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主張「明治150年」近代日本の歩み検証する視点

2018-10-24 | アイヌ民族関連
赤旗 2018年10月23日(火)
 「上からは明治だなどというけれど 治明〈おさまるめい〉と下からは読む」―徳川幕府が倒れて明治新政府ができたとき、東京と改称された江戸の民衆はこんな狂歌をよんだと伝えられています。
 150年前の1868年、旧幕府側と薩摩・長州両藩を中心とする新政府軍との間で戊辰戦争が始まり、新政府は「五箇条の誓文」を公布し、江戸城が無血開城されました。そして、年号が慶応から明治に改元されました。
特異な一面的礼賛の姿勢
 きょう政府は都内で「明治150年記念式典」を開催します。1868年10月23日に明治改元があったことを記念し「明治以降の我が国の歩みを振り返り、これからの未来を切り開く契機とする」(菅義偉官房長官)との触れ込みです。安倍晋三政権は2年前から「明治150年」キャンペーンを展開してきました。
 首相自身、今年の年頭所感で「明治日本の新たな国創りは、植民地支配の波がアジアに押し寄せる、その大きな危機感と共に、スタートしました」「近代化を一気に推し進める。その原動力となったのは、一人ひとりの日本人」と強調しました。きわめて一面的な「明治」礼賛です。戦前と戦後の違いを無視した時代錯誤の危険な歴史観がにじんでいます。
 明治維新によって身分制が改められるなど、政治変革の激動のもとで急速な近代化が進んだのは事実です。しかし、明治政府がおこなったのは「富国強兵」「殖産興業」の名のもとに、資本主義化を推進し、労働者や農民から搾取と収奪をすすめることでした。
 それと並行して、欧米列強に対抗するために徴兵令(1873年)を公布し、台湾出兵(74年)や江華島事件(75年)などアジアへの侵略の歩みを進めました。また、蝦夷地(えぞち)を「開拓」してアイヌ民族を差別し、琉球処分を強行して沖縄を一方的に支配下に組み込みました。国民の政治参加を求めた自由民権運動は抑え込まれました。
 明治政府がうちたてたのは、大日本帝国憲法(1889年)のもとで、国を統治する全権限を天皇が握る専制政治でした。そのうえ教育勅語(90年)を制定し、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」―つまり“国家危急の時は天皇のために命をささげよ”と国民に強要しました。
 戦前の日本共産党幹部で1934年に獄死した野呂栄太郎は、著書『日本資本主義発達史』(30年刊行)で、明治維新を「資本家と資本家的地主とを支配者たる地位につかしむるための強力的社会変革」と指摘し、それによって生まれた政治権力を「絶対的専制政治」と明快に特徴づけています。
 明治政府は、日清・日露戦争を経て台湾や朝鮮半島を植民地化しました。昭和に入り1931年から中国への侵略戦争を開始、45年の敗戦までにアジア2000万人以上、日本国民310万人以上の犠牲をもたらしたのです。
根本に侵略戦争の肯定が
 「明治150年」キャンペーンは、安倍政権が「日本会議」など過去の侵略戦争を肯定・美化し、歴史を偽造する勢力によって構成され、支えられていることと深く結びついています。過去の戦争の反省に根ざした日本国憲法の精神にたち、近代日本の歩みを検証することが強く求められています。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-10-23/2018102301_05_1.html

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「観光ルネサンスの現場から~時代を先駆ける観光地づくり~(165)」国後島を見渡す半島と幻の集落(北海道標津町)

