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北海道新聞2023年4月25日 14:00
アイヌ民族が初めて、アイヌ語を文字で表し自らの物語を記した「アイヌ神謡集」(1923年)が発刊されて100年を迎えます。1世紀をへた今も多くの人に読み継がれている「神謡集」や、わずか19歳で生涯を終えた登別生まれの知里幸恵(ちり・ゆきえ、1903~22年)について、アイヌ民族や文学者、さまざまな伝承活動に取り組む人たちに、その思いを語ってもらいます。第1弾は幸恵の功績を伝える「知里幸恵 銀のしずく記念館」(登別)の木原仁美館長に話を聞きました。(文化部 中村康利)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/bb/443092f1481844b3e5511334d0c4a989.jpg)
東京都内にあるアイヌ文化交流センターで「アイヌ神謡集」や、著者知里幸恵の伝承に取り組んだ母横山むつみさんについて話す木原仁美さん(玉田順一撮影)
きはら・ひとみ 1974年生まれ。知里幸恵の功績を伝える「知里幸恵 銀のしずく記念館」(登別)の設立に尽力した、幸恵のめい・故横山むつみさん(永世館長)の長女。現在は記念館館長。千葉県佐倉市在住。
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私はふだん、アイヌ民族の情報を発信するアイヌ民族文化財団の「アイヌ文化交流センター」(東京)で所長代理として働いています。母は知里幸恵のめいの横山むつみで、父は漫画家の孝雄です。私は登別で生まれました。登別は母や幸恵のふるさとでもあります。幼い頃、東京に移り、それから両親は「関東ウタリ会」というアイヌ民族の団体で活動し、自宅は事務局になっていました。家にはしょっちゅう、仲間たちが訪ねてきてにぎやかでした。
アイヌ文化交流センターが1997年にできるまで、東京にはアイヌ民族が気軽に集まることができる施設がありませんでした。それで関東ウタリ会は私の家や都内の公共施設などで例会を開いていました。私は両親に連れられて参加し、アイヌの歌、踊り、ムックリ(口琴)、トンコリ(弦楽器)、アイヌ語などを習いました。
小さな頃からこうした活動に関わっているので、誰かに言われるまでもなく自分がアイヌであることを自覚していました。国際先住民年(1993年)の少し前、アイヌ民族への関心が高まり、関東でも関連のイベントが多く開かれました。私は母に誘われ、アイヌの伝統的な踊りなどの公演に出演しました。中学生や高校生になると、社会の偏見を意識してアイヌの活動から離れる人もいます。母は私に(活動を)続けてほしかったのだと思う。それで私が踊りに出演すると、時々、お小遣いをくれました。
両親は97年に登別に戻りました。私は登別には行かず、98年から東京で今の職場(当時は財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構)で働き始めました。そのころは、「アイヌ神謡集」は多くの人に読まれていたのですが、幸恵自身がどんな人だったかはあまり知られていませんでした。母は多分、東京にいる頃から幸恵の伝承活動をしたいと思ったのでしょう。登別で取り組みだし、会えば幸恵の話ばかりするようになりました。
アイヌ文化に対する私の考えが深まったきっかけは、勤務する機構などが主催する特別展の企画で、100年以上前にマンローが収集したアイヌ民族の衣服や木彫品などを調べるため、2000年に国立スコットランド博物館に行ったことでした。古い時代の物を触ったときの感動といったらすごく、オーラのようなものを感じたのです。見ることができてよかった。
ニール・ゴードン・マンロー(1863~1942年) 英国スコットランド生まれの医師で、1890年に来日、横浜などで医療活動を行った。1932年、日高管内平取町二風谷に転居し、診療とアイヌ文化の研究に取り組んだ。国立スコットランド博物館には、マンローが道内で集めたアイヌ民族関連の資料約200点が収蔵されている。
両親は多くの人に寄付を呼びかけ、仲間たちと2010年、登別に「知里幸恵 銀のしずく記念館」を造りました。その後、母は16年に、父も19年に亡くなりました。それから幸恵のことが私に巡ってくるようになりました。私は、母が幸恵の活動をしている時は、それをしようという気持ちはありませんでした。周りに求められ次第に意識するようになったのです。昨年5月、私は記念館の館長になりました。職場で働いていると、来館したお客さんから「館長(就任)おめでとう」と声をかけられることがあります。「アイヌ民族や文化に関心のある人は知っているんだ」と驚かされました。
「知里幸恵 銀のしずく記念館」 登別市登別本町2の34の7。入館料は大人500円、高校生200円、小中学生100円など。開館は午前9時半~午後4時半(入館は午後4時まで)。火曜日休館。問い合わせは記念館(電)0143・83・5666。ホームページは、https://www.ginnoshizuku.com/
