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<北海道>北海道150年で未来を考える ”心寄せて”(動画)

2018-10-14 | アイヌ民族関連
HTB 10/13(土) 19:00配信
 今年、北海道と命名されてから150年という節目に合わせて、学識者などによるシンポジウムが13日、札幌で開かれました。
 『北海道の過去と現在と未来を語る』と題して行われたシンポジウムには鈴木直道夕張市長、アイヌ文化に詳しい札幌大学の本田優子教授などが登壇し、意見を交わしました。本田教授は『アイヌ文化は北海道の最大の価値』、ジャーナリストの外岡秀俊さんは『北海道の地名にはアイヌ文化がすでに宿っている』と北海道命名150年をきっかけに様々な視点で考えるべきと語りました。さらにノンフィクション作家の保坂正康さんは『(アイヌの人たちのことを)もっと深く考える必要がある』と語りかけました。また、鈴木夕張市長は『北海道の過去を見つめて新たな道を切り開いていけるのか、どう希望に変えるのか。150年をそういう機会に』と話しました。この模様は後日、朝日新聞の紙面のほか、www.hokkaido150.com (朝日新聞・HTB 北海道150年特設サイト)でもお伝えする予定です。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181013-00000006-htbv-hok

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<北海道>『創世スクエアHTBまつり』14日まで(動画)

2018-10-14 | アイヌ民族関連
HTB 10/13(土) 18:02配信
 12日から始まった『創世スクエアHTBまつり』。北海道命名150年を記念したトークショーも行われ、会場は多くの人でにぎわいました。
 このまつりはHTBの新社屋が入る「さっぽろ創世スクエア」と「サッポロファクトリー」の2つの会場で行われています。onちゃんのクレーンゲームやファイターズとコラボしたヴァーチャルリアリティ体験ができるコーナーもあり、子どもたちがファイターズ選手との対戦を楽しんでいました。会場ではイチオシ!出演中のオクラホマが専門家を交えて北海道150年のトークショーを行い、「北海道」と命名した松浦武四郎の知られざるエピソードに会場がわきました。また、北海道の過去と現在・未来をテーマに学識者らによるシンポジウムも開かれました。アイヌ文化を理解し心を寄せて欲しいなど、今後の北海道の在り方について意見が交わされました。このシンポジウムの模様は後日、朝日新聞の紙面の他、北海道150年の特設サイト、”hokkaido150.com ”でもご紹介します。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181013-00000004-htbv-hok

