武将ジャパン2023/04/05
不凍港を求め、何かと言えば南下作戦を強行するロシア。
ウクライナ侵攻が世界から非難轟々であり「日本も決して他人事ではない!」という声も上がっています。
これを「大袈裟な……」と冷笑する方は、今や少数派でしょうか。
事実、ロシアの南下政策に対しては、江戸時代(幕末)の日本でも真剣に検討され、現実に作られた施設もあります。
箱館の五稜郭です。
あのギザギザとしたトンガリスタイル、実は防衛能力的にもかなり優れているのですが。
そもそもは対北方の敵を想定して築かれた要塞でした。
なぜならロシアは、アメリカよりずっと先に日本へ開国のアプローチ・プレッシャーをかけていたのですから。
ペリーばかりが注目され、実はそれよりずっと脅威だった、幕末の対ロシア政策。
本稿では、その様子をまとめてみました。
黒船よりずっと早い! ロシアの脅威
嘉永6年(1853年)。
浦賀沖に姿を見せた黒船に、日本中は衝撃に包まれた――そんな場面は大河ドラマ等でおなじみです。
ただし、これが日本と異国船のファーストコンタクトではありません。
嘉永6年から10年以上前の1840年代。
南端の薩摩藩や、太平洋側に長く海岸線の続く水戸藩では、すでに異国船への対応が課題として認識されておりました。
遡れば文化5年(1808年)にはフェートン号事件も起こっております。
このとき幕府は口をつぐむオランダではなく、別の国からヨーロッパ事情を聞き出しております。
ロシアです。
日本が異国船の脅威、西洋の圧迫感を覚え始めた契機は、実は北方のロシアからのものが最初でした。
しかし、幕府も北方を軽視していたのか。
長崎を襲われたフェートン号事件、そして浦賀の黒船と比較してどうしても重視されません。
ロシアが迫る蝦夷地は松前藩が治めており、「無高(一万石高)」の大名でした。彼らはアイヌとの交易を中心として藩財政を成立させていたのです。
そんな松前藩が広大な蝦夷地を守り切るのは、どうしたって無理がある。
そこで幕府が頼りにしたのは、奥羽(東北)の諸藩でした。
蝦夷地が幕府領だった時代がある
江戸時代を通した蝦夷地といえば、松前藩の領土です。
しかし例外があり、幕府領となった時期もありました。以下の通りです。
◆第一次幕領期(1799〜1821)※松前藩は梁川へ転封
◆第二次幕領期(1854〜1868)
こうして振り返ってみますと、いくつか惜しまれることがあります。
まず、第一次後にあった約30年もの空白期間(1821~1854年)です。
第二次は黒船来航の翌年からであり、実質的に幕末期。
もし、第一次からずっと警備をしていれば、歴史は異なっていたでしょう。
第一幕政期のあいだ松前藩は転封とされてて、注目は第二次幕領期です。
戊辰戦争に奥羽諸藩が巻き込まれ、実質的に蝦夷地がガラ空きになってしまったのです。
奥羽諸藩は、後の中央政府に絡まないため、どうしても軽視されがち。
幕末モノの作品にしても、薩摩藩や長州藩の引き立て役となりがちで、国際感覚が欠如していたという描写も見られます。
しかし、です。
実は彼らは、黒船来航よりもはるかに以前から、ロシア脅威に対して論考を重ね、蝦夷地警備にも駆り出されていました。
それは決して楽な仕事ではありませんでした。
江戸時代の諸藩は、時間を経るごとに、政治的や構造の矛盾によって問題が山積みとなり、特に奥羽の諸藩は飢饉の影響を受けやすく、どの藩も財政難に苦しんでいました。
それでも彼らは、蝦夷地を守ろうとしていたのです。
例えば第一次の幕領期には、以下のような分担が課されておりました。
