先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

カムイルミナ楽しんで 来月13日から開始【釧路】

2023-04-22 | アイヌ民族関連
釧路新聞社2023.04.21 08:00

22年のカムイルミナオープニングセレモニーの様子
釧路市阿寒湖温泉地域で観光振興事業を手掛ける「阿寒アドベンチャーツーリズム」(大西雅之代表)は20日、阿寒湖の大自然とアイヌ文化、デジタルアートを融合した自然体験型観光コンテンツ「阿寒湖の森ナイトウォークKAMUYLUMINA(カムイルミナ)」の2023年度シーズンを5月13日に開始すると発表した。
カムイルミナは、カナダの「MOMENTFACTRY(モーメントファクトリー)社」が手掛けた体験型アトラクション。来場者はアイヌのつえをモチーフに作られた「リズムスティック」を手に、プロジェクションマッピングをはじめとするデジタル技術で、多彩な仕掛けが散りばめられた阿寒湖の夜の森を散策する。
初年の2019年は7~11月に開催され、約3万4000人が来場するほどの好評を博した。20年は新型コロナウイルスの影響で中止、21年は開催時期を1カ月ほど短縮したが、約1万7000人が参加。22年は6月からスタートし、約2万4000人がコンテンツを楽しんだ。
今シーズンは11月11日まで、毎夜開催を予定。時期によって開始時間が異なり、5月13日~8月9日は午後7時30分~同9時までとなっている。料金は大人(中学生以上)が前売り3000円、当日3500円、小学生は前売り1500円、当日1700円。カムイルミナの公式サイトや阿寒湖周辺の宿泊施設などで購入できる。
阿寒アドベンチャーツーリズムの大川伸二常務取締役は「コロナも落ち着いており、5類に移行しての開催になる。旅行で阿寒湖に訪れた際には、ぜひ楽しんでいただきたい」と来場を呼び掛けている。問い合わせは同社0154(65)7121へ。
http://kyodoshi.com/article/15354

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調査報告 ジャーナリストたちの現場から足元と世界をつなぐ―ローカル発国際ニュースの可能性―

