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第3部・エンチウの苦悩/下 大学の人権感覚 少数民族の歴史直視を /京都

2023-04-03 | アイヌ民族関連
毎日新聞 2023/4/2 地方版 有料記事 1937文字

日本最北端の宗谷岬から43キロ先に見える樺太(サハリン)=北海道稚内市で2022年10月24日午前8時58分、千葉紀和撮影
 石狩平野が広がる北海道江別市の対雁(ついしかり)地区。小高い丘にある市営墓地の片隅に、樺太アイヌ(エンチウ)の苦難の歴史を物語る、古びた石碑が建つ。その前で毎年6月、子孫らが追悼の法要と独自の儀式を営む。
 「この地に眠るのは、国策で土地や家、生活、そして自由を奪われ、移住させられた方々。慣れない土地で集団生活を強いられ、疫病が広まった。悲惨な歴史を多くの人に知ってほしい」。近くにある浄土真宗本願寺派・真願寺の石堂了正住職(60)は、法要を続ける思いをそう語る。
 樺太は多民族の雑居地だったが、1875(明治8)年の樺太千島交換条約で全島がロシア領に。明治政府によって、108戸841人のエンチウが一度は道北の宗谷に、翌年には内陸の対雁に移住し、なりわいの漁業を捨て、農耕への従事を求められた。集住も強いられ、そこにコレラと天然痘が相次いで襲った。
この記事は有料記事です。 残り1561文字(全文1937文字)
https://mainichi.jp/articles/20230402/ddl/k26/040/160000c

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〈坂本龍一さん、71歳で死去〉日本人初のアカデミー作曲賞を受賞することになる音楽家が素足にゴムサンダル、むさくるしい長髪で…坂本龍一が「アブ」と呼ばれていた飛躍前夜