【第一次幕領期】
弘前藩:西蝦夷地、国後、択捉警備担当
盛岡藩:東蝦夷地、国後、択捉警備担当
仙台藩・秋田藩・鶴岡藩・会津藩:非常時出兵担当
この奥羽六藩は、時に交替しながら警備を担当。
極寒の地においては、栄養不足による疫病の発生により死者が多発することもありました。
樺太が見いだされた
コロンブスがアメリカ大陸を発見した、という言い方は最近否定されつつあるようです。
西洋人が発見する前から、アメリカ大陸は存在しており、人も住んでいたのだと。
樺太についても、似たようなことが言えるのではないでしょうか。
間宮林蔵の探険により、日本が認識したとされる樺太。
それ以前に会津藩が、幕府の命令を受けて対ロシア警備を行っていました。
クシュンコタン(のちの豊原/現在のユジノサハリンスク)がロシアによって襲撃され、その対抗措置として派遣されたのです。
この会津藩による警備は、間宮林蔵の探険よりも早い。
松前藩士が上陸し、探険したこともありましたが、幕府の認可のもとで樺太へ最初に上陸した和人とは、間宮ではなく会津藩士と言えるのではないでしょうか。
間宮の探険は、時代の転換点の象徴といえました。
外からは、北方ロシアの圧迫が迫っている。国内での産業や経済は爛熟し、外との公益も求められるようになっていく。このままでは限界があると、幕府も考えていたのです。
五稜郭は和洋折衷ハイブリッドだ
幕末モノのフィクションですと、京都はじめ西日本で政治活動をしていた西南の藩に対し、のんびりと時代の流れについていけなかったように描かれるのが、東北諸藩です。
重ねて申し上げますが、それは誤解です。
彼らは彼らなりに、ロシアの脅威をひしひしと感じており、蝦夷地警備を担当しておりました。
五稜郭や四稜郭も、こうした中で建築された城塞です。
五稜郭のあの形は、西洋由来のヴォーバン式、クーホールン式、そして日本式を組み合わせたハイブリッドです。
これだけのものを作ることが出来るほど、幕府にだって知識もあったわけです。
設計者は、大洲藩士・武田斐三郎成章でした。
緒方洪庵の適塾で学んだ秀才で、オランダ語を理解していたものの、英語を学ぶ機会はなかったため、函館の捕鯨員から学んだとか。
この武田が、幕政の無茶ぶりに直面します。ペリーは浦賀だけに立ち寄ったわけではなく、浦賀の前に琉球、後に蝦夷地の函館にも立ち寄っております。
ここで幕府側が交渉役に指名したのが、武田でした。当時28歳です。しかも、オランダ語の読み書きはできても、英語はできません。しかも、そこまで身分が高いわけでもない。
それでもペリーの通訳を務めたウィリアムズは、武田について記しています。
「背が高くて、私が出会った日本人の中では最もハンサムな部類に入る。学識もあり、おそらく身分も高い」
当時の来日外国人は、日本人男性の容姿を褒めることは滅多にありません。武田は気品あふれるイケメンだったのですね。
ウィリアムズが思ったほど武田の身分はさ高くはありませんが、これは日本特有の事情もあるのでしょう。日本は他国と比較すると身分が均質的で、立ち居振る舞いや服装を見て、一目でわかるわけでもありません。
そうはいっても、武田はきっと立ち居振る舞いが素晴らしかったのでしょう。
武田には幕末らしさが溢れています。
さほど身分が高くなくとも、彼は長崎と函館で学識を深めることができました。そして実力を認められ、ペリーと交渉するほどの大役を任せられたのです。
そんな武田に、函館へやってきていたフランスの海軍人たちが築城術を教えてきます。フランス人は何が目的だったのか?