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坂本龍一 高校で学生運動、芸大合格したら総スカン

2018-10-14 | 先住民族関連
ニッケイスタイル 10/13(土) 7:47配信

 ニューヨークを拠点に世界で活躍する音楽家、坂本龍一さんのロングインタビュー。最終回となる3回目は、育った家庭環境のほか、音楽グループ、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の軌跡、左翼運動に明け暮れた学生時代の苦い経験、現在の音楽活動などについて語る(インタビューの初回は「『戦メリ』が僕の人生を変えた」、2回目は「役作り曲作り、『ラストエンペラー』の狂騒」)。
■三島由紀夫『仮面の告白』、編集者の父が発掘・後押し
 ――どんな家庭環境で育ったんですか。
 「父、一亀は戦後の日本文学界の隆盛を支えた編集者でした(旧河出書房『文藝』の元編集長)。家には書籍が山のようにあり、作家の生原稿もあちこちに置いてある。そんな環境で育ちました。父の帰宅は深夜か明け方なので、顔を合わせるのも月1回くらい。思想的にはリベラルですが、出征経験があるので『雨戸を開けろ』『新聞もってこい』などといつも怒ったような軍隊口調で話す。怖くてまともに目を合わせたことがなかったです」
 ――一亀さんは旧大蔵省の若手エリート官僚だった三島由紀夫に作家になるように勧めたそうですね。
 「『仮面の告白』を執筆する際、三島さんとそういうやり取りをしていた手紙が家にありました。若い作家の発掘に情熱を燃やしていたようです。椎名麟三さんの『永遠なる序章』、野間宏さんの『真空地帯』、高橋和巳さんの『悲の器』など多くの作品を世に送り出しました。酒に強い九州男児で『バカヤロー』が口癖。バーなどで作家たちに何度も書き直しを命じていたそうです。時には飲み屋で取っ組み合いのケンカもしていたらしい。『坂本家の先祖は隠れキリシタンだった』という話を親戚から聞いたこともあります」
■父母の対照的な性格、完全に半分ずつ受け継ぐ
 ――母の敬子さんはどんな人でしたか。
 「陽気で活発で社交的。父とは対照的な性格でした。音楽や芝居が好きで帽子のデザイナーだった。僕がピアノを始めたのは母の影響です。ちなみに母方の祖父、下村弥一は元東亜国内航空社長、元東京生命専務などを務めた実業家。五高、京大時代は後に首相になる池田勇人と同級で生涯の親友だったそうです。僕が子どもの頃、その祖父から偉人伝などの本を買ってもらった記憶があります。初孫だったので、よくかわいがってもらいました」
 ――坂本さんは父似ですか、それとも母似ですか。
 「父と母の両方を完全に半分ずつ引き継いでいる感じですね。こだわりが強くて沈思黙考タイプなのは父の性格。でも、それが長続きせず、楽天的な部分がすぐに顔を出すあたりは母の性格だと思います。音楽作りも、父母双方の要素が混ざっている気がします」
 ――1978年にYMOとして活動を始めたとき、一亀さんが怒ったそうですね。
 「赤い人民服を着たり、化粧をしたりしていたので『おまえをピエロにするために音大(東京芸術大学作曲科)にやったのではないぞ』と叱られました。90年代半ば、髪の毛を金色に染めたときには『格好でなく、ちゃんと音楽で勝負せんか』と言われたこともあります」
■砂川闘争で負傷した先輩に憧れ、塩崎・元厚労相らと校長室封鎖
 ――都立新宿高校時代は学生運動の活動家だったようですね。
 「高校に入り、すぐに学生運動の『洗礼』を受けました。ある日、学校に行くと、2年上の先輩が血のにじんだ包帯を頭に巻いていた。驚いて『どうしたんですか』と聞くと、『砂川でやられた』という。在日米軍立川飛行場の拡張に反対する砂川闘争でした。そのとき、映画『大脱走』の主役、スティーブ・マックイーンみたいで格好いいなと無邪気に憧れたのがきっかけです。それで社会科学研究会(マルクス主義の研究サークル)に出入りするようになりました」
 ――高3秋には同級生だった塩崎恭久さん(後に官房長官、厚労相などを歴任)らと校長室をバリケード封鎖します。
