北海道新聞03/07 16:00

ロシア風のワンピース。千島アイヌの女性が繕いながら、愛用したとみられる(公益財団法人アイヌ民族文化財団提供)
根室市歴史と自然の資料館 所蔵品に宿る信仰、息づかい
【根室】根室市歴史と自然の資料館所蔵の千島アイヌの資料が注目されている。昨年は北海道博物館(札幌市)、今年は1月から今月6日まで群馬県立歴史博物館(高崎市)に貴重な衣服などが貸し出され、展示された。資料からは日ロ両国の進出や国境問題に翻弄(ほんろう)され、継承が途絶えた千島アイヌの文化をうかがい知ることができる。(黒田理)
アイヌ民族は《1》北千島などに住み、ラッコ漁などを生業にした千島アイヌ《2》樺太に居住した樺太アイヌ《3》北海道と南千島に居住し、和人と関わってきた北海道アイヌ―の三つのグループに分けられる。
1875年(明治8年)、日ロ間で樺太・千島交換条約が結ばれたのを受け、千島列島全域が日本領になった。日本国籍を選んだ97人の千島アイヌは84年(同17年)、シュムシュ島(占守島)から色丹島に強制移住させられた。本土からの生活支援をしやすくし、管理下に置くのが狙いだった。
ラッコなど海獣狩猟の生活から、農牧畜業への転換により、生活環境は激変し、多くの人が亡くなった。根室の花咲学校に編入させた子どもら8人も、2人が病死し、残りは色丹島に戻った。
生き残った千島アイヌは北千島への帰還を望んだが、かなわず、許可を得て北千島周辺まで海獣狩猟に出かけた。日露戦争をへてそれも中止され、1945年(昭和20年)の終戦直後の旧ソ連軍侵攻により、和人とともに北海道などへの再移住を強いられた。
ロシアの影響強く
根室市歴史と自然の資料館にある千島アイヌ関係の資料は土器の破片を含めると約200点に上り、文化の一端を今に伝える。
これらは民族学研究者、林欽吾氏(1893~1965年)がシュムシュ島や色丹島で収集、発掘したものだ。根室のオホーツク文化研究者、北構保男氏(1918~2020年)が林氏から譲り受け、同市に寄贈した。
中でも貴重なのがロシア風のワンピースと木彫りのシャチを縛り付けたイナウ(木幣)だ。ワンピースは1930年(昭和5年)ごろまで着用していたとみられ、破れた部分を繕った跡もある。
御神体であるイナウは、千島アイヌがシュムシュ島から風呂敷に包み、色丹島に隠し持ってきたと伝えられている。シャチはアイヌ民族にとって海の神様。実は木彫りのクマとオオカミをそれぞれ縛ったイナウもあったが、これらは東京に持ち帰った研究者が東京大空襲で被災し、焼失した。クマは山の神様である。
昨年10~12月に「アイヌのくらし」と題して民具などを展示した北海道博物館の大坂拓学芸主査はこれら二つの資料について「千島アイヌの文化の対照的な面が、説明なしにわかる点でとても重要だ」と語る。ワンピースからはロシア正教の信徒だった千島アイヌがいかに強くロシアの影響を受けていたか、一方でイナウからは伝統的なアイヌ民族の信仰をどれほど大切にしていたかが推測できるというのだ。
土器の復元に成功
北構さんの寄贈品の中には、シュムシュ島で発掘した15~16世紀後半の土器の破片や骨角器などもある。土器は10点の復元に成功した。根室市歴史と自然の資料館は国のアイヌ政策推進交付金を活用し、アイヌ文化に関する展示を拡充した。今後、ワンピースやイナウの展示も検討していく。
同資料館の猪熊樹人(しげと)学芸主査は「千島アイヌの考古資料は国内でも多く保管している。調査、研究、保存、そして活用につなげる計画をつくっていきたい」と話している。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/653814


ロシア風のワンピース。千島アイヌの女性が繕いながら、愛用したとみられる(公益財団法人アイヌ民族文化財団提供)
根室市歴史と自然の資料館 所蔵品に宿る信仰、息づかい
【根室】根室市歴史と自然の資料館所蔵の千島アイヌの資料が注目されている。昨年は北海道博物館(札幌市)、今年は1月から今月6日まで群馬県立歴史博物館(高崎市)に貴重な衣服などが貸し出され、展示された。資料からは日ロ両国の進出や国境問題に翻弄(ほんろう)され、継承が途絶えた千島アイヌの文化をうかがい知ることができる。(黒田理)
アイヌ民族は《1》北千島などに住み、ラッコ漁などを生業にした千島アイヌ《2》樺太に居住した樺太アイヌ《3》北海道と南千島に居住し、和人と関わってきた北海道アイヌ―の三つのグループに分けられる。
1875年(明治8年)、日ロ間で樺太・千島交換条約が結ばれたのを受け、千島列島全域が日本領になった。日本国籍を選んだ97人の千島アイヌは84年(同17年)、シュムシュ島(占守島)から色丹島に強制移住させられた。本土からの生活支援をしやすくし、管理下に置くのが狙いだった。
ラッコなど海獣狩猟の生活から、農牧畜業への転換により、生活環境は激変し、多くの人が亡くなった。根室の花咲学校に編入させた子どもら8人も、2人が病死し、残りは色丹島に戻った。
生き残った千島アイヌは北千島への帰還を望んだが、かなわず、許可を得て北千島周辺まで海獣狩猟に出かけた。日露戦争をへてそれも中止され、1945年(昭和20年)の終戦直後の旧ソ連軍侵攻により、和人とともに北海道などへの再移住を強いられた。
ロシアの影響強く
根室市歴史と自然の資料館にある千島アイヌ関係の資料は土器の破片を含めると約200点に上り、文化の一端を今に伝える。
これらは民族学研究者、林欽吾氏(1893~1965年)がシュムシュ島や色丹島で収集、発掘したものだ。根室のオホーツク文化研究者、北構保男氏(1918~2020年)が林氏から譲り受け、同市に寄贈した。
中でも貴重なのがロシア風のワンピースと木彫りのシャチを縛り付けたイナウ(木幣)だ。ワンピースは1930年(昭和5年)ごろまで着用していたとみられ、破れた部分を繕った跡もある。
御神体であるイナウは、千島アイヌがシュムシュ島から風呂敷に包み、色丹島に隠し持ってきたと伝えられている。シャチはアイヌ民族にとって海の神様。実は木彫りのクマとオオカミをそれぞれ縛ったイナウもあったが、これらは東京に持ち帰った研究者が東京大空襲で被災し、焼失した。クマは山の神様である。
昨年10~12月に「アイヌのくらし」と題して民具などを展示した北海道博物館の大坂拓学芸主査はこれら二つの資料について「千島アイヌの文化の対照的な面が、説明なしにわかる点でとても重要だ」と語る。ワンピースからはロシア正教の信徒だった千島アイヌがいかに強くロシアの影響を受けていたか、一方でイナウからは伝統的なアイヌ民族の信仰をどれほど大切にしていたかが推測できるというのだ。
土器の復元に成功
北構さんの寄贈品の中には、シュムシュ島で発掘した15~16世紀後半の土器の破片や骨角器などもある。土器は10点の復元に成功した。根室市歴史と自然の資料館は国のアイヌ政策推進交付金を活用し、アイヌ文化に関する展示を拡充した。今後、ワンピースやイナウの展示も検討していく。
同資料館の猪熊樹人(しげと)学芸主査は「千島アイヌの考古資料は国内でも多く保管している。調査、研究、保存、そして活用につなげる計画をつくっていきたい」と話している。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/653814