2023-04-22 | アイヌ民族関連
NHK2023年4月21日
ローカルから国際的なテーマを発信し続けている記者がいる。「中国で拘束された研究者」「新彊ウイグル自治区とのつながり」「ウクライナの大学との交流」など、社会の中で「少数派」と呼ばれる人たちの現実に光を照らすリポートの数々。手がけたのはNHK室蘭放送局の篁
たかむら
慶一記者だ。一見、ローカルとなじみが薄そうに見えるこうしたテーマだが、同記者は人々に身近に感じてもらえるよう北海道とのつながりを軸に伝えている。自らの取材実践についてどのように意識しているのか、記者本人に話を聞いた。
メディア研究部 東山浩太
1-1.調査の目的
2005年にNHKに入局した篁記者は、青森局や沖縄局、東京の国際部や国際放送局などでの勤務を通じて、国際問題の取材に携わってきた。2020年9月から室蘭放送局に在籍している。
篁記者は赴任地を問わず、国際ニュース、特に少数者の人権がテーマになるものを継続的に発信してきた。今回の調査は、あくまで1人の記者のケーススタディーだが、国際ニュースを、ローカルから積極的に発信することの意義を考えてみたい。
篁記者が国際問題に関心を抱いたきっかけは、大学生のときだった。2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロで、大学の知人が巻き込まれて亡くなったのだ。知人とはその年の春にアメリカの短期語学留学で知り合った仲で、大きなショックを受けたという。世界で起きていることが自分の生活と決して無関係ではないと感じた原点となる体験だった。
東京の国際部などでは、中国や台湾に関する取材を手がけた。
「その中でも特に、中国政府による新疆
しんきょう
ウイグル自治区の少数民族に対する、抑圧的な政策について取材を続けました。沖縄の基地問題を取材した経験などを通じて、『多数派が少数派に力で何事かを強いること』への疑問が強くなっていました。ウイグルの問題も大きく見ればそのことと無縁ではないと思いました。日本の人たちも無関心でいてほしくないと感じたんです」
新彊ウイグル自治区をめぐっては、大規模な強制収容をはじめ、思想教育や虐待など、少数民族であるウイグル族などへの深刻な人権侵害が指摘され、欧米が中国政府への批判を強めていた。日本には中国から逃れてきたウイグルの人たちが一定数いた。彼らは日本にいるからこそ本音を話してくれるかもしれない――篁記者は東京で国際部などにいた2018年から2020年までの間、折を見てはウイグルの人たちのもとへ通い続けた。
1-2.在日ウイグルの男性を取材
その取材の成果が、2019年7月5日、全国放送され、1週間後に配信されたウェブ記事「絶望から生まれた勇気」1)である。日本国内からウイグルの人権問題の深刻さを明らかにしている。
記事にするまでの取材は容易ではなかった。篁記者によると、ウイグルの人たちにとってメディアは、彼らに話を聞きに来ることはあっても、実際にニュースを報道することが少なく、不信感を抱くところもあった。そのため、機微に触れる情報を提供してくれるほどの信頼関係を構築するのに時間がかかったという。
記事内容を紹介する。中国政府に対して、日本国内でデモなどを通じて抗議活動を行うアフメット・レテプさんは、大学院進学のために東京に来て、修了後、都内のIT関連企業に勤めていた。彼の故郷ウイグルの家族は、納得いく理由もなく、中国当局によって施設に収容されていた。
家族との連絡が途絶え、不安が募る中、あるとき、携帯電話に1通のビデオメッセージが届いた。公安当局を名乗る男からのそのメッセージには、施設内で憔悴
しょうすい
した父親の動画が添えられていた。さらにその1か月後、男は日本国内のウイグルの組織について情報提供を求めてきた。「父親を人質にしてスパイ活動を要求してきた」と受け止めたアフメットさんは、家族の安全と引き換えに仲間への裏切り行為を選択することを迫られた。家族の安全を優先するか、それとも自分の信念を貫くべきか、夜も眠れず涙を流した。悩み抜いた末に2か月後、やはり不当な圧力に屈することはできないと決断し、男に対してもう連絡をしないでほしいと告げた。
その後、彼は篁記者に「顔を出し、実名を公表してみずからの状況を訴える。公安当局にスパイ行為を迫られたこともすべて明らかにする」との決意を伝えた。「声を上げることができない施設の人たちに代わって、何が実際に起きているか自分が伝えたい」という思いから、信頼関係のできていた篁記者に申し出た。
篁記者は、家族が報復を受ける可能性を指摘し、報道してよいのか、再度、確認した。しかし、彼の決意は揺るがなかった。アフメットさんと家族の置かれた状況はこうして報じられた。
取材対象との強い信頼関係をどのように築いたのか。篁記者は実はこの報道の1年前に、アフメットさんと知り合っていた。1年の間、彼の話に耳に傾け、その思いを共有しながら、ウイグルの人権問題について積極的にニュースや特集を発信していた。
「そうした積み重ねが信頼につながり、『この記者ならば自分のことを確実に伝えてくれる』とアフメットさんが思ってくれたのではないか」と篁記者は振り返る。
2-1.室蘭とそれまでの取材とのつながり
国際部などを経て、篁記者は2020年9月にNHK室蘭局に着任した。室蘭局は北海道に7つあるNHKの放送局の1つで、胆振
いぶり
・日高地方の取材を担っている。
室蘭局の取材担当地域には、先住民族であるアイヌの人たちが道内でも特に多く住んでいる。彼らの歴史や文化を取材する中で、篁記者はアイヌの人たちが受けてきた抑圧や差別の問題が、それまで培ってきた自らの問題意識と通底することを意識させられたという。
「日本がアイヌの人々に多数派の論理を押しつけて彼らの誇りを奪い、同化政策を進めてきた歴史を改めて意識しました。中国の少数民族に対する抑圧的な政策などを取材してきましたが、過去に日本でも同じような問題が起きていたわけです。他人事ではない。そうした過去があるからこそ、現在の人権問題については、それがどこの国でも起きうることに自覚的でありたいし、自分の持ち場でも取材を続けたいという思いを強くしました」
場所を問わず、抑圧される少数派へのまなざしを大切にするという自らの取材姿勢の原点を確認した篁記者は、室蘭を拠点として、北海道から国際問題の取材に取り組んでいる。
2-2.北海道で始めた中国取材
着任して早々、篁記者が同僚記者から引き継いだ取材案件があった。道内に住んでいた中国人研究者が、中国当局にスパイの疑いで拘束された事件だ。
札幌の北海道教育大学で、東アジア国際政治史を研究していた袁克勤
えんこくきん
元教授(2021年3月まで在職)は、中国籍であるが日本で30年以上暮らし、永住権を得ていた。留学生の受け入れ窓口となるなど、日中の学術交流にも尽力していた。その袁元教授が、2019年5月、法事で中国に一時帰国した際、何者かに連れ去られ、それから10か月間、消息不明となったのである。
篁記者が事件を引き継ぐ前までの経緯を、大きな局面ごとに説明する。
1. 長期間、袁元教授と連絡が取れない状況になっていることに関し、2019年12月下旬、仲間の研究者たちが安否について情報提供を呼びかける「緊急アピール」を行った。
2. 翌2020年3月下旬、元教授について、中国政府は会見で「スパイ犯罪に関わった疑いで、中国当局により取り調べを受けている」と拘束を認めたが、詳細は示さなかった。
日本国内で長年にわたり研究・教育に携わり、教え子にも親しまれてきた研究者が突然、中国に拘束されたことに多数のマスメディアが注目し、特に北海道のローカルメディアは問題視して取り上げた。
2-3.「2年前、中国で消えた父」とその取材プロセス
篁記者はこの事件について、袁元教授が中国籍であるために、日本政府が解放に向けて積極的には動きづらいことを認識していた。しかし、ローカルの視点からすると、道民の1人の人権が関わる重大事だと考え、「まず北海道で問題提起することが欠かせないし、かつ、中国取材の経験が多少なりともある自分なら役に立てるかもしれない」と、希望し、引き継いだという。
引き継いだ後の動きを、大きな局面ごとに説明する。
3. 2021年4月、中国政府は会見で、袁元教授はスパイ容疑で起訴され、自供していると発表。法的な権利は守られているとする一方、起訴内容や裁判予定は明かさないままだった。
4. 翌5月、元教授が拘束されて2年となったのを機に、長男の袁成驥えんせいき
さんが支援者とともに札幌や東京で会見を開く。元教授が起訴されたこと、その後、初めて弁護士が接見でき、元教授が争う姿勢を見せたことを報告し、早期解放を訴えた。
篁記者は札幌の袁成驥さんのもとに2020年11月から足しげく通った。袁さんからは父親の無実を信じていること、証拠も示されないまま拘束が続いていることへの心境や思いを聞いたという。
篁記者は、袁元教授が拘束されてからまもなく2年となる2021年4月27日、事件の経緯と課題を伝える特集を道内向けに放送。5月20日、改めてNHK北海道のウェブサイトに「2年前、中国で消えた父」2)として記事を掲載する(上記4の時期)。
