住民族関連
ダイヤモンドオンライン 2018年10月19日
[橘玲の世界投資見聞録]
 30億ドル(約3300億円)の予算をかけたヒトゲノム計画が完了してわずか十数年で、全ゲノム解析のテクノロジーは驚くべき進歩をとげ、いまでは誰でもわずか数万円で自分のDNAを調べられるようになった。
 さらに近年、遺跡などから発掘された遺骨からDNAを解析する技術が急速に進歩し、歴史時代はもちろん、サピエンスが他の人類と分岐する以前の古代人の骨の欠片からDNAを読み取ることもできるようになった。この「古代DNA革命」によって、従来の遺跡調査からはわからなかった人類の移動や交雑の様子が明らかになり、古代史・歴史の常識が次々と覆されている。
 デイヴィッド・ライク『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(NHK出版)は、サピエンスとネアンデルタール人の交雑を証明したマックス・プランク進化人類学研究所のスヴァンテ・ペーボとともに、この「古代DNA革命」を牽引する現役の遺伝学者が学問の最先端を一般向けに紹介した刺激的な本だ。
 詳細は本を読んでいただくとして、ここではそのなかから興味深い知見をいくつか紹介したい。とはいえ、その前に用語について若干断っておく必要がある。
 日常的に「人類」と「ヒト」を区別することはないが、人類学では両者は異なる意味で使われる。「ヒト」は現生人類(ホモ・サピエンス)のことで、「人類」はヒト族のみならず化石人類(アウストラロピクテス属など)を含むより広義の分類だ(専門用語ではホモ属=ホミニンhomininという)。ここでは、ユヴァル・ノア・ハラリに倣って現生人類を「サピエンス」とし、ネアンデルタール人やデニソワ人など絶滅した古代人を含むホモ属の集合を「人類」とする。
 本書でいう「交雑」とは、人類のなかの異なる集団(サピエンスとネアンデルタール人)や、サピエンスのなかの異なる集団(アフリカ系とヨーロッパ系)のDNAが混じりあうことだ。これは一般に「混血」とされるが、血が混じり合うわけではないから、科学的には明らかに誤っている。そのため「交配」が使われたりしたが、これはもともと品種改良のことで優生学的な含みがあるため、消去法で「交雑」に落ち着いたのだろう。
 そうはいっても、「交雑」には「純血種をかけあわせたら雑種になる」というニュアンスがあり、「彼らは混血だ」というのと、「彼らは交雑だ」というのではどちらがPC(政治的に正しい)かというやっかいな問題は避けられないだろう。しかし私に代案があるわけでもなく、将来、よりPCな用語が定着するまで、本稿でもサピエンス内の集団の性的交わりを含め「交雑」とする。
 これまで何度か書いたが、「原住民」と「先住民」では漢語として明確なちがいがある。「原住民」は「かつて住んでいて、現在も生活している集団」で、「先住民」は「かつて住んでいて、現在は絶滅している集団」のことだ。日本では「原住民」が一部で差別語と見なされているが、ここでは漢語本来に意味にのっとり、「アメリカ原住民」「オーストラリア原住民」として「(絶滅した)先住民」と区別する。
全ゲノム解析によりホモ・サピエンスのアフリカ起源説が揺らいできた
 進化の歴史のなかでは、ホモ・サピエンス(現生人類)にはさまざまな祖先や同類がいた。ラミダス猿人やホモ・ハビルス、北京原人やネアンデルタール人などの化石人類を含めた人類(ホモ族)は、700万~600万年前にアフリカのどこかでチンパンジーとの共通祖先から分かれた。
 これについては大きな異論はない(あまりに遠い過去で証明のしようがない)が、その後の人類の歴史については、多地域進化説とアフリカ起源説が対立した。
 多地域進化説では、180万年ほど前にユーラシアに拡散したホモ・エレクトス(原人)が各地で進化し、アフリカ、ヨーロッパ、アジアの異なる地域で並行的にサピエンスに進化したとする。それに対してアフリカ起源説では、サピエンスの祖先はアフリカで誕生し、その後、ユーラリア大陸に広がっていった。
 1980年代後半、遺伝学者が多様な民族のミトコンドリアDNAを解析して母系を辿り、すべてのサンプルがアフリカにいた1人の女性から分岐していることを明らかにした。これがミトコンドリア・イブで、約16万年(±4万年)に生存したとされる。この発見によってアフリカ起源説に軍配が上がったのだが、これはサピエンスが10~20万年前のアフリカで誕生したということではない。