2018-10-24 | アイヌ民族関連
旅行新聞 2018年10月23日
北海道根室半島と知床半島に挟まれた標津町と別海町。その地先に半円形を描くように伸びた不思議な野付半島は、古くから国後島の渡海路として利用されてきた。対岸には、国後島の山々が手に取るように見渡せる。
 その半島の先端に、江戸時代「キラク」と呼ばれる幻の集落があった。地元伝によれば、ここには遊郭もあったという。残念ながら、その正確な記録はないが、集落はロシアとの交易や北前船の荷を受け入れた拠点であり、正式には野付通行所という。
 野付半島は標津町の付け根から、鳥の嘴のように大きく湾曲した日本一の砂嘴(さし)である。知床半島羅臼沖には2千㍍もの深い海溝があり、この海溝に沿って流れる速い潮流で削られた土砂が流れ着き、長い年月をかけて形成されたものだという。従って、土砂流量の変化によって砂嘴は成長したり衰退したりを繰り返す。通行所のあった遺跡の多くは、残念ながら今は海面下に沈んでしまっている。しかしその遺跡跡からは、食器や鉄鍋などの生活用品が散乱する姿を、今でも確認することができる。
 野付通行所は、記録によれば1799年に設置され、支配人と用人やアイヌの人足たちが詰めていた。幕末、1845―59年、この通行所の支配人を務めた加賀伝蔵はアイヌ語通詞であった。北海道の名付け親として知られる松浦武四郎とも親交があり、武四郎とともにアイヌを庇護した人物としても知られている。司馬遼太郎の「菜の花の沖」には、江戸時代に北方交易で活躍した廻船業者・高田屋嘉平衛が登場する。実は、嘉平衛がロシア船に拿捕されたのも、この野付半島沖である。事件の発端となった軍艦長・ゴローニンも国後島で捕縛され、野付半島を経由して松前に送られたという因縁の地でもある。
 この地の先住民であるアイヌは、漁業資源に恵まれたこの日本列島東辺の地を「メナシ(東方)」と呼んで住み続けた。近隣にあるポー川流域の台地には、伊茶仁(いちゃに)カリカリウス遺跡と称されるおびただしい数の国史跡の竪穴住居跡がある。また、海に面した高台には、「チャシ」と呼ばれる砦のような施設が数多くある。祭祀施設のようでもあるが、和人との戦いが激しくなって以降は、砦としても機能していたものと思われる。

伊茶仁カリカリウス遺跡(標津町)5
 まことに謎の多いこの地域だが、中標津空港はもとより、女満別空港、釧路空港からも近い。周辺には、世界遺産知床や、食の宝庫として人気のある釧路・帯広エリアなどがあるが、観光的にはまだまだ空白地帯でもある。
 アイヌと和人、ロシアとの濃密な交易、広大な根釧平野の酪農開拓の歴史など、実に魅力的な資源に恵まれている。最近は、野付半島に生息するオオタカ・オオワシなどの大自然を求めて英国からの写真マニアも増えたという。ここは北の大地に最後に残されたアルカディア(理想郷)かもしれない。
(東洋大学大学院国際観光学部 客員教授 丁野 朗)
http://www.ryoko-net.co.jp/?p=43907

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明治改元から150年 記念行事の名称にお国柄

2018-10-24 | アイヌ民族関連
神戸新聞NEXT2018/10/23 06:30
 23日は明治改元から150年。政府は「明治150年」として記念事業を推進するが、各地で花盛りの周年イベントはその名称もさまざまだ。維新ゆかりのご当地などでは「明治」や「維新」を積極的に採用する一方、この2語を避ける自治体もある。他にも、兵庫や北海道などは独自路線で節目を祝う。専門家は「地域の価値観が多様化し、地元を第一に思う姿勢が前面に出ている」と指摘する。(竹本拓也)
 明治維新の立役者、西郷隆盛を輩出した鹿児島県は、節目の事業を「かごしま明治維新博」と名付けた。
 関連施策の350件は全国最多。英国への留学生派遣など、人材育成を主眼にしたものも多い。県の担当者は「(大河ドラマの)『西郷(せご)どん』効果もあり、誘客面で効果が大きい。子どもたちの歴史認識も深まっている」と話す。
 幕末から活躍した人物が多く出た「薩長土肥」の自治体や、維新動乱の舞台となった京都市も「明治150年」を前面に押し出す。先人の偉業や新たな観光資源のPRに熱心だ。
 一方、旧幕府側だった会津藩の地元、福島県会津若松市のPRポスターには「戊辰(ぼしん)150年」の文字が躍る。同市では白虎隊の史実をオペラ化したほか、特別番組「AIZU」をつくり、会津の視点で幕末から明治の歴史を伝えた。名称に「明治」を入れていないことについて同市は「そもそも明治150年の意識がなかった」と説明する。
 濃い独自色を発揮するのは、兵庫県。今年7月に開いた記念式典のキャッチコピーは「県政150周年」。廃藩置県の3年前に設置されたというその独自性が由来となっている。兵庫は旧五国が一つとなった全国的にもまれな県で、園田学園女子大の田辺眞人名誉教授(地域史)は「旧五国の歴史的背景はそれぞれ。維新に対する受け止めも一律でなかった。むしろ兵庫県民にとっての150年は神戸港開港であり、兵庫県誕生だ」と強調する。
 かつて「蝦夷地(えぞち)」と呼ばれた北海道は今年末まで、命名150年にちなんだ事業を展開する。ポスターに採用したのは、北海道の名付け親、松浦武四郎だ。官民共同で豊かな食の魅力や縄文・アイヌ文化の発信などに力を入れており、他地域とは趣向が異なる。
 国の「明治150年」事業を推進する内閣官房によると、都道府県など自治体が主催する関連事業は約3650件(6月末時点)。最多の鹿児島県350件に対し、最少は沖縄県の7件だった。
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201810/0011754231.shtml