幕末函館に訪れたフランス人には、“怪僧”ことメルメ・カションもおります。カションも栗本鋤雲と熱心に対話しており、ともかく親切です。
フランス人気質と言えるのかどうか。彼らには目論見があったことは確かです。当時、フランスでは蚕に伝染病が流行し、絹糸生産が止まるという危機を迎えていました。
絹産業を復活させるためには、本場である清か、あるいは日本からの導入が近道です。頑なな清よりも、日本の方がよいのでは? そういった思惑もあったようです。
かくして五稜郭設計と建設について詰められていた安政3年(1856年)――この歳30歳になった武田は、旗本に準じる幕臣として取り立てられました。
ここで武田は、横須賀造船所の函館版のような事業を展開します。製鉄に、銃砲製造に取り組み、五稜郭に備え付けることとしたのです。
しかし、不運にも暴風雨にあい中断。再開するほどの財政的な余裕も幕府にはなく、中途半端に終わってしまいました。
中途半端といえば、五稜郭の立地もそうです。
戦国時代の城郭は、地理的条件を踏まえ、険しい地形に建てられることもありました。しかし、都市が形成され、役所としての機能を備えるとなると、それでは不便なのです。
武田自身は、五稜郭はもっと奥まった場所に建てるべきだと考えていました。とはいえ、箱館奉行所としての機能も備えるとなえると、そうもいかない。
五稜郭は和洋折衷です。そうした様式のみならず、軍事要塞と役所機能というハイブリッド型でもありました。
【箱館戦争】の短期決着から、五稜郭はしばしば酷評されます。
しかし、機能と役割を踏まえれば限界もりました。
箱館戦争の勝敗には、列強の思惑も大きく絡んでいて、幕府軍最大の強みである海軍は、開陽丸を事故で失ってしまい、力を大きく落としました。
そうはいっても、これが決定打ではありません。
新政府軍の背後にいるイギリスが、アメリカから戦艦ストーンウォールを取り寄せたからには、優位性は失われてしまったのです。
エンジニアとして五稜郭に携わった武田は、軍人として【箱館戦争】には参戦しておりません。明治維新以降は新政府の陸軍に仕えました。
華々しく幕府に殉じたわけでもなく、寡黙な技術者肌であった武田。そのため知名度が高くないことが惜しまれます。
ちなみにあの新島襄も、この武田に会うために函館まで渡ったと言います(タッチの差で、会えなかったそうで)。
現在、五稜郭には武田の顔がレリーフに刻まれております。
確かに気品ある、なかなかの美男です。
上掲の画像をご覧のように、顔だけがテカテカとしてますよね?
なんでも「触ると頭がよくなる」という伝説のせいで、すり減っているんだとか。
※続きは【次のページへ】をclick!
陣屋もあった
五稜郭と四稜郭だけが、こうした建造物ではありません。
函館市内には、三稜郭、七稜郭とみなせるものがあります。函館のものは、幕府軍が築いたものと推察されます。
しかし、実はこれだけではないのです。
蝦夷地には、奥羽六藩や松前藩が築いたとみられる、警備のための陣屋跡が各地にありました。
そうした跡は、歴史の流れの中、建物は壊されて跡も消され、ひっそりと消えていったものも多いのです。
とはいえ、全てが消えてしまったわけではなく、保存されて見学できる場所もあります。
白老にある白老仙台藩陣屋跡は「仙台藩白老元陣屋資料館」として整備されています。
戸切地の戸切地陣屋は、整備事業が行われており、見学もできます(参考:北斗市歴史年表)。
国指定史跡に指定された陣屋も存在します。
幕末の南樺太警備
幕末期、幕府は南樺太の警備も行っておりました。
彼らの認識では、南樺太を「北蝦夷地」とみなしていたのです。
例えば安政元年(1854年)。
秋田藩が樺太警備を命じられました。
安政3年(1856年)から、シラヌシ(白主/のちの好仁村、現シェブニノ)とクシュンコタンに、夏期のみ警備をつけることになったのです。
会津藩は、京都守護職となったため途中で抜けるものの、さらには仙台藩・鶴岡藩(庄内藩)も加わり、幕府は南樺太の警備を行いました。
南樺太にも、こうした奥羽諸藩の陣屋が残されたのです。
明治維新後に一転して
ロシアへの備えとして不十分とは言えるものの、まったくの無警戒でもなかった――それが幕府の蝦夷地政策です。
それがノーガードとなってしまうのは、戊辰戦争が原因。
この戦乱期、会津藩と庄内藩は蝦夷地をプロイセンに割譲することを条件に、支援を取り付けようとしました。
「あまりに酷い外交政策だ」と非難される行為ですが、そもそも蝦夷地に警備空白の状況を作ってしまったのは、戊辰戦争を仕掛けた側といえるのではないでしょうか。