 ライクによれば、この誤解はミトコンドリアのDNAしか解析できなかった技術的な制約によるもので、全ゲノム解析によると、ネアンデルタール人の系統とサピエンスの系統が分岐したのは約77万~55万年前へと大きく遡る。サピエンスの起源は、従来の説より50万年も古くなったのだ。
 そうなると、(最長)77万年前からミトコンドリア・イブがいた16万年前までの約60万年が空白になる。これまでの通説では、その間もサピエンスはずっとアフリカで暮らしていたということになるだろう。
 ところがその後、サピエンスの解剖学的特徴をもつ最古の化石が発見され、その年代が約33万~30万年前とされたことで、従来のアフリカ起源説は大きく動揺することになる。“最古のサピエンス”はジェベル・イルード遺跡で見つかったのだが、その場所は北アフリカのモロッコだったのだ(正確には石器や頭蓋の破片が発見されたのは1960年代で、近年の再鑑定で約30万年前のものと評価された)。
 アフリカ起源説では、サピエンスはサハラ以南のアフリカのサバンナで誕生し、約5万年前に東アフリカの大地溝帯から紅海を渡って「出アフリカ」を果たしたとされていた。だが30万年前に北アフリカにサピエンスが暮らしていたとなると、この通説は覆されてしまうのだ。
遺伝学的には「アフリカ系統」と「ユーラシア系統」がある
 遺伝学的には、サピエンスは「アフリカ系統」と「ユーラシア系統」の大きく2つの系統に分かれる。ユーラシア系統は5万年ほど前にアフリカを出て世界じゅうに広がっていき、アフリカ系統はそのまま元の大陸に残った。
 この2つの系統は、ネアンデルタール人のDNAを保有しているかどうかで明確に分かれる。ネアンデルタール人はユーラシアにしかいなかったため、アフリカにいるサピエンスとは交雑せず、そのためアフリカ系統の現代人にネアンデルタール人のDNAの痕跡はない。
 従来の説では、ネアンデルタール人の遺跡がヨーロッパで多く発見されたため、出アフリカ後に北に向かったサピエンスが交雑したとされていた。だが現代人のDNAを解析すると、非アフリカ系(ユーラシア系)はゲノムの1.5~2.1%ほどがネアンデルタール人に由来するが、東アジア系(私たち)の割合はヨーロッパ系より若干高いことが明らかになったのだ。
 その後も、単純な「出アフリカ説」では説明の難しい人類学上の重要な発見が相次いだ。
 2008年、ロシア・アルタイ地方のデ二ソワ地方の洞窟で、約4万1000年前に住んでいたとされるヒト族の骨の断片が見つかった。サピエンスともネアンデルタール人とも異なるこの人類は「デニソワ人」と名づけられたが、DNA解析でニューギニアやメラネシアでデニソワ人との交雑が行なわれたいたことがわかった。――ライクは、これをシベリア(北方)のデニソワ人とは別系統としてアウストラロ(南方)デニソワ人と呼んでいる。
 さらに、アフリカ系と非アフリカ系のDNAを比較すると、ネアンデルタール人、デニソワ人とは別系統のDNAをもつ集団がいたと考えないと整合性がとれないこともわかった。
 ライクはこの幻の古代人を「超旧人類」と名づけ、サピエンス、ネアンデルタール人、デ二ソワ人の共通祖先(約77万~55万年前)よりもさらに古い140万~90万年前に分岐したと推定した。超旧人類はデニソワ人と交雑し、その後、絶滅したと考えられる。
 約5万年前にサピエンスが「出アフリカ」を遂げたとき、ユーラシアにはすくなくともネアンデルタール人とデニソワ人(アウストラロ・デニソワ人)という人類がおり、サピエンスは彼らと各地で遭遇した。交雑というのは性交によって子どもをつくることで、動物の交配(品種改良)を見ればわかるように、きわめて近い血統でなければこうしたことは起こらない。
 分類学では、子をつくらなくなった時点で別の「種」になったとみなす。ということは、サピエンス、ネアンデルタール人、デニソワ人は(あるいは超旧人類も)「同種」ということだ。ネアンデルタール人とデニソワ人は同じユーラシアに住み、47万~38万年前に分岐したとされるから「同種」なのもわかるが、それより前の77万~55万年前に分岐し、地理的に隔絶したアフリカ大陸で(最長)70万年も独自の進化をとげてきたはずのサピエンスがとつぜんユーラシアに現われ、彼らと交雑できるのだろうか。
 ここでライクは、きわめて大胆な説を唱える。サピエンスもユーラシアで誕生したというのだ。
サピエンスはなぜ他の人類を絶滅させるまでになったのか