2023-04-03 | アイヌ民族関連
文春オンライン2023年4月2日(日)23時0分 

〈坂本龍一さん、71歳で死去〉大学3年生で初めての結婚、美輪明宏の伴奏をするバイトで生活費を稼いだ日々…若き音楽家・坂本龍一を驚かせたのは“はっぴいえんどのベーシスト”だった から続く
 2023年4月2日、作曲家として活躍した坂本龍一さんが亡くなったことが分かった。享年71。“教授”と呼ばれ親しまれた坂本さんの、若き日々を辿った記事を再公開する(初出・2023年2月19日。年齢・肩書等は当時のまま)。
◆◆◆ 
 45年にわたり日本の音楽シーンをリードし続けた坂本龍一。71歳を迎え、記念発売される『坂本龍一 音楽の歴史』より彼の足跡を一部抜粋。1970年代前半、山下達郎、大貫妙子らと出会い、音楽家として飛躍を始めた日々を振り返る(全2回の2回目/ 前編を読む )。
坂本龍一が手がけたNHK-FM最後のラジオ・ドラマ
 NHK‐FMドラマで現在確認されている坂本龍一最後の作品は1976年9月3日放送の「ハムレット」。風間杜夫が主演するこのシェイクスピア劇は現代風ロック・オペラのようにアレンジされたラジオドラマで、坂本龍一は風間杜夫ら登場人物たちが歌うファンク・ロック曲、ロマンティックなピアノ歌曲、ハード・ロック、ソウル・ミュージック風のインストゥルメンタル曲に加え、アフロ・ビートをフィーチュアした楽曲、フュージョン前夜のような作品も提供。演奏はバイバイ・セッション・バンド。ここで1970年代後半の坂本龍一の音楽的な基礎と幅広さが確立されていたことがわかる。
 これら1975~76年のラジオ・ドラマの仕事は坂本龍一のキャリアにとっては重要なものであったが、その後の音楽家としてのブレイクの前夜で記録も残っていないということで、長く忘却されてきた。近年、その録音が坂本龍一の私物の中から発見されたことでやっと陽の目を見ることになった。
 フォーク以外のミュージシャンとの交流が拡がってきたのもこの頃だった。実家近くにオープンし、客として常連になっていた千歳烏山の『ロフト』の創設者である平野悠はレコード喫茶のような場所であった『ロフト』をライブハウスにしたいという希望を持ち、1973年に『西荻窪ロフト』をオープンさせた。坂本龍一はここに客としてだけではなく、ミュージシャンとしても訪れた。
 1973年7月に行なわれた20日間続いた連続コンサート『春二番コンサート』に出演。桑名正博、南佳孝らが共演だった。
 そして翌年、平野悠は『西荻窪ロフト』よりもさらにライブハウスとしての環境を整えた『荻窪ロフト』を開く。オープニング・セレモニーは開店日の1974年11月11日から10日間。ここでは友部正人ら馴染みのフォーク・ミュージシャンのほか山下洋輔トリオのようなジャズ、あるいは細野晴臣らのティン・パン・アレーのようなロック系のミュージシャンも出演。
 11月22日から24日の3日間行なわれたティン・パン・アレーが中心となったセッションに出演したのは次のような顔ぶれだ。
細野晴臣、松任谷正隆…煌めき始めた音楽家たち
 ティン・パン・アレーとして細野晴臣、林立夫、松任谷正隆。ゲストは伊藤銀次、矢野誠、小原礼、はちみつぱい、上原裕、そしてシュガー・ベイブ。
 坂本龍一の1970年代後半の活動に欠かせなくなる面々がこの『荻窪ロフト』のオープニング・セレモニーには揃っていた。
 坂本龍一はこの店で多くのミュージシャンと知り合い、共演の場も多くなった。ここ以外でのライヴやレコーディングに呼ばれることも多くなっていく。
「シュガー・ベイブ、山下達郎と最初に会ったのは『荻窪ロフト』なんです。あそこができたばっかりのときで、オープニングに荒井由実や夕焼け楽団などいろんな人が出て知り合ったのですが、当時シュガー・ベイブは山下洋輔さんのジャムライスっていう事務所に所属していた。ジャムにライスって赤塚不二夫先生的なセンスの名前。亡くなった友人の生田朗が山下洋輔トリオの大ファンで、彼を通してシュガー・ベイブを知ったんじゃなかったかな。ぼくと生田がどうやって知り合ったかというのはもうよく憶えていないんですけど」(※※)
 そう、この『荻窪ロフト』では、後に友人のみならずマネージャーとして坂本龍一のキャリアに大きくかかわる生田朗とも知り合っていた。
 当時の坂本龍一の外見はむさくるしい長髪に、無精髭。煮染めたようなジーンズに冬でも素足にゴムサンダル。
『西荻窪ロフト』のオープンの頃に連載が始まった水島新司の野球漫画『あぶさん』の主人公も(初期の頃は)同じくむさくるしいキャラクターで、いつのまにか坂本龍一のあだ名はアブになっていた。
 この1975年、シンガーとして、あるいはジャズ、ポップスのドラマーとして活躍していたつのだ☆ひろとも出会う。つのだ☆ひろは坂本龍一を気に入り、さまざまなライヴ、レコーディングの場に呼んだほか、レコード会社などにも紹介してくれるようになっていく。
 その初期のコラボレーションが浅川マキのアルバム『灯ともし頃』への参加だった。
『灯ともし頃』は当時、浅川マキがよくライヴを行なっていた西荻窪のライブハウス『アケタの店』でライヴ形式のレコーディングを行なったアルバム。つのだ☆ひろ、吉田建、向井滋春、近藤等則ら坂本龍一とこの後も共演するアーティストに混じり、オルガンを弾くことになった。
1975年の終わりごろの録音カセットに残された“音源”
 この浅川マキのプロデューサーが寺本幸司。演奏の確かさを認めた寺本幸司は、浅川マキと同時に手掛けていたりりィのバック・バンドであるバイバイ・セッション・バンドにも坂本龍一を招聘していた。
「りりィの場合も、友部さんとのライヴを彼女のプロデューサーが聴いていて、それでバックをやらないかって声をかけてきた」(※※)
 バイバイ・セッション・バンドは、寺本幸司が1973年にりりィのバックをさせるためにスタジオ・ミュージシャンらで組ませたバンドだ。一度切りのセッションのつもりで、メンバーがどんどん入れ替わっていくというコンセプトで、実際にメンバーは一定期間在籍するといつの間にか他のミュージシャンに入れ替わっているという歴史を辿っていく。