同記事では、袁元教授のように中国を訪れた研究者などが拘束されるケースが相次いでいること、背景には「反スパイ法」がある可能性を挙げている(反スパイ法とは、2014年に施行された中国の法律で、スパイ行為の定義が曖昧なため、恣意的に運用される可能性があると指摘されている)。さらに、人権状況を調査したアメリカ国務省の報告書を紹介する形で、中国当局が政治的な反対の声を抑えこもうと、恣意的な拘束を行っているおそれを指摘している。
そのうえで、日中ともに研究者が、当局にどう見られているかに気を遣い、研究に非常に慎重になっている点を危惧し、本来、保障されるべき「学問の自由」が脅かされることを、識者のコメントを紹介しつつ問題提起している。
篁記者のこの記事と他のマスメディアのものを比較すると、取材スタンスに違いがある。 袁元教授の拘束の理由について、他のメディアの中には、「過去に民主化運動に参加していた」「研究内容が中国政府の歴史観に抵触した」など、引用元や根拠を明らかにしないまま言及したケースもあるが、篁記者の伝え方はそれとは異なっていた。
「裏がとれないことは、もっともらしく書かないようにしました。不必要に踏み込んだことを書けば、ミスリードやご本人やご家族に迷惑をかけるおそれもあるからです。一方で、拘束された理由は、読者の関心が高い点でもある。そこで、中国の人権問題に詳しい東京大学大学院の阿古智子教授の見立てを盛り込みました。『推測するしかない』という断りを明記し、『扱っていた資料が中国の国家機密にあたる疑いがかけられた』可能性や、『袁さんから何らかの情報を引き出すために恣意的に拘束した』可能性を挙げました」
記事では、このように反スパイ法のもと、あらゆる情報が後付けで国家機密に指定されうる現状を伝えている。
そして、袁元教授については、どのような行為が犯罪とされているのか、適正な法手続きが守られているのか、また健康状態など、置かれている状況を中国当局がつまびらかにしていない。このため、結局、人権が保障されているかわからないことを懸念している。
「中国政府については、長期間、弁護士の接見を認めず、拘束の理由も具体的に説明しない姿勢は、国際的に見て人権を保障しているとは思えませんでした。が、その点に対する言い分を聞かなければフェアではないと考えましたので、2021年4月22日の中国外務省の定例記者会見で、現地のNHKの記者に質問をしてもらいました」
4月22日の記者会見とは、中国外務省が、袁元教授についてスパイ容疑で起訴され、犯行を自供しているとした会見である(上記3)。この会見の前に篁記者は、国際部に元教授のことを尋ねてもらえないか打診し、調整の結果、現地の記者が質問してくれることになった。本人の状況について正式な発表が1年余りなかった中、中国当局の言い分を聞くためであったが、図らずも状況が変わったことがわかった。
この記者会見の内容は、当日や翌日に複数のマスメディアが報じた。
篁記者と現地の記者との連携によって初めて明らかになった、袁元教授のスパイ容疑での起訴という事実は、支援活動にも影響を及ぼした。袁成驥さんと道内の研究者たちで作る支援団体は、5月25日に札幌、31日に東京で記者会見を開き(上記4)、元教授の早期の無事解放を強く訴えた。すでに起訴されてしまっているという切迫感が彼らの活動を後押しした。
3-1.ローカル発国際ニュースの意義
このほか、篁記者は、日本と新彊ウイグル自治区の学術交流の立役者を道内で探しだして取材したり3)、室蘭工業大学と学術交流をしていたウクライナの大学教授の戦禍の思いを伝えたりするなど4)、室蘭や北海道という自分の足元から世界へ通じる発信を続けている。
国際ニュース、とりわけ少数者の人権という、地域とは一見、縁の遠いテーマを積極的に発信することの意義はどこにあるのか。
篁記者に自らの取材の役割について意識していることを尋ねると、国際情勢を地域の人々の通念や文化にとって理解しやすい枠組みで示すこと。また、地域の在日外国人へメッセージをアナウンスすることの2点を挙げた。
「私は北海道の記者ですから、第一の受け手は北海道の人たちを想定しています。私には、多数派から理不尽に外された人たちの声を拾いあげて伝えないと、民主主義が成り立たないとの思いがあります。だから人権問題は、どこにいても取材したい。人権や自由の抑圧や、尊厳が傷つけられることは、バラバラに起きているように見えてもつながっている…そんな想像力を働かせてもらえるよう、地域との具体的な関わりを示して伝えているつもりです」
「大都市でないローカルでも、人権が厳しく制限された国から逃れてきた人たちは暮らしています。そうした人たちにとっては、メディアが自国の抱える問題をどう扱うかは大きな関心事です。東京だけでなく、身近な地域からも情報を発信していくことが『無関心ではない』というメッセージとなり、少数派の人たちを力づけることにつながれば、と思っています」
これまでの篁記者の言葉や取材実践から、ローカル発国際ニュースの意義を考える。
彼は遠い国外の、少数派の人権問題であっても、国内のローカルの人々と関係するという視点に立っている。グローバルな社会では、いわば「私たちの地域の中国問題/ウイグル問題/ウクライナ問題…」などが、どんな小さなコミュニティーにも存在しうるからである。
結局、ローカル発国際ニュースの意義とは、地域の人々のコミュニティーと、抑圧された少数派のコミュニティーが、全くの別物なのではなく、同じように置き換えられることを、少しでも多くの人に想像してもらうことにあると言えるのではないか。
場合によると、自分たちも抑圧される側にいたかもしれない・・・こうした想像力が働かないと、少数派の苦しい境遇や自由を求める気持ちに人々が共感するまでには至らないであろう。
今回はあくまでもNHK室蘭放送局の篁記者の実践を例に見てきたが、弱い立場の人々に寄り添う取材者の視点の重要性を確認できた。この視点を持ち続けることは、一地域に限らず、どこにいても報道の地域貢献に役立つのではないか。
3-2.課題の検討
一方、ローカル発国際ニュースの課題についても検討する。
篁記者は、筆者の聞き取りに対し「国際ニュースについて十分な背景説明ができているか」が、悩ましいと述べている(下記の図を参照)。
彼の説明によると、大都市圏に比べて地方では国際情勢について「目立つ出来事」や「直接の当事者」などが少ないという実情がある(中国人研究者のケースは例外的である)。むろんその中でも伝えるべき事柄や意味を探すわけだが、テレビニュースの場合、映像的にインパクトのある出来事や人物がいれば、どうしてもそこを厚く取材しがちであるという。
したがって、個人のエピソードを強調することを通じて、問題となるテーマを伝えることが多くなる。その場合、個人のエピソードにばかり焦点が当たってしまいがちだ。このため、背景にある社会の課題を十分に意識して描くことが必要である。
例えば、少数者の人権というテーマでは、目に見える部分のみならず歴史や社会的構造を十分に理解してもらうことが、複雑な問題の本質を伝えるうえで欠かせないだろう。
その観点からすると、限られた放送時間に収めなければならないテレビ放送よりも、ボリュームの面で制約が緩やかなデジタル(ウェブ)発信は、新たな可能性を秘めていると言える。
ローカルメディアでも、デジタル媒体であるウェブ記事の発信が活発化していくことによって、目立つ出来事や人物のみならず、時にテレビが伝えきれないこともあるニュースの背景説明が一層可能になると見られる。
今回、聞き取りに応じてくれた篁慶一記者は、ローカルの取材環境について「大都市圏に比べて取材要員の少ないローカルメディアでも、行政機関などを取材したニュースをきちんと伝えることが欠かせないし、一方で独自のテーマを背景含めて深く理解するために、息の長い取材に取り組むことも大事だと思う」と話していた。
ローカルに展開するマスメディア各社には、地域の取材拠点を整理縮小する動きが広がっており、人々の情報過疎に対する不安が高まりつつある。報道機関としてのマスメディアが地域の信頼を得るためには、紙媒体や放送と、デジタル発信、それぞれの特性を生かしたジャーナリズムの充実と、課題の本質に迫る取材者を擁する体制を維持していくことが求められる。
【注】
1. https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/news/backstories/616/
(上記は記事の英文版が読める)
2. https://www.nhk.or.jp/hokkaido/articles/slug-n71750a438b01
3. https://www.nhk.or.jp/hokkaido/articles/slug-n98069fd0f932
4. https://www.nhk.or.jp/hokkaido/articles/slug-n5121f90d4ba2
(記事閲覧:2023年4月3日)
* メディア研究部 東山浩太
* 2003年、記者として入局。
* 2017年から文研に在籍、メディアが政策を動かす過程に関心あり。
* 中原昌也さんの小説を発想の参考にしています。
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/domestic/20230412_1.html