 従来の人類学では、人類はアフリカで誕生し、約180万年前にホモ・エレクトス(原人)がユーラシア大陸に進出した後も、ネアンデルタール人の祖先やサピエンスなど、さまざまな人類がアフリカで誕生しては繰り返し「出アフリカ」したことになっている。だがなぜ、新しい人類はアフリカでしか生まれないのか? ユーラシア大陸にも180万年前から多くの人類が暮らしていたのだから、そこで進化したと考えることもできるのではないか。
 ライクは古代人のDNA解析にもとづいて、ユーラシアに進出したホモ・エレクトスから超旧人類が分岐し、さらにサピエンス、ネアンデルタール人、デニソワ人と分岐していったのではないかと考える。デニソワ人は東ユーラシアから南ユーラシアに広がり、ネアンデルタール人はヨーロッパを中心に西ユーラシアに分布した。だとしたら、サピエンスはどこにいたのか。
 ライクの説によると、サピエンスは脆弱な人類で、ネアンデルタール人に圧迫されて中東の一部に押し込められていた。その後、ネアンデルタール人がさらに中東まで進出したことで、約30万年前には北アフリカや東アフリカまで撤退せざるを得なくなった。これが、モロッコでサピエンスの痕跡が発見された理由だ。
 ところが5万年ほど前に、そのサピエンスが「出アフリカ」を敢行し、こんどはネアンデルタール人やデニソワ人などを「絶滅」させながらユーラシアじゅうに広がっていく。このときネアンデルタール人は中東におり、サピエンスと交雑した。このように考えると、アフリカ系にネアンデルタール人のDNAがなく、東アジア系がヨーロッパ系と同程度にネアンデルタール人と交雑していることが説明できる。ネアンデルタール人の遺跡がヨーロッパで多数見つかるのは、サピエンスと遭遇したのち、彼らがユーラシア大陸の西の端に追い詰められていったからだろう。
 中東でネアンデルタール人と交雑したサピエンスの一部は東に向かい、北ユーラシアでデニソワ人と、南ユーラシアでアウストラロ・デニソワ人と遭遇して交雑した。その後、彼らはベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ、海を越えてオーストラリア大陸へ、そして千島列島から北海道、本州へと渡り縄文人の先祖になった。
 ところで、ネアンデルタール人に圧迫されて逃げまどっていた脆弱なサピエンスは、なぜ5万年前には、他の人類を絶滅させるまでになったか。これについては遺伝学者のライクはなにも述べていないが、ひとつの仮説として、アフリカに逃げ延びた30万年前から「出アフリカ」の5万年前までのあいだに、共同で狩りをするのに必要な高度なコミュニケーション能力を進化させたことが考えられる。これによってサピエンスは、マンモスなどの大型動物だけでなく、ネアンデルタール人やデニソワ人など他の人類を容赦なく狩り、男を皆殺しにし女を犯して交雑していったのかもしれない。
馬を手にしたヤムナヤの遊牧民がヨーロッパに移動した
 ライクは『交雑する人類』で、DNA分析からヨーロッパ、南アジア、東アジア、アメリカ原住民、オーストラリア原住民、アフリカなどでどのようにサピエンスが移動し、交雑していったのかを説明している。ここではそのなかで、ヨーロッパとインドについて紹介しよう。
 1万年前、中東の肥沃な三日月地帯で農耕が始まると、新たなテクノロジーを手にしたひとびとは農耕可能な土地を求めて東西に移住していった。しかしなかには農耕に適さない森林地帯や草原地帯(ステップ)もあり、そこには依然として狩猟採集民がいた。農耕民と狩猟採集民は、時に交易し、時に殺し合いながら暮らしていた。そうした集団のなかには、今日、DNAにしか痕跡を残さない者もおり、ライクはそれを「ゴースト集団」と呼ぶ。
 遺伝学的には、8000年前頃の西ユーラシアの狩猟採集民は青い目に濃い色の肌、黒っぽい髪という、いまでは珍しい組み合わせの風貌だったと推定されている。ヨーロッパの最初の農耕民のほとんどは、肌の色は明るかったが髪は暗い色で茶色の目をしていた。典型的なヨーロッパ人の金髪をもたらした変異の最古の例として知られているのは、シベリア東部のバイカル湖地帯でみつかった1万7000年前の古代北ユーラシア人(ゴースト集団)だ。
 ヨーロッパの東には中央ヨーロッパから中国へと約8000キロにわたって延びる広大なステップ地帯があったが、5000年ほど前にそこで馬と車輪というイノベーションが起きた。この最初の遊牧民の文化を「ヤムナヤ」と呼ぶ。
 馬という高速移動手段を手にしたヤムナヤの遊牧民は、新たな土地を求めて移動を繰り返した。このうち西に向かった遊牧民が現在のヨーロッパ人の祖先だ。