 最初期のメンバーは木田高介(アレンジとキーボード)、土屋昌巳(ギター)、吉田建(ベース)、斎藤ノブ(パーカッション)、西哲也(ドラム)で、やがてアレンジャー兼キーボーディストとして国吉良一が参加。しかし国吉良一も自身の活動のために脱退となったときに坂本龍一に白羽の矢が立ったのだ。
 坂本龍一がバイバイ・セッション・バンドに加入したのは先述のラジオドラマの伴奏から1975年の終わり頃のようだが、この時期はまだ土屋昌巳が在籍していたようだ。やはりこの後に長い付き合いになる土屋昌巳と坂本龍一は意気投合し、結果的には出ることがなかった土屋昌巳のソロ・デビュー・アルバムのデモ作りのためのレコーディングに、吉田建、斎藤ノブらとともに参加している。このときの録音のカセットは坂本龍一の私物として現在まで保存されている。
「マー坊(土屋昌巳)とは年も近いしすぐ仲良くなった。当時聴いている音楽も近かったんです。ニューウェイヴ前夜の音楽ですが、彼もその後ジャパンと一緒にやったりと似た方向に行きました。もともとそういう素地があったんですね」(※※)
 1976年に発売された俳優の下條アトムのデビュー・アルバム『この坂の途中で』にも、りりィや土屋昌巳らバイバイ・セッション・バンドのメンバーとともに参加している。
 バイバイ・セッション・バンドはりりィの1976年のアルバム『Auroila』のレコーディングが始まるときには、メンバーは坂本龍一、吉田建のほか、伊藤銀次(ギター)、上原裕(ドラム)という編成に変化していた。
アルバムやライヴのアレンジも手掛けるようになっていく
 坂本龍一はこの頃にはバイバイ・セッション・バンドで演奏だけではなく、アルバムやライヴのアレンジも手がけるようになっている。
「アルバムのアレンジをまかされる前にツアー・バンドに入ったんだけど、バンドに入るというのはそのときが初めて。2回目がYMOで人生2回だけ(笑)。エキストラ的な入り方で、がっちり加入しましたっていう感じではなかったけれど、入ってやりだすとぼくの性分というか、ここのコードはこうしようよとか、ここのリズムはこう変えようとか、いろいろ言いだしちゃう。なので自然にバンドの中でアレンジャー的な存在になっていきました」(※※)
 アルバム『Auroila』の中で坂本龍一はアレンジャーとしての開花を明らかにする作品をいくつか残しているが、本人としてはなかでも収録曲のひとつ「川原の飛行場」はこの後何十年も忘れ得ないアレンジとなった。
「この曲は弦も含めた全体のアレンジはミニマリスティックなイントロから始まってリズムがずれていく、スティーヴ・ライヒ的なものも取り入れつつ、でも曲としてはポップスという曲全体の世界がうまくできた。初めて自分なり、坂本龍一印のアレンジができた記念すべき作品かなあと昔からずっと思っています」(※※)
 また、ライヴの場でも音楽監督を務めている。1976年のコンサートで、坂本龍一はコンサートのオープニングにシンセサイザーが奏でる鐘の音が欲しいと思い、日本ではまだまだ使う人が限られていたシンセサイザーのオペレーターの第一人者に相談しに行った。
YMOで大きな協力を仰ぐことになるあの男と出会った
 後にYMOで大きな協力を仰ぐことになる松武秀樹との初めての出会いでもあった。
「りりィは当時百万枚を売っていた人気者だったから、なおさらポップスの最上級のプレイヤーたちと知り合えた。ロック・フェスのような場に出たときも、対バンが上田正樹とサウス・トゥ・サウスでとてもカッコよかったり。りりィのバンドがわりとティン・パン・アレイ系に近かったせいもあっていつしか林立夫さんとかとも知り合っていた。その一方、りりィは内田裕也さんたちのピンク・ドラゴン系にも近かった。中間に位置していたので交流がさらに拡がったんですね。この人脈から後の『六本木ピットイン』時代につながっていきます」(※※)
 それはもう少し後の話となる。
 この年、六文銭の及川恒平がアイヌの民話をテーマにしたレコード『海や山の神様たち‐ここでも今でもない話‐』をビクター音楽産業の学芸部から出すことになったとき、サポートとして声がかかった。東京藝術大学で私淑していた民族音楽の権威、小泉文夫の授業に出るなどの経験も買われたのだろう。
シュガー・ベイブとの交流から生まれた大滝詠一との出会い
 ただし、この時点ではアイヌ音楽の資料は市中にほとんど存在せず、坂本龍一はアイヌ音楽の再現ではなく、このときの自分の手札であるクラシックやソウル・ミュージックなどさまざまな音楽を駆使してアルバムの作編曲を行なった。ここでコーラスに起用したのがシュガー・ベイブの山下達郎と大貫妙子だ。前述のとおりシュガー・ベイブとは『荻窪ロフト』で知り合いになっており、彼らのライヴに客演する仲になっていた。
 このシュガー・ベイブとの交流は、やがて大滝詠一との出会いにつながっていくことにもなった。また、この『海や山の神様たち‐ここでも今でもない話‐』での仕事が評価され、以降、坂本龍一はビクター音楽産業の学芸部発のレコード作りに関わることになっていった。
 こうした、フォーク、ポップスの世界で坂本龍一の存在感が飛躍的に高まっていった1975年だが、本人としてはこうした世界での仕事はただのアルバイトという意識だった。以前の工事現場でのバイトとはいわないまでも、シャンソン喫茶でのピアノ伴奏のバイトと大差がないという意識。
「この頃は便利屋さんですね、本職だという意識がないから便利屋に徹していた。スタジオ・ミュージシャンとしての自我が出てくるのはもう少し先になってから」(※※)
 ロック、フォーク、ポップスの世界で仕事とバイトを行ないつつ、その裏で坂本龍一は自分なりの天職ともいえる活動にひそかに精を出してもいた。
※2016年の『Year Book 1971-1979』(commmons)ブックレットのためのインタビュー取材(※※)から抜粋。
(吉村 栄一/Webオリジナル(外部転載))
https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0402/bso_230402_2938606275.html