 「僕や同級生だった塩崎、馬場憲治(ホリプロに入社し、マネジャーとして担当していた演歌歌手の石川さゆりさんと結婚。その後、離婚)のほか下級生も含めて数十人で制服制帽や試験、通信簿の廃止など7項目を訴え、校長室を占拠しました。学校の先生たちもその要求に真摯に向き合ってくれて、制服制帽や試験が本当になくなったんです」
 「でもその後、僕が東京芸大にストレートで合格すると、友人からは総スカンを食らいました。『試験や学校制度にあれだけ反対していたのに、入試を受けて、自分だけちゃっかり大学に入るなんて裏切り行為だ』と非難されたんです」
 「僕からすれば『受けたら入っちゃった』という感じだったんですが、彼らが怒るのも当然ですよね。『大学を解体するために入った』と説明しても理解はされず、しばらく相手にしてもらえなかった。浪人を経て、塩崎は東大、馬場は早大に進みます」
■アウトローな芸大生活、ガラスケースを壊して逮捕
 ――東京芸大作曲科、同大学院ではどんな学生生活を送っていたんですか。
 「アウトローな生活です。小泉文夫先生の民族音楽学を除くと、授業にはほとんど出ていません。小泉先生は、先住民族の音楽を収集するフィールドワークを続けていた研究者ですごく憧れていた。大学では音楽学部よりも、面白いやつが多かった美術学部の方によく出入りしていました。学生運動は続けていましたが、肉体労働をしたり、バーでピアノ弾きをしたり、アングラ劇団を手伝ったりしているうちに、スタジオミュージシャンとしての日雇い仕事が増えてきた。でもバイト感覚が強くてまだ職業という意識はない。自然に気持ちもすさんできます」
 「こんな出来事がありました。新宿でライブをした後、翌朝まで飲み明かし、甲州街道のあたりを酔っ払って歩いていたら、喫茶店のガラスケースがふと目に入った。その中にあるスパゲティやパフェなどの食品サンプルがホコリだらけで汚れていたので、僕にはどうしても許せず、いきなりガラスを蹴りつけて壊してしまった。『よし、これで世の中から醜いものを消し去ったぞ』なんて意気揚々と歩いていたら、器物損壊で警官に捕まったんです。不起訴になったので前科はついていませんが……。よく飲み、よく遊んでいた時代でした」
■YMO誕生時の経緯、細野・高橋さんとの人間関係は?
 ――YMOはどんな経緯で誕生したんですか。
 「メンバーとなる細野晴臣さんや高橋幸宏さんとは、音楽活動を通じて知り合いました。YMO結成の構想は細野さんの家で聞かされました。3人でミカンが置いてあるコタツに座り、細野さんがノートを開くと、そこに富士山が爆発する絵と400万枚という文字が書いてあった。高橋さんは素直にやる気を見せていたようです。でも僕は『まあ、時間があるときはやりますよ……』みたいな感じで半身の態度だった。生意気でとんがっていましたからね」
 ――細野さんとは緊張関係があるようですが、馬が合わないのですか。
 「いえ、そういうわけではありません。ただ、何かと一番年下の高橋さんが、僕と細野さんの間を取り持とうと、右往左往する場面が多かった気がします。細野さんからは『君は日本刀の抜き身のようで危ないから、その刃をサヤに収めてくれないか』なんて助言されたこともある。YMOの活動は5年ほどで終わり、僕の音楽人生は新たな局面に入ります」
■「ものの音」にひかれる、時間をテーマにオペラ作曲へ
 ――最近はどんなことに取り組んでいますか。
 「もの自体が発する音にひかれています。プラスチックのバケツをステッキでたたいたり、シンバルやドラを弓でこすったり……。楽器だって本来は木や鉱物だったわけで、もの自体のプリミティブな音に発見がある。今はエレキギターにも凝っています。和音の弾き方はよく知りませんが、適当に弦を指ではじいたり、鉄でこすったりしていると、思わぬ音が出るので面白い」
 「がんになった影響でしょうか、時間についても興味があります。九鬼周造やハイデガーなど時間に関する哲学書を読んでいます。今後は時間をテーマにした新しいオペラを作曲したいですね」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181013-00000001-nikkeisty-ent&p=1