争いの中、蝦夷地は、最後まで屈しなかった幕臣たちが希望をつなぐ場所となりました。
彼らは松前藩を蹴散らし、幕臣として最後の望みを繋いだのです。
そして戦争が終結し、明治維新となってから、北海道と名を変えた蝦夷地と、東北出身者の関係は別の縁でつながれます。
東北諸藩の人々は、蝦夷地警備の経験もあることだからと、屯田兵として北海道開拓に従事させられます。
そもそも戦争敗者として、他に行き場もありません。
過酷な北の大地。
現代のように整備のされてない、荒涼とした野原。
条件は日本で最悪と言っていいでしょう。
彼らに蝦夷地の滞在経験があったとかそういうことではなく、戊辰戦争の敗者ゆえに開拓で苦労するのは自業自得――新政府側にはそんな考え方があったと目されます。
開拓と流刑をセットにした一石二鳥の待遇=屯田兵。
大人気作品『ゴールデンカムイ』には、中央への不満を露骨に漏らし、その冷淡さを怒る人物が出てきます。
『ゴールデンカムイ』単行本10巻収録第97話より土方のセリフ
「旭川の発展をもたらした『上川道路』
札幌と旭川を結ぶ道路脇には…
おびただしい死体が埋まっている
ヒグマと狼に怯えながら寒さと飢えに苦しみ
死んでいった囚人たちだ」
「樺戸集監に収容されたのは
戊辰戦争や西南戦争で負けた国事犯と呼ばれる武士たちだ
勝てば官軍
負ければ賊軍
戦争というのは負けてはいかんのだ」
『ゴールデンカムイ』単行本14巻収録第131話より鶴見中尉のセリフ
「蝗害も暴動も 中央の人間がこんな地の果てまで確かめに来ることはまず無い 中央なんぞいつだって事後報告で充分だ」
北海道の歴史があまり語られないため、
『この人たち、何でこんなに怒っているの?』
と疑問を感じる方がおられるかもしれません。
しかしそこには、幕末から繋がる歴史があったのです。
江戸幕府も、異国船の脅威に対して重い腰を本格的にあげたのは、江戸に近い浦賀に黒船がやって来てから。
明治政府は、北海道開拓を東北出身者中心に実質ぶん投げていた。
中央はあまりに冷たいのではないか?
そんな無関心への怒りが、劇中の彼らの胸中にあったとしても無理のないことではないでしょうか。
今では立派な観光シンボルに
そんな五稜郭は、時代の荒波を潜り抜け、今では函館市民の憩いの場となりました。
函館市民をワクワクさせる五稜郭の歴史は長いもの。かつて北海道名物として「函館氷」がありました。
幕末の日本人は、居留地の外国人が氷を求めることに驚きました。
江戸時代の氷といえば、将軍様や殿様が山から取り寄せ食べるもの。それを外国人は使いこなし、アイスクリームなんてものまで食べているのです。
「これからの時代、氷を売れば、大儲けじゃねえか!」
そう思いついた中川嘉兵衛という商人がおりました。輸入頼りの氷を国内で産出販売すればビジネスチャンスだと考えたのです。
そして目をつけたのが、五稜郭の堀でした。
幕末から明治にかけて、【箱館戦争】へ向かう中、氷を求めた連中もウロウロしていたのですから、興味深いものがあります。ドラマにしたら面白そうです。
こうして売られた「函館氷」は北海道名物になりまして、銀座には「函館屋」という店までできました。
モダンな店に、エプロン姿の女給がいて、アイスクリームを提供する――そんな浪漫あふれる店にまで、函館氷は届いていたのです。
そうはいっても、気になることは衛生面です。次第に人造氷ができるようになると、函館氷は役割を終えます。今では函館銘菓にその名を残しているのでした。
そして昭和ともなると、高度経済成長期が訪れます。
昭和30年代から40年代にかけて、北海道旅行ブームが到来。
五稜郭にはタワーができます。五稜郭最大の特徴である形を見るために、タワーは最適。城郭跡にタワーがあるなんて、五稜郭の大きな個性といえます。
展望台には土方歳三のブロンズ像が飾られ、函館の街を見守っているようです。立派な観光資源として、修学旅行生はじめ観光客が訪れる定番スポットとして、五稜郭は存在しています。
幕末の動乱から、観光立国のシンボルとして――日本が歩んできた150年が、五稜郭には凝縮されています。
その歩みを知る書籍として、濱口裕介氏『「星の城」が見た150年: 誰も知らない五稜郭』(→amazon)は必読の一冊です。
北海道の歴史を凝縮したおもしろさがぎっしりと詰まった一冊です。
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2023/04/05/116089