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連載987 脱炭素社会、EV時代が来るなら 知っておきたい「リチウム」争奪戦の現状 (下)

2023-04-22 | 先住民族関連
dailysun04/21/2023
(この記事の初出は2023年3月14日)
リチウム生産が抱えるさまざまな問題
 リチウムの生産量は、これまで確実に伸びてきた。しかし、これ以上の生産には、クリアしなければならない問題がいくつもある。
 1つめは、生産・供給のサプライチェーンが、オーストラリア、チリ、アルゼンチン、中国の 4カ国に偏っていること。とくに中国は、リチウムを外交駆け引きの武器に使ってくる可能性があるので、日本はもとより西側諸国は、サプライチェーンの多様化に迫られている。
 2つめは、鉱床採掘のプロセスでCO2が大量に排出されること。さらに、炭酸リチウムを生産する精製プロセスでは、「か焼」(焙焼)という1000度を超える高温で焼かねばならない。この熱源は、現状では石炭や重油が中心だから、脱炭素にはならない。
 また、精製プロセスでは鉱石を硫酸に溶かす工程があり、硫酸ナトリウムが大量に発生するが、これは不要物であり環境汚染物質でもある。
 3つめは、塩湖かん水による生産が、水不足や水質・土壌汚染などの環境問題を招くことだ。濃縮プロセスでは大量の水が必要のため、周辺地域に生活用水や農業用水の枯渇を引き起こす。さらに、蒸留池の周囲に、ナトリウムやカルシウムなどの山ができてしまうという問題もある。
 塩湖かん水の大生産地である南米のアタカマ塩湖(チリ、アルゼンチン、ボリビアの「リチウム三角地帯」に位置する)は、フラミンゴの生息地なので、そういう生態系への配慮も求められている。
脱炭素に必要なのに環境問題を招く皮肉
 すでにリチウム生産の拡大は、世界各地で問題を引き起こしている。
 南米の「リチウム三角地帯」では、抗議活動が活発化し、アルゼンチンのサリーナス・グランデスでは、先住民のコラ族が大規模な反対運動を行った。「リチウムにノー、水と生活にイエス」 というデモが繰り返され、開発を目指した鉱山会社が撤退した。
 NHK特集でもドキュメンタリーとして放映されたが、欧州のリチウム埋蔵国としてナンバー1とされたセルビアでも、抗議活動が起こった。セルビア西部の小さな村で約2億トン、EV100万台に供給できるリチウムが眠っていることがわかり、政府はさっそく鉱山会社と組んでプロジェクトを開始した。
 すると、村民、環境団体が抗議運動を始め、政府は2022年1月、ついにプロジェクトを断念した。
 ポルトガルでも、北部にリチウム鉱床があると推定されたため、政府は露天掘りの鉱山開発プロジェクトを計画した。しかし、この地域は、世界農業遺産に認定された地域だから、抗議活動が起こっている。
 それにしても地球温暖化阻止のためのカーボンニュートラル(脱炭素)に不可欠なリチウムが、環境問題を引き起こすのだから皮肉である。
テスラは自らリチウム確保に動き出した
 いずれにせよ、今後、リチウム争奪戦が激化するかどうかはEVの販売動向にかかっている。
 いま、EVメーカーが販促のために必要としているのは、価格の値下げだ。そのためには、イオンリチウム電池を安く豊富に手に入れなければならない。
 テスラCEOのイーロン・マスクは昨年4月、リチウム価格が高騰した際に、テスラ自身がこのビジネスに参入するかもしれないとツイートした。
 また、2022年第4四半期決算説明会では、「EV業界は新しいリチウム電池関連の起業家やスタートアップ企業を必要としている」と述べた。
 すでに、テスラはネバダ州でリチウムを含む粘土鉱床の権益を取得している。もはや、自動車メーカー自身がEVに必要なレアメタルを確保する動きになっている。
 この問題は、世界一のEV販売国になろうとしている中国でも深刻化している。中国は現在、オーストリアとチリからのリチウムの供給に依存している。そうして生産した炭酸リチウムの余剰分を輸出している。しかし、その余剰分がいつなくなるかわからない。(つづく)
https://www.dailysunny.com/2023/04/21/yamada230421/