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表情豊かな人形たち 桐生で矢部藤子さん作品展

2018-10-24 | アイヌ民族関連
東京新聞 2018年10月23日

矢部藤子さんが制作した人形が並ぶ作品展=桐生市末広町で
 人形作家矢部藤子さんの作品展が桐生市末広町のとおりゃんせで開かれている。写実的な造形の人形が、来場者を楽しませている。11月4日まで。
 茨城県石岡市にアトリエを構える矢部さんの作品約20点を展示。あどけない子どもや、アイヌ民族の女性など粘土や布などで作られた人形は豊かな表情をたたえる。1体作るのに1カ月かけるという。
 特に好んで制作するのは、お年寄りの人形だ。矢部さんは「生活感のある顔が好きだから」と話す。しわの刻まれた顔は、人生経験を重ねたかのようだ。
 とおりゃんせの営業時間は正午~午後7時。不定休。問い合わせはとおりゃんせ=電090(6790)7132=へ。 (池田知之)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201810/CK2018102302000156.html

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タイ奥地の少数民族、一部に変化 狩猟やめゴム園など勤務も

2018-10-24 | 先住民族関連
SankeiBiz 2018.10.23 05:00
 マレーシアとタイ南部の国境地帯に、原始的な狩猟や農作を営む少数民族が住んでいる。「アスリ人」と総称される先住民族で、大半はマレーシアに住むが、タイ南部にも少数が居住し、一部はゴム園で働き始めるなど生活が様変わりしている。だが住居は人里離れた森林地帯で、今もタイ国境警察隊が届ける食料や医薬品が生命線だ。
 「頼まれた鎮痛剤を持ってきたよ」。タイ南部ヤラ県ハラバラ、ダム湖のほとりの住居で、国境警察隊のポロミン上級曹長が薬を差し出すと、アスリ人のピセさんが笑みを浮かべた。
 マレー語で「元来の人」を意味するアスリ人はマレー半島に約17万人いる。うちタイに住む数百人は狩猟などをして暮らすが、ピセさんら一部の暮らしが変化している。
 ピセさん一家11人は3年ほど前に奥地での暮らしをやめた。「(1980年代に)ダム湖ができて森が減り、狩猟による獲物や、キャッサバなどの食料調達が困難になった」ためだ。ピセさんは長男、ナコーさんとゴム園で働き、2人合わせて週2000バーツ(約6800円)の収入を得ている。
 食生活の変化で家族に虫歯も増えたが「歯磨きを教えても、やろうとしない」とポロミン曹長は苦笑いする。
 靴も履きたがらない。「森の中を歩くには、はだしが一番」とピセさん。森で蜂蜜やハーブを集めて警察隊が運んでくるコメや即席コーヒー、医薬品と交換する。
 タイ国内の他の少数民族のように国籍付与を受ければ医療や教育制度の恩恵を受けられるが、ピセさんは、まだそれを望んでいない。
 住居付近に学校はなく、子供たちは一日中、遊んで過ごす。ピセさんらはラジオから流れる歌謡曲を聴くのが楽しみだといい、現代的な生活にも親しんでいる。(ハラバラ 共同)
https://www.sankeibiz.jp/macro/news/181023/mcb1810230500004-n1.htm