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「生きることが最大の反撃だ」結成30年、孤高のパンクバンドがゴールデンカムイのテーマ曲に辿り着くまで

2018-10-14 | アイヌ民族関連
ハフポスト日本版編集部 2018年10月13日 17時30分 JST | 更新 9時間前
フロントマン、吉野寿が軌跡を語った。
10月からTVアニメ『ゴールデンカムイ』第二期がスタートした。原作は単行本累計800万部を超える大ヒット漫画だ。2018年には第22回手塚治虫文化賞に輝いた。
今回、エンディングテーマ曲『時計台の鐘』を担当するのが、今年、結成から30周年を迎えた3人組パンクバンド「eastern youth」である。『ゴールデンカムイ』の作者・野田サトルから直々にオファーがあった。フロントマン、吉野寿が30年の軌跡を語った。(取材・執筆:星久美子、編集:石戸諭)

3人組パンクバンド「eastern youth」
「記念の年に人気アニメのテーマ曲に抜擢」というと華やかなニュースに聞こえるが、彼らはレコード会社を転々とし、吉野は心筋梗塞も経験した。これまでの道のりは決して平坦ではなかった。
吉野はバンドの哲学をこう語る。「生きてることが唯一にして最大の反撃なんです。それが俺の戦い方です」と語る。
『ゴールデンカムイ』の舞台は明治時代後期の北海道。吉野が生まれ育ち、eastern youthを結成したのも北海道だ。楽曲提供の経緯はそんな縁だった。
「30周年だし、もともと音源を出そうかって話を進めていたんです。その最中に番組サイドからオファーを頂いて。原作者の野田サトルさんが僕らを直々に指名してくださったそうです。聞くと同じ北海道出身なんですね」
主人公は日露戦争で活躍した元陸軍兵・杉元佐一だ。数々の死線をくぐり抜けてきたことから「不死身の杉元」の異名を持つ。
一攫千金を狙って北海道に足を踏み入れた杉元は、アイヌから奪われた埋蔵金の噂を耳にする。やがてアイヌの少女・アシㇼパに出会い、金塊の在り処を巡って様々な敵と対峙するサバイバルドラマである。
原作を全巻読み、曲作りに取り組んだ。
「冒険活劇みたいで面白かったですね。アイヌの生活形態や狩猟、食べ物、言葉...。すごく深く取材されて描いているんだなあ、と感心しました」
「制作にあたって制約はなく、自由に作った」と書き下ろした曲は『時計台の鐘』。札幌の象徴を彷彿とさせるタイトルについて「そんなつもりはなかったんですけどね。そう言うところに落ち着いてしまったんです」と語る。
東京暮らしが長くなったが、今も心の中にある原風景は、生まれ育った北海道の景色だという。
「雪と氷。山も海もない、ただ真っ平らな土地。晴れ渡った日の厳しい寒さ。あんなに嫌って飛び出した故郷なのに、子供の頃の風景はずっと根っこにあるんだなあ、って思います。」
孤高のパンクバンド
eastern youthは1988年に札幌で結成された。結成からのメンバーはボーカル、ギター担当の吉野と、小学4年生からの幼馴染みであるドラムの田森。2015年に加入した村岡ゆかがベースを務める。
「30という数字は一つの区切りだなあとは思いますが、めでたいとか、特別なことは何もないですね。『思えば遠くへ来たもんだ』、って感じです」
全国ツアーを間近に控えた9月中旬、東京・荻窪の焼き鳥店で、吉野はビールを一口飲んだあと、しみじみとした口調で語り始めた。
eastern youthは一貫してパンクロックを奏でてきた。現在までに17枚のアルバムを発表。98年発表したアルバム『旅路ニ季節ガ燃エ落チル』は、90年代日本語ロックの名盤との呼び声も高い。
流行の音楽シーンに流されず、誰かと群れることなく、独自のスタンスを貫いてきたことから、「孤高のバンド」と評されることもある。音楽性の評価も高く、星野源のようにミュージシャンの中にもファンを公言し、影響を語る人は多い。
吉野は「自分たちがどういう影響を与えたとか一切興味もない。何の影響も与えてない」と一蹴する。
世の中のすべてが敵だった少年時代、パンクとの出会い
北海道・帯広で生まれ育った吉野は、幼少期から周囲に馴染めない子供だった。集団に違和感を覚え、小学校のころから学校をサボりがちになる。
「友達なんて誰もいないし、周りはみんな敵。世の中を呪ってました」
孤独な少年時代に出会ったのが、パンクロックだった。
「兄貴に洋楽を聞かされて、そこからパンクという音楽を発掘するんです。初めて聞いた時はぶん殴られたような衝撃でした。それまで聴いていた洋楽とも違って、曲が異常に短い、早い、ギターソロが殆どない。『何を言ってるかわかんないけど、すごい怒ってるぞ』って」
社会に対する不満、怒り、皮肉を込めたメッセージ性の高い歌詞と、叫びに近いボーカル。一気にのめり込んだ。
家に籠もっては、パンクの歴史を切り開いた「The Clash」のレコードを擦り切れそうなほど聴いた。中学に進むと、DISCHARGE、G.B.Hなどハードコアパンクに傾倒する。
「『ふざけんじゃねえ』とか『学校なんか行かなくていい』とか。サイコーだと思って。家の外にラジカセのスピーカーを向けて大音量で流してましたね。そういう少年でした。近所の皆の衆聞け、俺の気持ちはこれだって」
バンド結成、上京、デビュー。
それでも消えない「不安」
高校中退後、17歳で家を出て札幌へ。20歳の時にeastern youthを結成する。バンド名は当時の住まいが北1条東2丁目、札幌の東側に位置していたことに由来する。
やがて音楽活動を通じて仲間にも出会う。当時の札幌には、のちに盟友となる怒髪天、bloodthirsty butchers、DMBQなど日本のパンクシーンを代表するバンドが勢揃いしており、親交を深めた。
「札幌は海で隔てられた、いわば孤立した街。今みたいに情報もたくさん入ってこないし、他所のことはわからない。しがらみもないし、自分たちだけで自由にやってましたね」