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抽象表現と自然界の構造との関係を探る画家・テリー・ウィンタース。「私自身の想像を超えたものとして絵画は完成する」

2023-04-22 | 先住民族関連
東京アートビート2023年4月21日
ファーガス・マカフリー東京で5月20日まで開催中の個展のために来日したテリー・ウィンタースに、批評家・沢山遼がインタビュー。絵画が生成するシステムとは? 自然との関係性とは?

テリー・ウィンタース 撮影:編集部
アメリカ人画家・テリー・ウィンタースは40年以上にわたって近代的抽象表現と自然界の構造のあいだの関係を追求してきた。初期作品の多くでは植物を彷彿とさせる有機的なフォルムが描かれ、それはやがて生物システムの構図、数学的な図表、音楽的な表記、そしてデータの可視化へと発展していく。
ファーガス・マカフリー東京で5月20日まで開催中の個展「IMAGESPACE」では、6点の新作絵画を展示。それは顕微鏡で見た植物の細胞のようにも、あるいは宗教的な宇宙観を図表化した曼荼羅のようでもある。個展のために来日したウィンタースと美術批評家・沢山遼の対話から、彼の作品を成り立たせているものを探る。
目次
1. 絵画とは、意味や精神的な次元を開くための視覚的システム
2. 特定のスケールから解放されたイメージを生成する
3. バックミンスター・フラー、抽象、そして建築
4. 絵画が一種の信号を受信する受信機になり、同時に発信者になることに興味がある
絵画とは、意味や精神的な次元を開くための視覚的システム
――今回出品している新作で、新たに試みたこと、展開したことを教えてください。
ウィンタース 今回の作品は、近年制作してきた作品の延長と言えると思います。それらは、膨大な量の小さなサイズの白黒のドローイングをベースとして制作されています。
ドローイングは私にとってかたちのボキャブラリーを作り上げることに関わっているのです。そして絵画は、これらのプロトタイプとしてのドローイングに含まれる可能性のある、意味や精神的な次元に到達するための視覚的なシステムとして機能しています。
――ウィンタースさんの絵画はとても明快な形態と色彩の関係を持っているように思います。たとえば、《Point Array》(2022)は、ドット(点)と色の面から成立していますが、ドットはピンクや赤で描かれ、その下の色面は青い色で描かれています。つまり、それぞれの要素が異なる色で描き分けられています。そこには、色彩と形態の関係の、とても明快な構造があると感じます。色彩と形態は絵画の構造にどのように関係していますか?
ウィンタース 色は、私が取り組んできたドローイングの文脈に、未知の要素やより野生的な要素を与えてくれるものです。そして、それぞれの色は、最終的なイメージのかたちを決定づける物理的、化学的な役割を持っていると思います。それぞれの絵画には、時間をかけて積層された構造があります。色はその時間のなかでなんらかの形で変化し、うごめき、私にとっても驚くような結果をもたらすのです。
――ドローイングの描線は、時間のなかで展開するものを示唆しています。しかし、色彩も時間的なプロセスを持つということですね。ドローイングと色彩の関係という側面から、絵画におけるプロセスや時間についてさらにお訊きできますか?
ウィンタース 色彩とは、時間を記録するものであり、絵画の構造に順序を与えるものでもあります。白と黒のみを使うためドローイングは限られた要素と短い時間の中で制作されます。そのため、はっきりとしたプロセス、時間の経過に分解することの難しい展開のなかで発展していくものだと思っています。変化は、ドローイングを描いてくまさにその過程のなかで、限られた範囲内で徐々に起こるわけですから。
それに対して、絵画にはより広い可能性が含まれています。絵画制作の際は、まず膨大な素材と手順の選択肢に向き合わなければなりません。そして色は劇的な変化と方向づけをもたらします。たとえば絵具の乾燥を待つという実務的な過程でも、それぞれの画材で異なる時間が必要です。絵具そのものが具体的なプロセスを要求するということですね。そしてその物理的な要求に取り組み、また戯れるなかで、新しい絵画の可能性が生まれてきます。そのあいだに、自分がどのようにイメージを構築していくか、という観点や絵画との関係性もつねに変化しています。情緒的に豊かで抽象的な環境をそこに見つけるよう努めています。
特定のスケールから解放されたイメージを生成する
――ウィンタースさんの仕事は、絵画が、絵画以外の領域(たとえば自然科学的領域)と連携していることを一貫して示してきました。なぜそのような考えに至ったのでしょう?
ウィンタース それにはいくつかの理由があると思います。一つには、私の作品にドローイングの要素を取り込む方法を探してきたということがあります。大学で描いていた絵画の多くは、とてもミニマルでモノクロームに近いようなものだったのですが、そのなかでドローイングを、ミニマリズムとプロセス・アートの流れの中で正当化する方法を見つけたかったんです。
それから当時の私は、ある種、外から与えられたもの、受け取ることができる主題を探していました。そのとき、私には自然が、デュシャン的な意味での究極的なファウンド・オブジェクトのように見えたのです。私には、博物学の技術的、科学的な図解やダイアグラムが、拡張された自然として見えていました。こうしたイメージは、客観的、科学的なレンズを通したときに、自然がどのように見えるのかより広い知識を私たちに与えてくれます。こうした特異なイメージを、絵画の伝統的な文脈のなかで再解釈することができると感じたんです。セザンヌは、絵画は「自然に対する新しい視覚」を生み出すべきだと言いました。私が関心を持ったのもその考えなのです。
――ウィンタースさんの絵画はミクロな世界を示しているようにも見えますが、逆に、広大なスケールの世界を描いているようにも見えます。このようなスケールの横断性、複数性は意識されていますか?
ウィンタース 私は特定のスケールから解放されたイメージに関心を持ってきました。解釈を特定しない、多義的なイメージを追求しているんです。私たちの世界では、絵画自体は当然実際のサイズを持っているわけですが、そこに描かれたイメージは特定のサイズやスケールを持っていない。その二重性を作り出すことが面白いと感じています。それは、流動的で抽象的な自然のイメージに、現実のサイズを与えるということでもあるのですが。
ウィンタース 絵画は、現実の時間、物理的な次元のなかに成立しています。しかしそれらのイメージは、無限の広がりを持つ次元を示唆しています。その二重性、対立が好きなんです。
――今回の個展で感銘を受けたことに、ウィンタースさんの絵のサイズがあります。現代美術の世界では、やたらと巨大な絵画が多く見られますが、正直言って私はそういうものがあまり好きではありません。ウィンタースさんの絵画のサイズは抑制されていて、身体的なスケール感を持っていると感じました。
ウィンタース やはり絵画は身体との関係において作られるのだと思います。そこで重要なのは、手と腕の身振りによる筆触をいかにヒューマンスケールと関係させるかということです。そしてそのことは、意識と絵画がいかに接点を持つかに関係してくると思います。
バックミンスター・フラー、抽象、そして建築
――先ほどウィンタースさんはスケールから解放されたイメージに関心を持ってきたとおっしゃられました。そこで思い出したのが思想家や建築家など多彩な顔を持つバックミンスター・フラーの理論です。フラーは、ミクロな世界と宇宙のような巨大なスケールを横断しながら、そこに共通する構造を見ることのできた人物だと思います。つまり、彼は実際のサイズというものを気にかけていなかった。彼は、実際のサイズを超越した、スケールから解放された世界を見ていたと思うんです。
ウィンタース フラクタル構造といったものですね。
――部材同士を三角形のかたちで繋いでいくトラス構造などもそうですね。
ウィンタース 私は学生時代からフラーの思想に強く傾倒していました。フラーのレクチャーを聴講したこともありますよ。彼はずっと話し続けるんです。ある意味で彼のレクチャーの時間の長さもスケールから解放されていました(笑)。
フラーは、自然の形態から出発して、それを技術的問題に変換し、地球上の諸問題の解決を探求した偉大な実例だと思います。そこには膨大な思考、エコロジカルな思考がありました。そこに私はとても共感を覚えていましたし、その観点において、私は日本やアジアの美学にもつながりを感じてきました。それは、自然とその在り方に従い、自然のプロセスを実際の身振りのなかに落とし込む、という考えです。芸術を「自然とその機能の仕方を模倣するもの」ととらえている。
――あなたの絵画は抽象であると言われてきました。フラーのことを考えるとき、彼のジオデシック・ドームの構造も幾何学的で抽象的に見えますが、それは抽象ではありませんでした。それは具体的な問題の解決に向けられていたからです。私には、ウィンタースさんの絵画もその問題と関わっているように思われます。
ウィンタース その通りだと思います。私は抽象を、現実の世界の図を作り出すためにこそ用いてきました。絵画を現実世界との類似性を探し出すサーチ・エンジンとして使っている、とも言えますね。あなたはフラーについて言われましたが、私が関心を持っているのは、建築的な要素を持つ近代のすべてのジャンルなんです。音楽であれ、文学であれ、映画であれ、ほかの人文科学であれ、それぞれが抽象という問題に関わっていた。絵画は20世紀の抽象という点において先陣を切る分野で、その軌道はいまも続いています。そして今日、私たちがいかに物理的・肉体的なやり取りから切り離され、「ビット」や「バイト」に制御された抽象的な世界に生きているかを考えると、いま、抽象と具象の問題は新たな段階に差し掛かっているのかもしれません。
――先ほどの質問と重なるのですが、ウィンタースさんの絵画は、抽象であると同時に、具体性があると感じられます。たとえば、そこには、建築的な構造があるように見えます。しかもそれは人間によって作られる建築ではなく、自然界や生物の身体構造などに遍在的に見られる建築的構造です。ウィンタースさんの作品を形容するのに「建築的」という表現は適切でしょうか。
ウィンタース 適切だと思います。しかしここで言う建築とは、想像上のもので、屈折、ベクトル、フレームからなる一種の生きた幾何学です。私はその生命を感じさせ、いろいろなレベルで語りかけてくる、パタン・ランゲージにアプローチしたいと思ってきました。私たちが知るように、すべてのものは、目に見ないものを含めて、異なるパタン化されたシステムから成立しています。フラーもまた、その目に見えない構造と原動力を思考したのだと思います。絵画はその力を、思考や感情のイメージとして描き出すことができるのです。
絵画が一種の信号を受信する受信機になり、同時に発信者になることに興味がある
――スケールを超えるとそれまで見えなかった世界や自然の構造が見えてくるということがあります。先ほどウィンタースさんはパタン化されたシステムについて言及されましたが、ウィンタースさんの今回の個展の絵画にもドットのパタンなどを見ることができます。そうした形態の反復を描く作業は、身体行為と結びつくものでもあると思います。
ウィンタース そうですね。絵画をつくることは、手による身体的な仕事です。制作過程の、素材を動かすという単純な物理的行為が、イメージへの意味づけと解釈に直接寄与する。どのように制作されるかが、その絵画が何を意味するかということの大きな部分を占めているのです。構造、絵具という物質や表面の筆触を通して、見る人は無意識的に絵画を理解したり、読解したりする。それは感覚的なものです。そしてそれが先住民族芸術やフォーク・アートに私が見出し、素晴らしいと思う点です。私は絵画がいかに現代の力と関わり、その結果として物理的な何かを生み出すことができるかに関心を持っているのです。
――あなたの絵画が持つそのような物質的な感覚や身体行為が、観者に心理的な効果を与えることになるのでしょうか。
ウィンタース そうであってほしいですね。絵画は何かしらの効果を与えるため、または何かを表現するためにあります。自己表現という意味での表現ではなく、ベースになっているドローイング、素材、手仕事、私自身の心理的状態。そういったものの集合体を通して生まれる表現です。だから結局私は、絵画が一種の信号を受信する受信機になり、同時に発信者になることに興味があるのでしょう。
ウィンタース ウィレム・デ・クーニングは「抽象的な形態であっても、なんらかの類似性がなければならない」と言っています。その類似性というのは、なんらかのかたちで、特定することが難しいものであっても、世界のなかのある分野とのつながりを示すものなのだと思います。
――その意味で、絵画もまた、ものとしての具体性、機能を持つと言えますか?
ウィンタース 私は絵画が純粋な美学や曖昧さに留まるのではなく、必然的な経路をたどることで完成すると感じられるように、機能的かつ必然的なものになるように努めています。生物学者のコンラッド・H・ウォディントンが提唱した「クレオード(Creode)」という概念があります。これは、遺伝子学者や生物学者が進化や細胞の発達に関して使う語で、生物の身体の各部位がその発生段階から必要な経路(クレオード)に従って進み、最終的な形態に達することです。私もまた、自分の感覚や心理によって変化するシステムやパラメータを設定しようとしています。そしてその中で発明や即興を試みています。自分を超えた法則に従うことで、絵画は私自身の想像を超えた、豊かな完結に近づいていくんです。
――生成的なシステムということですか。
ウィンタース そうです。私は絵画を作り上げる過程に一貫して関わっているにもかかわらず、その結果に驚かされています。過去の歴史的な巨匠たち、たとえばカンディンスキー、ミロ、アーシル・ゴーキー、ポロック、サイ・トゥオンブリもそうだったと思うのですが、かれらは絵画というジャンルを発明し、そして発展させたのだと思います。絵画というのは、様々な現代的な問題に取り組むための方法を模索する、とても単純で原始的な方法だと思うんです。
――これらの画家たちはみな即興性や自発的な展開を重視していましたね。
ウィンタース その通りです。基本的には私も自分が何をやっているのかわかっていないんです(笑)。
――最後に、あなたの絵画における知的なものと視覚的なものとの関係について教えてください。
ウィンタース それは二つのモダニズムの潮流であり実践者、すなわちピカソとデュシャンをどのように和解するかという重要な問題と関わっています。それは、網膜的絵画の問題と、知的で概念的なコンセプチュアル・アートの両方を扱うということもでもありました。この点に関して、ジャスパー・ジョーンズはこの二つの潮流を和解、統一することに成功し、二つが互いを排除しない新たな展開を導いたと思います。私自身も、ジョーンズ以降に出発したアメリカの画家として、同じ領域で仕事をしていると思います。絵画の物理的な要素を想像のヴァーチャルな次元に押し上げようとしているのです。
テリー・ウィンタース 展
ファーガス・マカフリー 東京(エリア:表参道、青山)
2023年3月25日(土)~2023年5月20日(土)
開催中(あと28日)
イベント詳細ページへ
テリー・ウィンタース
1949年、ニューヨーク・ブルックリン生まれ。現在はニューヨークシティおよびコロンビア郡を拠点としている。日本の美術に深い親和を感じてきたウィンタースは、版画シリーズ「プリミティブ・セグメント」(Primitive Segments、1991年)と「トウキョウ・ノーツ」(Tokyo Notes、2005年)の制作のため、2度日本で長期滞在を経験している。ドローイング・センター(ニューヨーク、2018年)、マサチューセッツ大学アマースト校・大学現代美術館(2018年)、ボストン美術館(2017年)、ルイジアナ近代美術館(デンマーク、2014年)、アイルランド現代美術館(2009年)、メトロポリタン美術館(ニューヨーク、2001年)、クンスターレ・バーゼル(2000年)、ホワイトチャペル・ギャラリー(ロンドン、1999年)、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(ロンドン、1998年)、ホイットニー美術館(ニューヨーク、1992年)、ロサンゼルス現代美術館(1991年)、ウォーカー・アート・センター(ミネアポリス、1987年)、テート・ギャラリー(ロンドン、1986年)など重要美術館での個展多数。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/terry-winters-fergus-mccaffrey-interview-202304