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古里の花々捉え母校に 猪苗代高OBの写真家野口さん

2018-10-24 | 先住民族関連
福島民報 2018/10/23 09:38
 「福島の花」シリーズで知られる猪苗代町出身の写真家野口勝宏さん(58)=郡山市=は母校の猪苗代高に町の花を題材にした作品を飾った。十一月三、四の両日、同校をはじめ町内の小中学校を壁画で彩る芸術祭「ウォールアートフェスティバルふくしまin猪苗代2018」で公開する。
 作品は縦二・四メートル、横九・六メートル。野口さんによると、写真作品として東北最大という。町の花「サギソウ」や町内の身近な花々を捉えた。芸術祭にボランティアとして臨む猪苗代高観光ビジネス科二年の村尾碧さん(17)は「猪苗代の魅力を多くの人に知ってもらいたい」と話した。
    ◇   ◇
 十月二十七日には町内の吾妻中でインド西部の先住民族「ワルリ族」の画家が伝統技法で教室の壁に描く「ワルリ画」の制作を公開する。
 公開制作は入場無料。午前十時から午後四時まで。問い合わせは実行委員長の楠恭信さん 電話090(5450)1217へ。

猪苗代高に設置された野口さんの作品
http://www.minpo.jp/news/detail/2018102356669

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明治150年 沖縄にとって150年は何だったのか 式典に合わせ考える

2018-10-24 | 先住民族関連
毎日新聞 2018年10月23日
 明治改元150年を記念した政府主催の式典が23日に東京で開かれる。内閣官房「明治150年」関連施策推進室は、式典や関連行事について「明治期において多岐にわたる近代化への取り組みを行い、国の基本的な形を築き上げた」などと意義を説明している。しかし沖縄の研究者らは、明治以降の日本の近代国民国家形成が、琉球併合(「琉球処分」)や沖縄戦など沖縄の苦難の原点となったことを指摘している。
 憲法に詳しい高良鉄美琉球大学法科大学院教授は「明治憲法は明治維新後の富国強兵、帝国主義の考えが盛り込まれている。その中で『琉球処分』があり、沖縄戦にもつながった」と指摘する。政府に対し「負の部分が多い歴史を見ていない。政府が(2013年4月28日に)『主権回復の日』式典を開いた時と同様に独善的な部分がある。明治国家を考える時には、アジアなど外国からどう見られているのかも考えないといけない」と強調した。
 県歴史教育者協議会事務局長を務める山口剛史琉球大准教授は「安倍政権が明治を再評価する意図を丁寧に考えないといけない。もしも日本が誇るべき記念の側面しかないならば、都合の良い歴史解釈だけを取り上げた評価にならざるを得ない」と疑問視する。沖縄の立場から「『琉球処分』以降の歴史をどのように政府が総括し、意義付けているかを見抜くことが求められている」と強調した。
 「政府は式典の前に沖縄に謝罪すべきだ」と語るのは琉球民族独立総合研究学会の親川志奈子共同代表。「米国政府はハワイを併合したことを謝罪した。植民地主義を検証し、先住民族の権利を保護するのは世界の流れだが、日本政府は過ちに向き合っていない」と指摘する。「歴史の裏側に沖縄の犠牲があったことに向き合わなければ、負の側面を含めて正確に歴史を理解することはできない。日本人にとっても不幸なことだ」と批判した。
(琉球新報)
https://mainichi.jp/articles/20181023/rky/00m/010/005000c

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リゾート地ハワイと沖縄、日本人が知らない共通点と違い◇アメリカから見た! 沖縄ZAHAHAレポート(16)