1990年に上京、建築現場のアルバイトをしながらライブ活動を続け、1998年メジャーデビューを果たす。音楽が職業になるとは思っていなかったという。
「契約が決まった時はやったぜって思いましたけど。何が一番大きいって、もう現場に行かなくていいってこと。朝早く集合して、その日どんな現場に行かされるかもわからない。そんな暮らしを一生続けるのもしんどいなと思って」
自分たちの音源が全国のCDショップに並ぶ。メディアにも取り上げられ、ライブ動員も拡大する。
「でも結局は安定したわけじゃない。今もそうです。生まれてから今まで、不安じゃなかったことなんて一度もない」
目の前に突きつけられた「死」の実感
音楽業界の生存競争は熾烈だ。eastern youthも30年間で3つのレコード会社を渡り歩いた。現在は、2006年に設立した自主レーベル「裸足の音楽社」から音源をリリースする。これまで歩んできた道のりは、決して順風満帆とは言い難い。
30年間で、バンドの存続を揺るがす最大の危機はなんだったのだろうか。吉野は自身を突然襲った病をあげた。
2009年、アルバムをリリースし全国ツアーを開催中に自宅で急性心筋梗塞に倒れる。救急搬送ののち緊急手術を受け、入院した。参加予定のフェスやツアーは全て出演キャンセルとなり、その後約半年間の休養を余儀なくされる。
若い頃は40歳くらいで死ぬだろうと思っていた。しかし、いざ自分の死を目の前に突きつけられ、その感覚は大きく変わる。
「もうダメだと思った。命が助かっただけありがたい。今も調子が悪いと、あの時のことがトラウマみたいに蘇る。実感として体が覚えてるんです」
今年、吉野は50歳を迎えた。
「周りにもいなくなった人はたくさんいるから、死は身近ですよね。でも拾った命ですから、もうちょっとちゃんと生きていかないと」
音楽でひとつになんかならなくていい
彼らの活動の基本はライブだ。ツアーのことを彼らは「巡業」と呼ぶ。練習を重ね、車いっぱいに機材を積み込み出かけていく。北から南まで、全国津々浦々を旅してきた。
年月を経て、ライブに変化はあったのだろうか。
「ステージから客席が見えるんですけど、来てくれる人も自分たちと一緒に歳をとったなあって感じはしますよね」と言って笑う。
「昔は自分も若かったから、暴れたりギャーギャー騒いだりする人もいたけど、今はおのおの好きに聞いてる人が多い。静かだからといって、つまらないわけじゃない。それでいいなと思いますよ。自分も聴く側だったらそうだし」
ライブのMCでも「音楽でひとつにならなくたっていい」と語ってきた。
「『みんな盛り上がってこうぜ〜イエーイ!』とか、自分には良くわからんのです。型通りに盛り上げたいとか、全く思わない。こちらはただ、気持ちが通じればいいなと思ってプレイするだけです」
孤独を自分のものにする
「孤独をちゃんと自分のものにしたらいいもんですよ。今、生きづらくても、それをわかってくれる人は世の中いっぱいいるし、仲間はできる」
迷ったっていい。自分の弱さを肯定して、それでも前に進む。根底にある孤独や不安を、飾らずに歌い続けてきた。そのまっすぐな歌が、社会の片隅で生きづらさを抱える誰かに届いてきた。
吉野は「個」であることの重要性を説く。
「誰でも必ず『個』なんです。自分の周りにいる人も、道端ですれ違う人も。『個』のない人なんていない。それをひとくくりにしてはみ出すものを除外するような、そんな社会はあってはならんのです」
生きてることが唯一にして最大の反撃
これまで自分自身を突き動かしてきたものとは。少し考えて、言葉を選ぶようにゆっくりと話す。
「自分を抑圧しようとする社会に対する反撃です。ガキの頃から仲間外れだったから、ずっとそうやって戦ってきた。今でも殺されてたまるかと思ってますよ」
「勝負というのは相手を打ち負かすことじゃない。負けないことが大切なんです。相手を叩きのめしたらそれが勝ちなのか?一体誰に勝つのか?全員ぶっ殺すために一番簡単なのは自分が死ぬことですよ。でもそれじゃ負けなんです」
パンクとは反撃の音楽だと言われる。吉野にとって「最大の反撃」とは何か? じっと前をにらみ、ペースを変えずにあくまで淡々と、しかし力強く語る。
「何があっても絶対に逃げ回って生き延びる。生きてることが唯一にして最大の反撃なんです。それが俺の戦い方です」
30年のその先も、戦いは続いていく。
プロフィール
吉野寿(よしの・ひさし)1968年北海道生まれ。現在、30周年全国ツアー「eastern youth 極東最前線/巡業 ~石の上にも三十年~」で各地を回っている。9/5に配信シングル『循環バス』を発売し、11/14にTVアニメ『ゴールデンカムイ』エンディングテーマを収録したシングル『時計台の鐘』をリリースする。
裸足の音楽社 http://www.hadashino-ongakusha.jp/index.html
https://www.huffingtonpost.jp/2018/10/13/eastern-youth-golden-kamui_a_23559713/

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野外音楽フェス 多彩なステージ満喫/新郷

2018-10-14 | アイヌ民族関連
Web東奥 2018年10月13日
かがり火やたき火がともる会場で多彩なステージが繰り広げられた「村魂祭」
 青森県新郷村の間木ノ平グリーンパークで13日、野外音楽フェス「村魂祭(そんこんさい)」が開かれた。各地から訪れた多くの来場者は、自然豊かな環境の中で多彩なジャンルのステージを満喫した。
東奥ウェブ読者くらぶに入会されると記事全文がご覧になれます。
https://www.toonippo.co.jp/articles/-/100357

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