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山岳地帯で銃撃戦、知られざるインドネシア・パプア独立紛争 非暴力運動も圧殺され、流血の連鎖

2023-04-22 | 先住民族関連
米元文秋ジャーナリスト4/21(金) 11:55

2001年、非暴力独立運動指導者の殺害に抗議するデモで警官に拘束された参加者(写真:ロイター/アフロ)
 山岳地帯の冷涼な空気を銃声がつんざいた。銃弾を浴びた27歳の兵士は渓谷を15メートル滑落し、死亡した。彼の家には妻と1歳半の娘が残された。
 インドネシア・パプア地方で15日に起きた戦闘。銃撃したのは同地方の分離独立を目指す先住民武装組織「西パプア民族解放軍(TPNPB)」だ。TPNPB側は19日、一連のインドネシア国軍への攻撃で、兵士15人を死亡させたと主張した。TPNPBは独立運動組織「自由パプア機構(OPM)」の軍事部門だ。
 国軍はTPNPBの主張する死者数などを「虚偽情報」として否定しているが、20日、兵士4人の遺体を収容したと発表した。パプア地方からの報道によると、国軍の部隊は2月以来TPNPBの人質になっているニュージーランド人の民間機パイロットの捜索に当たっていて、待ち伏せ攻撃を受けた。ほかに兵士1人が行方不明になっているとの情報もある。国軍はTPNPBせん滅に向けてパプア地方展開部隊を「戦闘態勢」に置いた。衝突のエスカレートも懸念されている。
 人口2億7000万人、経済成長に沸きショッピングモールが林立、いずれ国内総生産(GDP)が日本を抜き去るとも予想される大国インドネシア。その東端のパプア地方では半世紀以上にわたり、知られざる独立紛争が続いている。銃や弓矢で武装したTPNPBによる散発的な襲撃と、国軍・警察による掃討作戦という流血の連鎖が続き、殺傷されたり避難を強いられたりする一般住民も続出している。
 この記事では、同地方がインドネシア領に統合・併合された歴史を振り返り、非暴力の独立運動でさえも踏みにじられてきた経緯に触れる。
豊富な資源、「私たちはメラネシア人」
 パプア地方はニューギニア島のほぼ西半分を占める。面積は日本全土の1.1倍、人口は540万人。金、銅、天然ガスなどの天然資源に富んでいる。
 先住民であるパプア人の多くは、言語系統や外見上の特徴が、現在のインドネシア人の多数派であるオーストロネシア(マレー・ポリネシア)語族の人々とはかなり異なる。近年の遺伝子研究によると、現生人類のうち最も早い時期(数万年前)にニューギニア島やオーストラリアに到達した人々の子孫と推定されている。山間部などでは石器時代と似た暮らしが営まれていた。
 インドネシアの支配に反対するパプア人学生らに取材すると「私たちはメラネシア人だ。インドネシア人とは違う」という言葉が返ってきた。メラネシアとは、ニューギニア島やソロモン諸島などから成る地域の名称。「黒い(人々の)島々」を意味するギリシャ語に由来する。
併合、当事者は蚊帳の外
 異質なアイデンティティーを抱く人々が暮らすパプア地方は、どのような経緯でインドネシアに組み込まれたのか。
 インドネシアはオランダによる植民地支配や日本軍政などの苦難をへて、1945年にスカルノらが独立を宣言。再侵略を図るオランダなどと戦い、49年に「オランダ領東インド」の群島の大半を領土として独立を達成した。しかし、パプア地方はオランダの支配下に残された。
 スカルノ初代大統領らは、インドネシアを、オランダの支配や反植民地闘争を歴史的体験として共有する多様な種族(民族)から成る統一国家として構想した。パプアの統合は宿願だった。
 しかしオランダはパプア人に対し「西パプア」としての分離独立を認める動きを見せた。反発したスカルノは61年に「西イリアン解放闘争」を発動した。インドネシア独立戦争の延長戦の意味合いを持たせた併合作戦だ。司令官にはスハルトを任命した。
 冷戦下、スカルノ政権の東側傾斜を警戒する米国の仲介で、インドネシアとオランダは、パプア地方の管轄権を国連に暫定的に委ねた後にインドネシアへ移すことで手を打った。最終的な帰属については、住民投票による「自由選択行為」で決めることになった。
 しかし管轄権を移譲されたインドネシアはパプア人の政治活動の自由を抑圧、69年に行われた「自由選択行為」は、インドネシア主導で任命・選出された議員1000人ほどの協議によって同国帰属を承認した。
外部住民の移住政策でパプア人が少数派転落も
 当事者でありながら蚊帳の外に置かれた格好のパプア人の間では、60年代半ばから民族自決を掲げる独立運動が活発化した。OPMが結成され、各地で蜂起した。しかしインドネシア国軍の近代兵器を前に多数が殺された。
 インドネシアは、スカルノを追い落として大統領になったスハルトの独裁体制の下、日本などの外資を誘致する開発政策を進めた。米鉱業大手による世界有数の金・銅鉱山の操業などでパプア地方の経済的重要度はますます高まった。
 開発に伴い、パプア人の伝統的な土地所有権の侵害や環境破壊が相次ぎ、抗議運動が起きた。しかしインドネシアはパプア地方を軍事作戦地域(DOM)に指定し、武力で抑え込んだ。知識人らの非暴力的な活動も、長期投獄などで弾圧した。一連の紛争をめぐる犠牲者は10万人とも言われる。
 また、ジャワ島やスラウェシ島などの外部の住民をパプア地方に移住させる国内移民政策「トランスミグラシ」を推進、移住民とパプア人の人口比が逆転する地域が増えてきた。
民主化のはずが「動物のように殺された」
 そのスハルト政権が1998年に民主化運動の中で崩壊、パプア地方独立運動にも転機が訪れた。「独立回復」を目指すパプア人の集会やデモが各地でせきを切ったように広がった。インドネシアに軍事併合されていた東ティモールが99年の住民投票で独立を選択したこともインパクトとなった。「パプアでも独立の是非を問う住民投票を」との声が公然と聞かれるようになった。
 当時私がパプア地方に行ったとき、再々取材していた人物の一人が、先住民社会の長老で「西パプア評議会」の議長だったテイス・エルアイだ。独立を目指すパプア人が「国旗」とする「明けの明星」旗を掲揚する非暴力運動をリードしていた。
 しかし彼は2000年に逮捕され、政府転覆予備罪に問われた。保釈されたが01年に殺害された。国軍に夕食会に誘い出された後、遺体が林で発見された。
 「顔は黒くなり、舌を出していました。なぜ動物のように殺し、投げ捨てたの」と、テイスの妻は私に夫の死にざまを語った。テイスを殺害したとされた現地の特殊部隊の指揮官と部下計5人が除隊処分となったと公表された。
 インドネシアはパプア地方に特別自治を導入し、天然資源歳入の配分などで優遇姿勢を示した。一方で、独立運動については非暴力の活動であっても処罰の対象とする方針に回帰していった。
 分離独立を望む者が非暴力で思いを表現することさえ罪に問われ、ときには殺害の対象とされるとしたら、どんな道が残されるのだろうか。
 一つは、独立を諦め、インドネシア国民として生きる道だ。
 もう一つは、あくまで国際社会の関与を呼び掛け、独立の是非を問う住民投票の実現を追求する道だ。「明けの明星」旗を掲げて非暴力的なデモを行い、逮捕された人々がいた。他方、銃や弓矢を用いて戦い、国際的な関心を集めようと試み続けた武装組織があった。
 ニュージーランド人を人質にしているTPNPBは、「パプア独立に向けたパプアとインドネシアの仲介を国連にもと求める」とのメッセージを人質が述べる動画を公表した。
https://news.yahoo.co.jp/byline/yonemotofumiaki/20230421-00346306