2018-10-24 | ウチナー・沖縄
琉球新報 2018年10月22日

光とともに色彩を変える緑のマクア渓谷。今は陸軍の演習場の中にある
緑色の美しいグラデーションが広がる渓谷。薄い雲が山頂をただよい、雲の合間から日差しが差し込むと、山は神々しく、新しい色合いに輝きます。
米ハワイ州オアフ島。ホノルルから、北西に約60キロ離れた海岸沿いに広がるのがマクア渓谷です。マクアとは、ハワイの言葉で「親」の意味。ワイキキなどの観光地の雰囲気とは異なり、静かにたたずむこの場所はハワイの民族誕生の地といわれる聖域。ハワイ先住民族の歴史を知る貴重な文化財や希少な動植物が残っています。
しかし、周囲はフェンスで囲まれ「米陸軍施設 進入厳禁」「危険」の看板が立ちはだかります。現在、この地は4190エーカー(約17平方キロ)に広がる米陸軍マクア演習場として使用されているのです。
独立国家から、アメリカの州に
ハワイはカメハメハ王朝が統治した王国で諸外国とも外交関係を持つ独立国家でしたが、砂糖業が盛んになると欧米からの白人入植者が増加し、1893年、入植者らによるクーデターがハワイ王国を転覆させます。米西戦争を機に1898年、アメリカに併合され、1959年、50番目の州になりました。
米軍は1920年代から先住民族の聖地だったマクア渓谷を演習場として使い始めました。そして、1945年12月7日(現地時間)の日本軍による真珠湾攻撃の後、ハワイの軍事拠点化が進みます。米軍はマクア渓谷やその周辺の土地を住民から接収し、兵士の水陸両用上陸訓練や砲撃訓練の場所としました。第2次世界大戦後も演習場として使用し続け、特に80~90年代は陸軍と海兵隊が歩兵部隊や航空部隊などと連動した実弾射撃訓練を行いました。美しかった山肌は砲撃の跡であらわになり、山火事も度々起こりました。
市民の訴えで米軍の訓練が中止に
そんなマクア渓谷で、2004年9月から実弾射撃訓練は中止されています。きっかけは、市民らが陸軍に対して起こした訴訟でした。
1998年、ハワイ先住民族の権利を訴える団体マラマ・マクアと米環境法律事務所アースジャスティスは、50年以上にわたる軍の訓練は、50種類以上の絶滅危惧種などに与える環境への影響調査を行っておらず、国家環境政策法(NEPA)に違反していると訴えました。
裁判所は軍の不備を認め、環境影響調査が完了するまで、同地での実弾射撃訓練の停止を軍に命じました。その間の和解策の一つとして、2001年の米中枢同時テロをきっかけに軍が2004年までの期間限定で実弾射撃訓練を行う代わりに、マラマ・マクアのメンバーらは月2回、施設内に入ることのできる「カルチュラル・アクセス(Cultural access)」を行使できるようになったのです。
一時は無残な姿だった渓谷はその後、実弾射撃訓練の中止で緑を取り戻しました。ハワイ陸軍のデニス・ドレイク広報官は「現在は通信訓練など、火薬や爆薬を使わず、環境への影響が小さい訓練のみを行っている」と説明します。
訓練では、希少な動植物や文化財のある場所には、立ち入らないよう目印を立てて訓練し、マクア渓谷の絶滅危惧種をはじめ、貴重な動植物保護に取り組んでいると胸を張ります。
自分たちの言葉、歴史、文化を知る
2017年11月末、カルチュラル・アクセスの日に、マラマ・マクアのビンセント・カナイ・ドッジさんらと共に、マクア演習場に入ることができました。この日は、ハワイの文化教育に力を入れるチャータースクール、カマイレ・アカデミーの10代の生徒たち40人も初めて参加。ビンセントさんらの案内で、生徒たちは自分たちのルーツ、歴史、文化を学ぶ時間を過ごします。
「ハワイアンは豊かな海の恵みを受けてきたが、渓谷での実弾射撃訓練で、汚染物質は海にも流れ出しました。ハワイの言葉で『大地』『母なる地球』のことを『アイナ』と言う。アイナは『食を恵む場所』という意味も込められている」
「僕たちの地域には軍の関係者も多い。でも、この渓谷はもう何十年間もこうやって軍に使われている。もう犠牲にさせなくてもいい」 
「君たちの家族や親族にも軍の関係者は多いだろう。私の父も退役軍人だ。だが、この渓谷は戦争が終わっても何十年も基地として使われ続けている。『Enough Is Enough(もうたくさんだ)』。軍はこの土地を回復させ、ハワイの人々に返さないといけない」