 ここでライクが強調するのは、遊牧民がヨーロッパの農耕民と交雑したわけではないということだ。DNA解析によれば、彼らは定住民とほぼかんぜんに置き換わってしまったのだ。
 遊牧民が定住民の村を襲ったのだとすれば、男を殺して女を犯して交雑が起きるはずだ。その痕跡がないということは、遊牧民がやってきたときには定住民はいなかった、ということになる。そんなことがあるのだろうか。
 ここでの大胆な仮説は病原菌だ。ペストはもとはステップ地帯の風土病とされているが、遊牧民が移住とともにこの病原菌を運んできたとしたら、免疫のない定住民はたちまち死に絶えてしまったはずだ。こうして交雑なしに集団が入れ替わったのではないだろうか。
 15世紀にヨーロッパ人はアメリカ大陸を「発見」し、銃だけでなく病原菌によってアメリカ原住民は甚大な被害を受けた。興味深いことに、それとまったく同じことが5000年前のヨーロッパでも起き、「原ヨーロッパ人」は絶滅していたかもしれないのだ。
西ヨーロッパ人と北インドのアーリア、イラン人は同じ起源を持つ同祖集団
 馬と車輪を手にしたステップの遊牧民のうち、ヨーロッパ系とは別の集団は南へと向かい、現在のイランや北インドに移住した。彼らはその後「アーリア」と呼ばれるようになる。
 独立後のインドでは、「インド人とは何者か?」が大きな問題になってきた。
 ひとつの有力な説は、ヴェーダ神話にあるように、北からやってきたアーリアがドラヴィダ系の原住民を征服したというもの。この歴史観によると、バラモンなどの高位カーストは侵略者の末裔で、低位カーストや不可触民は征服された原住民の子孫ということになる。
 だがこれが事実だとすると、インドはアメリカの黒人問題と同様の深刻な人種問題を抱えることになり、国が分裂してしまう。そこでヒンドゥー原理主義者などは、アーリアももとからインドに住んでおり、神話にあるような集団同士の争いはあったかもしれないが、それは外部世界からの侵略ではないと主張するようになった。
 現代インド人のDNA解析は、この論争に決着をつけた。
 インド人のDNAを調べると、アーリアに由来する北インド系と、インド亜大陸の内部に隔離されていた南インド系にはっきり分かれ、バラモンなど高位カーストは北インド系で、低位カーストや不可触民は南インド系だ。インダス文明が滅び『リグ・ヴェーダ』が編纂された4000年~3000年前に大規模な交雑があり、Y染色体(父系)とミトコンドリア染色体(母系)の解析から、北インド系の少数の男が南インド系の多くの女と子をつくっていることもわかった。
 近年のヒンドゥー原理主義は、カーストが現在のような差別的な制度になったのはイギリスの植民地政策(分断して統治せよ)の罪で、古代インドではカーストはゆるやかな職業共同体で極端な族内婚は行なわれていなかったとも主張している。この仮説もDNA解析で検証されたが、それによると、ヴァイシャ(商人/庶民)階級では、2000~3000年のあいだ族内婚を厳格に守って、自分たちのグループに他のグループの遺伝子を一切受け入れていないことが示された。ジャーティと呼ばれるカースト内の職業集団にもはっきりした遺伝的なちがいがあり、インドは多数の小さな集団で構成された「多人種国家」であることが明らかになった。
 西ヨーロッパ人と北インドのアーリア、イラン人は同じステップ地方の遊牧民「ヤムナヤ」に起源をもつ同祖集団で、だからこそ同系統のインド=ヨーロッパ語を話す。それに加えてライクは、バラモンによって何千年も保持されてきた宗教もヤムナヤ由来で、ヨーロッパ文化の基層にはヒンドゥー(インド)的なものがあることを示唆している。
ゲノム解析では「アフリカ人」「ヨーロッパ人」「東アジア人」「オセアニア原住民」「アメリカ原住民」はグループ分けできる
『交雑する人類』にはこれ以外にも興味深い仮説がたくさん出てくるのだが、それは本を読んでいただくとして、最後に人種問題との関係についてライクの見解を紹介しておきたい。
 ここまでの説明でわかるように、DNA解析は歴史を再現するきわめて強力な手段だ。それがサピエンスとネアンデルタール人の交雑であれば科学的な興味で済むだろうが、現代人の異なる集団の交雑を検証する場合、北インド人と南インド人のケースでみたように、きわめてセンシティブな領域に踏み込むことになる。一歩まちがえば「人種主義(レイシズム)」として批判されかねないのだ。
 ライクはリベラルな遺伝学者で、この重い問いに誠実にこたえようとする。その一方で、科学者として耳触りのいい「きれいごと」でお茶を濁すこともできない。