関東ウタリ会のアイヌ語教室でアイヌ語を教わった中川裕先生(千葉大名誉教授)が、NHKのテレビ番組「100分de名著」に出演し、「アイヌ神謡集」を紹介しました(2022年9月放送)。私も番組で「神謡集」の序文や神謡の日本語訳を朗読しました。
序文は読む人をひきつけます。日本語でアイヌ文化の素晴らしさや美しさを伝え、「幸恵さんはすてきな人なんだな」と感じさせ、「神謡集」の世界に誘っていくのです。幸恵は日記で「私はアイヌだ。何処(どこ)までもアイヌだ」と記し、アイヌ民族として生きる「アイヌ宣言」をしています。番組でこの日記も朗読しました。その時は、まるで幸恵が乗り移り、自分がアイヌ宣言をしているような気持ちになったのです。
「神謡集」のアイヌ語は(アイヌ語を知らない人にとって)難しいかもしれません。日本語の部分でもよいので声に出して読んでほしいと思います。
【「アイヌ神謡集」序】
その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう。
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀(さえ)ずる小鳥と共に歌い暮して蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝(かがり)も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円(まど)かな月に夢を結ぶ。嗚呼なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。
時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮(あけくれ)祈っている事で御座います。
けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。
アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。
私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。
大正十一年三月一日
知里幸惠
◇ ◇ ◇
■アイヌ神謡集と知里幸恵
・・・・・・・・・
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/836487/?fbclid=IwAR1dMtGHFHa1hJgtu0tezoJN71GilU6WtQcERVd6VgocSd3xCR1FEuPKaP0
北海道新聞2023年4月25日 14:00
アイヌ民族が初めて、アイヌ語を文字で表し自らの物語を記した「アイヌ神謡集」(1923年)が発刊されて100年を迎えます。1世紀をへた今も多くの人に読み継がれている「神謡集」や、わずか19歳で生涯を終えた登別生まれの知里幸恵(ちり・ゆきえ、1903~22年)について、アイヌ民族や文学者、さまざまな伝承活動に取り組む人たちに、その思いを語ってもらいます。第1弾は幸恵の功績を伝える「知里幸恵 銀のしずく記念館」(登別)の木原仁美館長に話を聞きました。(文化部 中村康利)

![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/bb/443092f1481844b3e5511334d0c4a989.jpg)
東京都内にあるアイヌ文化交流センターで「アイヌ神謡集」や、著者知里幸恵の伝承に取り組んだ母横山むつみさんについて話す木原仁美さん(玉田順一撮影)
きはら・ひとみ 1974年生まれ。知里幸恵の功績を伝える「知里幸恵 銀のしずく記念館」(登別)の設立に尽力した、幸恵のめい・故横山むつみさん(永世館長)の長女。現在は記念館館長。千葉県佐倉市在住。
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私はふだん、アイヌ民族の情報を発信するアイヌ民族文化財団の「アイヌ文化交流センター」(東京)で所長代理として働いています。母は知里幸恵のめいの横山むつみで、父は漫画家の孝雄です。私は登別で生まれました。登別は母や幸恵のふるさとでもあります。幼い頃、東京に移り、それから両親は「関東ウタリ会」というアイヌ民族の団体で活動し、自宅は事務局になっていました。家にはしょっちゅう、仲間たちが訪ねてきてにぎやかでした。
アイヌ文化交流センターが1997年にできるまで、東京にはアイヌ民族が気軽に集まることができる施設がありませんでした。それで関東ウタリ会は私の家や都内の公共施設などで例会を開いていました。私は両親に連れられて参加し、アイヌの歌、踊り、ムックリ(口琴)、トンコリ(弦楽器)、アイヌ語などを習いました。
小さな頃からこうした活動に関わっているので、誰かに言われるまでもなく自分がアイヌであることを自覚していました。国際先住民年(1993年)の少し前、アイヌ民族への関心が高まり、関東でも関連のイベントが多く開かれました。私は母に誘われ、アイヌの伝統的な踊りなどの公演に出演しました。中学生や高校生になると、社会の偏見を意識してアイヌの活動から離れる人もいます。母は私に(活動を)続けてほしかったのだと思う。それで私が踊りに出演すると、時々、お小遣いをくれました。