ビンセントさんの言葉に、まっすぐなまなざしで耳を傾ける生徒たち。風に揺れる黒髪、漆黒の瞳、褐色の肌。沖縄の子どもたちを思い出し、なぜか涙が出そうになりました。施設内にある遺跡を囲み、聖域への感謝を伝える儀式を執り行う中、ハワイアンの歌が歌われました。サトウキビを杖のように持ち、石積みに水をかける姿。力強く、厳かな歌声。渓谷から神様が見守っているような気持ちにも、まるで沖縄のウガン(御願)を見ているような気持ちにもなりました。
陸軍の担当者から、渓谷内に埋まる不発弾の危険性や、渓谷内にある遺跡と軍による文化財調査の説明を受けます。そして、たどり着いた小さな広場。生徒たちは木陰に腰掛け、公立学校の教科書の「アメリカの歴史」には描かれていない、ハワイアンから見た「ハワイの歴史」を学びました。講師は「これがあなたたちの歴史であり、誇るべきもの」と語り掛けます。
生徒の1人、マクイ・ヘイリーさん(15)は「ハワイアンの文化がどれだけ素晴らしく、そして今まで私たちがどれだけそこに気付いていなかったか、ということを考えさせられた。なぜハワイにこんな歴史があり、そして今、何が起こっているのかを、もっと意識をすべきだと思った。なぜなら、それは私たちの未来につながることだから」と感想を教えてくれました。
まるで研究施設 考古学、文化人類学の専門家がずらり
陽気な陸軍の広報官、デニスさんは丁寧にマクア渓谷での軍の取り組みを教えてくれました。「軍の最大の優先事項は、いつでも戦える状態であること、レディネス(即応性)だ。 いつでもベストな装備と、ベストな訓練を受けて、厳しい状況に対応しなければならない。消防士や警察官と同じだ」
だからこそ、必要な訓練を可能にするために、地域住民との関係は非常に重要だと強調するデニスさん。「訓練地域を制限したり、文化財や自然資源を守ったりするために、われわれは何百万ドルもハワイに投入している。コミュニティーとの関係や透明性を大事にしている。そのためにも、住民たちと時間をかけて前向きな対話をしてきたし、軍の活動についての情報を共有している。われわれに秘密はない」
陸軍の施設・基地がある地域では、軍の高官と地域のリーダーたちとの評議会も構成しています。軍側からは、訓練の計画やそれに伴う騒音や飛来予定の航空機などの情報を提供、地域側からは住民らの懸念や要望などを伝え合います。学校や地域行事への軍のボランティア参加も盛んとのこと。
デニスさんがぜひ見せたいと、数日後にスコフィールド・バラックス基地内の文化財・自然資源プログラムの施設に案内してくれました。ハワイの陸軍駐屯地は、軍の戦略目標を達成するために、自然環境やインフラ、施設、地域との関係などのサステイナビリティ(持続可能性)を掲げ、各種プログラムに取り組んでいるのです。
文化財保護プログラムのオフィスには、考古学や文化人類学の専門職員らがずらり。まるで研究施設のように、発掘された先史時代の石器や釣り具などが保存されています。陸軍が文化財保護や研究にしっかり人と予算をかけている、ということは同時に、これだけの遺跡、遺物の上に、軍事基地が造られ、占拠している、ということでもあります。ハワイ米陸軍の司令官、ステファン・ドーソン大佐も直々に現れ、いかに陸軍がハワイの自然・文化財保護に努め、州政府や学校、地域住民らと連携しているかを熱心に説明しました。
マクアの自然保護に400万ドル!
続いて、自然資源保護プログラムの施設に移動。ビニールハウスには、青々とした草木が茂っています。絶滅危惧種の動植物の保護、生育などに取り組み、こちらもまるで研究機関のよう。マクア演習場には、少なくとも絶滅危惧種が44種生息し、陸軍はマクアだけでも年間約400万ドル(約4.4億円)をかけてその保護に取り組んでいます。生物学者のポール・スミスさんは「ハワイは非常に独自の自然があり、陸軍の自然保護プログラムでも最も高額な予算を自然保護にかけている。われわれは軍の訓練を支えるため、軍の施設や活動、訓練が絶滅危惧種にダメージを与えないよう、影響を減らす活動に取り組んでいる」と話します。
射撃訓練などで火災を起こさないこと、絶滅危惧種を保護することが重要な活動で、例えば、訓練場間の武器や車両などの移動の際に外来種などを持ち込まないよう、きちんと洗浄するなど、日頃の予防策も徹底しているそうです。ビニールハウスは万が一、演習場内で植物にダメージを与えてしまった場合の「保険」として、野生の植物の一部を移植、丁寧に管理しながら育てています。建物の中には、大きな冷凍冷蔵庫があり、種がぎっしり。こちらも絶滅の危険がある植物を絶やさないように、種子を適切な温度で保管しているといいます。