 リベラル(左派)の知識人は、「人種は社会的な構築物だ」とか、「人種などというものはない」と好んでいいたがる。だが2002年、遺伝学者のグループがゲノム解析によって世界中の集団サンプルを分析し、それが一般的な人種カテゴリー、すなわち「アフリカ人」「ヨーロッパ人」「東アジア人」「オセアニア原住民」「アメリカ原住民」と強い関係のあるクラスターにグループ分けできることを立証した。これはもちろん、「人種によってひとを区別(差別)できる」ということではないが、人種(遺伝人類学では「系統」という用語が使われる)のちがいに遺伝的な根拠があることをもはや否定することはできない。
 このことは、もっとも論争の的となる人種と知能の問題でも同じだ。
 ヨーロッパ人系統の40万人以上のゲノムをさまざまな病気との関連で調査した結果から、遺伝学者のグループが就学年数に関する情報だけを抽出した。その後、家庭の経済状況などのさまざまなちがいを調整したうえで、ゲノム解析によって、就学年数の少ない個人より多い個人の方に圧倒的によく見られる74の遺伝的変異が特定された。
 これも遺伝によって頭のよさ(就学年数の長さ)が決まっているということではないが、「遺伝学には就学年数を予測する力があり、それはけっして些細なものではない」とライクはいう。予測値がもっとも高いほうから5%のひとが12年の教育機関を完了する見込みは96%なのに対して、もっとも低いほうから5%のひとは37%なのだ。
 こうした(リベラル派にとって)不都合な研究結果を紹介したうえで、ライクは、「実質的な差異の可能性を否定する人々が、弁明の余地のない立場に自らを追い込んでいる」のではないかと危惧する。私なりに翻案すれば、「扉の陰にいるのは黒いネコであるべきだし、黒いネコに間違いないし、いっさい異論は許さない」と頑強に主張しているときに、白いネコが出てきたらいったいどうなるのか、ということだ。「そうした立場は、科学の猛攻撃に遭えばひとたまりもないだろう」とライクはいう。
 これは「古代DNA革命」の第一線の研究者として、新しいテクノロジーのとてつもないパワーを知り尽くしている者だけがいうことができるきわめて重い発言だ。門外漢の私はこれについて論評する立場にないので、最後にライクの警告を引用しておきたい。
「認知や行動の特性の大半については、まだ説得力のある研究ができるだけの試料数が得られていないが、研究のためのテクノロジーはある。好むと好まざるとにかかわらず、世界のどこかで、質のよい研究が実施される日が来るだろうし、いったん実施されれば、発見される遺伝学的なつながりを否定することはできないだろう。そうした研究が発表されたとき、わたしたちは正面から向き合い、責任を持って対処しなければならない。きっと驚くような結果も含まれているだろう」

橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)など。最新刊は、『朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論』(朝日新書) 。
●橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン』を毎週木曜日に配信中!(20日間無料体験中)
http://diamond.jp/articles/-/182802

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私の東京/ニュージーランド大使おすすめ

2018-10-20 | 先住民族関連
朝日新聞 2018年10月19日12時34分
 日本で暮らす世界各国の大使館の人たちに、東京のお気に入りスポットを聞く「私の東京」。美術鑑賞が好きなニュージーランド大使のスティーブン・ペイトンさんは、不思議な企画展が人気を集める展示施設「21_21 DESIGN SIGHT」(港区)を紹介してくれました。
まるで洞窟、展示内容に魅力
 私のお気に入りは、東京ミッドタウン(港区)にある「21_21 DESIGN SIGHT」です。建築家・安藤忠雄さん設計の建物は、外観の派手さはありませんが、内部はまるで洞窟に入ったようで楽しい。東京メトロで乗り換えなしで行ける便利さもあり、よく訪ねています。