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No.176 責任ある鉱物調達に向けて──鉱物追跡・認証の取組みと人権デューディリジェンス

2023-04-22 | 先住民族関連
アジア経済研究所2023年4月21日発行猪口 絢子
PDF (514KB)
* 鉱物追跡・認証の取組みは、企業の人権デューディリジェンス(DD)に有用な情報を提供する。一方で、取組み自体の透明性が疑われる場合や、取組みの評価対象が人権への負の影響を網羅していない場合があることに注意が必要である。
* 企業は鉱物追跡・認証の取組みのみに依存することなく、国際NGOや現地NGO、地域や人権の専門家などとの協働を通じ、広範な情報収集を併せて行うべきである。
* 政府は、企業とNGOや専門家との関係構築を促し、企業の支援を行うべきである。
企業の社会的責任を問う世界の潮流のなかで、採掘産業の取組みは比較的長い歴史を持つ。同産業が関係する人権への負の影響として、鉱山開発に伴う土地収奪、落盤やガス漏れなどの事故、粉塵や汚水による環境汚染や健康被害、児童労働、強制労働などがこれまで問題視されてきた。紛争影響下における操業では、採掘される資源が紛争や人権侵害の資金源として使われる(紛争鉱物)という、特有の問題も発生する。
1990年代以降、政府、国際機関、NGOにより、鉱物資源が紛争下で不当に利用されることを防ぐべく、企業にDDを求めるルール作りが行われてきた。業界は政府と連携しつつ、鉱物の加工流通過程の追跡(chain of custody)、鉱物や鉱山、精錬所の認証など、取組みの確立を急いだ(以下、「鉱物追跡・認証の取組み」と総称)。この動きは2011年に『ビジネスと人権に関する国連指導原則』が国連人権理事会で承認されるのに先んじて進んできた。現在では、紛争と鉱物資源の結びつきを超えたより広範な人権への負の影響の是正を目指す、責任ある鉱物調達の実現に向けた取組みが広がっており、人権DDの情報源として多くの企業に利用されている。
本稿は2022年に開催された2つの国際フォーラムを振り返り、これら鉱物追跡・認証の取組みが抱える根源的課題について考察する。
鉱物追跡・認証の取組みの透明性に疑いの目
2010年に『OECD紛争地域および高リスク地域からの鉱物の責任あるサプライチェーンのためのDDガイダンス』を発表して以降、OECDは定期的に、責任ある鉱物サプライチェーンのためのフォーラムを開催している。2022年5月の第15回フォーラムでは、ガイダンス発表から約10年間の取組みの成果が議論された。
OECDガイダンスは企業に対し、業界の取組みの活用を選択肢のひとつとして提示している。その代表例が、国際錫サプライチェーンイニシアティブ(International Tin Supply Chain Initiative: ITSCI)である。錫の業界団体の主導で作られた、鉱物追跡を通じて企業のDDを支援する枠組みで、紛争鉱物が問題となったコンゴ民主共和国と周辺国で利用されている。別団体による精錬所の認証の取組みなどと連携し、鉱物サプライチェーン全体からの紛争鉱物や児童労働の排除を目指してきた。
フォーラムの直前に、国際NGOグローバル・ウィットネス(GW)が報告書『The ITSCI laundromat』を発表した。同報告書は、ITSCI導入後も武装勢力の関与が排除できていないサプライチェーンの存在や、ITSCIと業界関係者や政府との癒着疑惑などを理由に、ITSCIが紛争鉱物のロンダリングに使われている可能性を指摘した。仮にサプライチェーンの川上の鉱物追跡を行うITSCIの信用が崩れると、ITSCIと連携した川下の精錬所認証の信用までもが危うい。
フォーラムでは、ITSCIとGWの両関係者が登壇するセッションが設けられた。ITSCIをはじめとした鉱物追跡・認証の取組みに対し、悲観的な意見と評価する意見との両方が聞かれた。人権DDを実施するうえで、業界主導の取組みに依存する企業側の責任を問う声もあった。
ITSCIはフォーラム後に、GWの主張は不正確だと反論する報告書を発表した。ITSCIによると、当該イニシアティブの本来の目的は、GWが期待するように武装勢力の関与というリスクが一切存在しないと保証することではなく、人権DDに必要なリスク情報を企業に提供することである。そして、その情報を基に人権DDを行う責任は企業にあると強調している。
ロシアのダイヤに対する認証制度の無力
この他、今回のOECDフォーラムでタイムリーに議論されたのは、ウクライナに武力侵攻したロシア政府が関与するダイヤの問題である。国際取引から紛争ダイヤの排除を図る、キンバリープロセス認証制度(Kimberley Process Certification Scheme: KPCS)が、ロシアのダイヤに対して何も行動を起こせていないことが問題視されたのである。
KPCSは、紛争ダイヤを反政府武装勢力などが関与するダイヤと定義している。政府が関与するダイヤについては、たとえ政府が深刻な人権侵害を繰り返していたとしてもKPCS の取組み対象から外れる。これまでもKPCSは、紛争ダイヤの定義が狭いことについて市民社会から批判されてきた。ロシアの武力侵攻をきっかけに、紛争ダイヤの定義の妥当性が改めて議論の的となったのである。
気候変動対策で高まる鉱物需要と負の影響
一方、2022年11月の第11回ビジネスと人権に関する国連フォーラムでは、従来から採掘産業で議論されてきた課題が改めて取り上げられた。採掘プロジェクトを始めるにあたって地域や先住民のコミュニティからFree and Prior Informed Consent(FPIC)が十分に得られていないことや、救済へのアクセスの不足などである。
また同フォーラムにおける重要な点として、現状でも採掘産業が十分に対処できているとは言えない人権への負の影響が、気候変動対策に伴う鉱物需要増によって、さらに増大する可能性があると議論された。2021年に国連総会と人権理事会で「清潔で健康的かつ持続可能な環境への権利」が認められたばかりであるが、その実現に向けた取組みが、かえって採掘産業に関わる人々の人権を侵害してしまうという指摘だ。
例えば、電気自動車にも使われるリチウムイオン電池の生産には、リチウム以外にコバルト、ニッケル、マンガンなどの鉱物が必要となる。特にコバルトは、主要産出国であるコンゴ民主共和国での紛争や児童労働との関係が問題視されている。フォーラムではラテンアメリカ地域を例に、企業と地域コミュニティとの間で紛争が増加していることが報告された。
鉱物追跡・認証の取組みとの向き合い方
鉱物需要が増大するなかで、企業の責任はさらに重要視され、人権DDに対する社会からの期待が高まっていくと見られる。企業はますます、鉱物追跡・認証といった取組みを活用することになるだろう。
しかしこうした取組みがもたらす情報は、企業が集めるべき情報の一部に過ぎない。第一に、鉱物追跡・認証には、汚職や不正、一方の利害関係者の意向のみを反映した対象鉱物の定義の矮小化といったリスクが常に付きまとい、取組み自体の透明性が疑われる場合がある。第二に、鉱物追跡・認証の評価対象は各取組みによって様々で、人権への負の影響が必ずしも網羅的に評価されていない場合がある。例えば反政府武装勢力の関与や児童労働の有無は評価しても、政府の関与やFPIC、救済へのアクセスに関しては評価対象外といったことだ。そのため、鉱物追跡・認証の取組みのみに過度に依存すると、人権への負の影響を見過ごす可能性が高まる。企業は広く情報収集を行い、利用する取組みの透明性を注視しつつ、各取組みの枠に収まらない負の影響について、別途対応する必要がある。
とはいえ、企業が人権DDに必要な情報を自力で収集することは、容易ではない。特に紛争影響下の地域においては、より困難を伴う。ステークホルダー・エンゲージメントが重要であることは言うまでもないが、国際NGOや現地NGO、地域や人権の専門家との協働が、企業の助けになるだろう。政府は、企業とNGOや専門家との連携を促し、情報収集の支援を行うことで、企業の人権DDを促進できるだろう。
(いのくち あやこ/法・制度研究グループ)
https://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Reports/AjikenPolicyBrief/176.html