さて、沖縄では…
実は、陸軍のマクア演習場のほかに、オアフ島東部のカイルア湾、カネオヘ湾の間にあるハワイ海兵隊基地(以前の名称は「カネオヘ基地」)にも取材を申し込みましたが、担当者から日程が合わないことを理由に見学はできず、メールだけのやりとりになりました。そのことをデニスさんに話すと「海兵隊と陸軍は文化が違うからね。陸軍は隠すことはないし、透明性を大事にしているよ」とジョークを交えながら笑っていました。
その海兵隊も、陸軍と同様、ハワイの各地域との関係を重要視しています。ハワイ基地のホームページには「騒音の懸念」といった項目があり、住民らが軍に対し、米軍機の騒音への苦情を直接訴える仕組みがあります。ホームページには、垂直離着陸輸送機MV22オスプレイをはじめ、CH53ヘリなど、各機体の名称と写真を掲載し、日時やどんな騒音が聞こえたかなどを詳しく書き込め、基地の担当窓口に直接電話できるホットラインもあるのです。
各地区の学校や商工会の代表、退役軍人らと、基地の司令官らで構成する民間軍事評議会は約30年前からあり、毎月、意見交換するほか、騒音の悪化が懸念される訓練や航空機の飛来がある場合は、会合などを通して、事前に地域住民に伝えるそうです。
ハワイと沖縄。もともとは独立国だったこの2つの場所がたどった歴史は似ています。アメリカ統治以来、土地や言葉を奪われて、アメリカへの同化政策が進められたハワイ。琉球王国として栄えたものの、1609年の鹿児島の大名・島津家(薩摩藩)によって江戸幕府に武力併合され、1879年の「琉球処分」で日本の1県になった沖縄。ハワイも沖縄も現在、多くの観光客が訪れるリゾート地である一方、米軍基地が大きく占めるという姿もそっくりです。
日本人が知らない世界の先住民族 国連フォーラムが“沖縄”で踊った! ◇アメリカから見た! 沖縄ZAHAHAレポート(10)
https://ryukyushimpo.jp/style/article/entry-716269.html
ただ、米軍の地域住民に対する姿勢や環境保全の取り組みは大きく違います。沖縄では、米軍の訓練や米軍機の騒音について、地域住民が直接確認したり、苦情を伝えたりする仕組みはありません。訓練情報も市町村には直前にしか知らされません。知らされていないこともたくさんあります。
ジュゴンをはじめ、絶滅危惧種262種を含む5300以上の海洋生物の生息が確認されている名護市辺野古の海を埋め立てて、日米両政府は海兵隊普天間飛行場の代替施設として新しい基地を造ろうとしています。米空軍嘉手納基地周辺や普天間飛行場周辺では、発がん性などのリスクが指摘される有機フッ素化合物PFOS・PFOAが高濃度で検出されています。基地跡地のサッカー場の舗装工事中に、地中からダイオキシン類などの有害物質を含むドラム缶が大量に発見されたこともありました。米軍基地から派生する環境汚染や自然破壊、事故や騒音など、人々の生活の質(QOL)や安全を脅かすことは枚挙に限りがありません。
米国内の州であるハワイと、日本国内の県である沖縄という大きな違いがあるなら、なぜ米軍は自分たちの国では守っているルールや取り組みを、日本では守らなくてもいいのでしょうか?なぜ、日本は米軍にルールを守らせることができないのでしょうか。
「『Enough Is Enough(もうたくさんだ)』。軍はこの土地を回復させ、ハワイの人々に返さないといけない」。
「なぜハワイにこんな歴史があり、そして今、何が起こっているのかを、もっと意識をすべきだと思った。なぜなら、それは私たちの未来につながることだから」。
マクア渓谷で聞いた言葉が頭をぐるぐる回りながら、ハワイと沖縄、景色や子どもたちの顔が重なるのです。
 座波幸代(ざは・ゆきよ)  政経部経済担当、社会部、教育に新聞を活用するNIE推進室、琉球新報Style編集部をへて、2017年4月からワシントン特派員。女性の視点から見る社会やダイバーシティーに興味があります。
https://ryukyushimpo.jp/style/article/entry-820934.html

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