 何より展示内容が魅力的です。様々なモノのデザインだけを集めた施設は、ほかに例がないでしょう。2014年の「コメ展」には戸惑いました。日本の誰もが知る米を、わざわざ展示する理由が分からなかったからです。でも、米にまつわる様々な商品や道具が並び、魅了されました。身近な製品のパッケージを分析してみせる「デザインの解剖展」も印象に残っています。日本の商品デザインには強さを感じます。
 サントリー美術館や森美術館にも近く、美術鑑賞が好きな私にとって便利です。東京は緑が多く、歩いて楽しい街。大きなビルや寺社など、興味深い建物も多い。以前、銀座から大使館まで歩いて帰ったこともありました。
 ニュージーランドにも、日本の方に訪ねてもらいたい美術館や博物館があります。港を望む景色も美しいオークランド博物館、先住民マオリ族の素晴らしい芸術作品を並べた国立博物館テ・パパ・トンガレワ、ゴベット・ブリュースター美術館では現代アートが楽しめます。
 そしてニュージーランドといえばラグビー。来年のワールドカップ日本大会を前に、代表チーム・オールブラックスが今月来日します。私たち国民にとって大切な存在で、その勇気や体力、メンバーの多様性は、ニュージーランド社会が尊重してきた価値を表しています。ぜひ多くの日本の方に、その姿を目にしてもらいたいですね。
 (聞き手・岡雄一郎)
 ◆スティーブン・ペイトン大使
 2016年9月から現職。日本ではこれまで、大阪でも勤務経験がある。日本のデザインに興味をひかれるといい、「1964年東京五輪の公式ポスターを目にして感動しました」。家族は妻と娘2人。59歳。
 <21_21 DESIGN SIGHT> 様々なもののデザインの展示施設として、2007年に開館。デザイナーの三宅一生さん、グラフィックデザイナーの佐藤卓さん、プロダクトデザイナーの深澤直人さんがディレクターを務めている。雑貨や写真、土木、アスリートといった幅広いテーマを、斬新な方法で展示する企画展を催している。次回は、民芸に注目した「民藝(みんげい) MINGEI -Another Kind of Art展」が11月2日に始まる。
 <ニュージーランド大使館> 所在地は渋谷区神山町。大使館のほかに、大使公邸や職員住宅などが並ぶ。敷地内には日本庭園があり、池で泳ぐニシキゴイや石灯籠(どうろう)が来客の目を楽しませる。石の仏像まで安置されているが、由来は「よく分からない」とペイトン大使。
https://www.asahi.com/articles/CMTW1810191300005.html

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世界の教室から 北欧の教育最前線(8) 増える学校の特別食

2018-10-20 | 先住民族関連
教育新聞 2018年10月19日[購読会員限定]
平等と要望のせめぎあい
日本では、子供たちの遠足には親の手作り弁当がつきものだ。家事全般が苦手な私としては、たいしたメニューでもないのに、遠足の一週間も前から気をもんでしまう。子供をスウェーデンのプリスクールに入れて感動したのは、遠足の日も家からお弁当を持って行かなくていいことだった。先生いわく、「みんなが同じものを食べることが大事なんです。昼食のことは私たちが全部準備しますよ」。当日は、引率の先生方の1人が手押し車に食べ物、飲み物、そして食器を載せて遠足に出掛けていった。
■平等な社会のための平等な学校給食
スウェーデンでは1946年に、国のお金であたたかい学校給食を提供することが議会で決められた。その理由は多角的で▽子供たちが同じ食事を得ることで、社会の平等をより促進する▽お弁当作りを含む家事から、女性を解放する▽悪い食生活や栄養失調を防ぐ――などであったという。
その後、60年代にその責任は国から自治体にうつり、現在では基礎学校(日本の小・中学校に相当)、養護学校、サーメ学校(先住民族サーメ人のための学校)で、「栄養が十分にある食事」を「無料で」提供することが学校法で規定されている。すべての子供に対して平等な教育を提供し、それを通して平等な社会を形成しようとした、スウェーデンの学校に対する哲学が、ここにも表れていると言えるだろう。
高校の給食は法制化されていないが、ほとんどの自治体が提供している。……
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https://www.kyobun.co.jp/education-practice/p20181019-2/

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