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全長870メートル!世界最大「ビーバーのダム」と「北米のパリ」ケベック誕生の秘密 ケベック旧市街の歴史地区【世界遺産/カナダ】

2023-04-22 | 先住民族関連
TBS NEWS DIG2023年4月21日(金)19時30分

世界遺産「ウッドバッファロー国立公園」は、九州よりも広い面積を持つカナダ最大の国立公園で、赤・白・青・緑とカラフルな平原が美しい自然遺産です。ここに世界最大のビーバーが作ったダムがあります。
ビーバーは丈夫な歯で木を削り倒し、それを水中で組み上げて巣やダムを作るのですが、ウッドバッファロー国立公園で見つかったビーバーのダムは、実に全長870メートル。あまりにも奥地のため陸路で行くのが難しく、番組ではヘリコプターで空撮したところ、空から見て初めて全体像が分かるスケールの大きさでした。
このダムは一匹のビーバーによるものではなく、何世代もかけて複数のビーバーが作ったものだと考えられています。
驚異の土木技術を持つビーバーですが、カナダでは公式のシンボル=国獣に指定されていて、この国の歴史と深く関わっています。
世界遺産「ケベック旧市街の歴史地区」
カナダ東部にケベックという古都があり、「ケベック旧市街の歴史地区」として世界遺産になっています。17世紀の植民地時代、北米にやってきたフランス人が初めて築いた本格的な街で、その目的はビーバーの毛皮を手に入れるためでした
当時のヨーロッパ上流階級では、ビーバーの毛でつくったフェルトの帽子「ビーバーファーフェエルトハット」が大流行していました。極寒かつ水中で暮らすビーバーの毛は細く軽くなめらかで、フェルトにすると光沢と張りがあるうえに摩擦にも強い・・・という性質で帽子にぴったりの高級素材だったのです。
あのナポレオンがかぶっていた二角帽子もビーバーのフェルト製で、軍人や王侯貴族に大きな需要がありました。そのためビーバーはヨーロッパにも生息していたのですが、乱獲されて激減。さらなるビーバーの毛皮を求めて、イギリスやフランスから多くのヨーロッパ人が北米にやってきたのです。そしてビーバーの毛皮のヨーロッパへの輸出は、莫大な富を生み出しました。
断崖の上にアッパータウン 川岸にロウワータウン
ケベックはそのビーバーが生み出す富によって繁栄し、「北米のパリ」と呼ばれるようになった街です。街は、五大湖と大西洋を結ぶ大河・セントローレンス川に面した断崖に築かれ、断崖の上にはアッパータウン、下にはロウワータウンと名付けられた二つの地区があります。
川岸にあるロウワータウンには港があり、ここから船は川伝いに大西洋に出て、本国フランスへと大量のビーバーの毛皮を運んだのです。ロウワータウンには貿易商や職人が暮らし、北米最古の繁華街や石造りの教会も出来ました。
ケベックの公用語はフランス語なので、今もにぎわう繁華街を撮影すると、どの店の看板もみんなフランス語。カフェが連なる旧市街の街並みは、確かにパリのモンマルトル辺りを想わせます。
ロウワータウンとアッパータウンの高低差は最大で100メートル。階段やケーブルカーで行き来できます。
グレース・ケリーやエリザベス女王も宿泊したホテル
アッパータウンには行政機関や軍が置かれました。ケベックで一番目立つ大きな建造物は、アッパータウンのシャトーフロントナックという名前通りの城のようなホテルなのですが、かつてのフランス総督の公邸跡に建てられたもので、フロントナックというのも総督の名前からとっています。モナコ妃となったグレース・ケリーやエリザベス女王も泊まったという由緒あるホテルです。
このケベックの心臓部ともいうべきアッパータウンは、周囲をぐるりと分厚い城壁に囲まれています。当時のフランスは、北米の植民地支配をめぐってイギリスと争っていたため、この城壁はイギリス軍に備えて築かれたものでした。
しかし1759年、攻撃してきたイギリス軍に破れ、ケベックは陥落。この戦いののち、フランスは北米から撤退し、カナダはイギリスの支配する地となったのです。
ケベックの冬は厳しく、マイナス20度にもなる寒さでセントローレンス川は結氷します。
雪景色となったアッパータウンで名物なのが、ソリ遊び。シャトーフロントナック近くの高台をスタートにして、全長約250メートルもある臨時のコースが作られます。最高時速70キロにもなるソリ遊びは大人気。
ここで使われているのが「トボガン」という先端が半円に曲がっているソリで、元々はカナダの先住民が使っていたものです。それを入植したフランス人が運搬の手段として取り入れ、さらに冬の娯楽としたのです。
こうした先住民とフランス人との関係もビーバーから始まったものでした。捕獲方法をよく知る先住民が、捕まえたビーバーの毛皮をフランス人の所に持ち込み、銃などのヨーロッパの製品と交換する・・・そのために出来た交易所のひとつが、ケベックだったのです。
乱獲で激減 ビーバーのいま
しかし年間何十万頭という乱獲のため、北米のビーバーも激減。絶滅寸前にまで追い詰められます。19世紀になって、ビーバーの代わりにシルクをつかったシルクハットが主流となり、帽子の材料としての需要は減少します。さらに20世紀に入ると自然保護運動が盛んになり、保護する法律も出来たためビーバーは絶滅を免れました。現在では、北米に1000万頭以上生息すると言われます。
今やカナダにおける自然保護のシンボルとなり、コインにもデザインされているビーバー。もしもビーバーがカナダにいなかったら、「北米のパリ」と呼ばれる世界遺産・ケベック旧市街も誕生せず、カナダの歴史も現在とは全く違ったものになっていたかもしれないのです。
執筆者:TBSテレビ「世界遺産」プロデューサー 堤 慶太
https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0421/tbs_230421_2807237291.html

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