両親は97年に登別に戻りました。私は登別には行かず、98年から東京で今の職場(当時は財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構)で働き始めました。そのころは、「アイヌ神謡集」は多くの人に読まれていたのですが、幸恵自身がどんな人だったかはあまり知られていませんでした。母は多分、東京にいる頃から幸恵の伝承活動をしたいと思ったのでしょう。登別で取り組みだし、会えば幸恵の話ばかりするようになりました。
アイヌ文化に対する私の考えが深まったきっかけは、勤務する機構などが主催する特別展の企画で、100年以上前にマンローが収集したアイヌ民族の衣服や木彫品などを調べるため、2000年に国立スコットランド博物館に行ったことでした。古い時代の物を触ったときの感動といったらすごく、オーラのようなものを感じたのです。見ることができてよかった。
ニール・ゴードン・マンロー(1863~1942年) 英国スコットランド生まれの医師で、1890年に来日、横浜などで医療活動を行った。1932年、日高管内平取町二風谷に転居し、診療とアイヌ文化の研究に取り組んだ。国立スコットランド博物館には、マンローが道内で集めたアイヌ民族関連の資料約200点が収蔵されている。
両親は多くの人に寄付を呼びかけ、仲間たちと2010年、登別に「知里幸恵 銀のしずく記念館」を造りました。その後、母は16年に、父も19年に亡くなりました。それから幸恵のことが私に巡ってくるようになりました。私は、母が幸恵の活動をしている時は、それをしようという気持ちはありませんでした。周りに求められ次第に意識するようになったのです。昨年5月、私は記念館の館長になりました。職場で働いていると、来館したお客さんから「館長(就任)おめでとう」と声をかけられることがあります。「アイヌ民族や文化に関心のある人は知っているんだ」と驚かされました。
「知里幸恵 銀のしずく記念館」 登別市登別本町2の34の7。入館料は大人500円、高校生200円、小中学生100円など。開館は午前9時半~午後4時半(入館は午後4時まで)。火曜日休館。問い合わせは記念館(電)0143・83・5666。ホームページは、https://www.ginnoshizuku.com/
関東ウタリ会のアイヌ語教室でアイヌ語を教わった中川裕先生(千葉大名誉教授)が、NHKのテレビ番組「100分de名著」に出演し、「アイヌ神謡集」を紹介しました(2022年9月放送)。私も番組で「神謡集」の序文や神謡の日本語訳を朗読しました。
序文は読む人をひきつけます。日本語でアイヌ文化の素晴らしさや美しさを伝え、「幸恵さんはすてきな人なんだな」と感じさせ、「神謡集」の世界に誘っていくのです。幸恵は日記で「私はアイヌだ。何処(どこ)までもアイヌだ」と記し、アイヌ民族として生きる「アイヌ宣言」をしています。番組でこの日記も朗読しました。その時は、まるで幸恵が乗り移り、自分がアイヌ宣言をしているような気持ちになったのです。
「神謡集」のアイヌ語は(アイヌ語を知らない人にとって)難しいかもしれません。日本語の部分でもよいので声に出して読んでほしいと思います。
【「アイヌ神謡集」序】
その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう。
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀(さえ)ずる小鳥と共に歌い暮して蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝(かがり)も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円(まど)かな月に夢を結ぶ。嗚呼なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。
時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮(あけくれ)祈っている事で御座います。
けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。
アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。
私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。
大正十一年三月一日
知里幸惠
◇ ◇ ◇
■アイヌ神謡集と知里幸恵
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https://www.hokkaido-np.co.jp/article/836487/?fbclid=IwAR1dMtGHFHa1hJgtu0tezoJN71GilU6WtQcERVd6VgocSd3xCR1FEuPKaP0