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気候変動の爪痕 アラスカ写真家が古里・愛媛で語る危機感

2023-04-03 | 先住民族関連
毎日新聞 2023/4/2 11:30(最終更新 4/2 11:30) 1923文字

松本紀生さんがとらえたオーロラの写真。赤色は非常に珍しいという=松山市で2023年3月29日午後7時52分、太田裕之撮影
 米国アラスカ州で30年近く撮影を続ける松山市の写真家、松本紀生(のりお)さん(51)が同市で2回にわたり「フォトライブ」を開催した。子供向けに城山公園の広場で入場無料にした3月25日夜は約3000人、大人向けで有料だった同29日の市民会館にも約400人が来場。松本さんは野生の動植物やオーロラの姿を鮮やかに伝える写真・映像とユーモアたっぷりの語りで魅了しつつ、「こんなに美しい自然が音を立てて崩れようとしている」と地球温暖化の影響を示し、守るための行動を呼び掛けた。
圧巻…クジラの集団にオーロラ
 1994年にアラスカ大学に留学して以来、夏は無人島、冬は北極圏で長期間の単身キャンプ生活を送りながら撮影してきた。今回は3月15日に写真絵本「つながるいのち うみ・もり・ひとの物語」を出版した記念のイベントとして開催した。
 産卵のため川を埋め尽くす無数のサケ、それを食べて冬眠に備える脂肪分を蓄えるヒグマ。川の中から押し合いで飛び出したサケが勢い余って、岸辺で待ち受けるクマの口元に次々と滑り込む様子は「回転ずしのよう」(松本さん)だ。カリブーの群れは見渡す限りの大地に数万頭が移動する。オオカミは松本さんが遠ぼえのまねをすると、近づいてきて遠ぼえを返してくれる。
 海に出ると、シャチの群れがゴムボートすれすれに泳ぐ。体重が40トンにもなるザトウクジラの集団は「幽霊のような鳴き声」を響かせながら、泡を網のように出してニシンを囲い込み、大きな口を開けて海面からロケットのように飛び出して丸のみする。とらえた魚が重過ぎて海に落ちたハクトウワシがバタフライのように海面を泳ぐ珍しい姿も。いずれも近い位置から撮影し、迫力満点だ。そうした動物たちが森と川と海に育まれ、生態系として命がつながっていると松本さんは解説した。
 毎回数週間から2カ月に及ぶキャンプ生活の様子も紹介した。食事は自炊だが、3食とも同じパスタや豆ご飯の毎日。変えるのはふりかけだけだ。冬は氷河上に「かまくら」を築く。夜は氷点下50度にまで下がる極寒の中、まつ毛も鼻毛も凍る。雪で埋もれないよう毎日かまくらの周囲を雪かき。そんな自らの姿を冗談も交えて紹介し、子供たちを笑わせた。さまざまな色と形を見せるオーロラの幻想的な写真・映像は圧巻で来場者を魅了した。
温暖化、追われる動物や先住民族
 一方で松本さんは温暖化の影響の大きさを訴えた。太陽の光と熱を反射し、逃してくれていた雪や氷が温暖化で解けており、1968~2018年の50年間で▽北極圏の気温は3・2度も上昇▽世界平均では1度の気温上昇がアラスカでは1・7度、特に冬は顕著で3・5度▽最高気温は21年夏に32度、冬に19度を記録――などのデータを紹介。「東京が雪の日にアラスカで雨になることもある」と話した。
 北極圏でも永久凍土が解け、雪解けも早くなって、乾いた大地は落雷で山火事が拡大。カリブーが食べる植物が消え、再生には50年から100年かかるとされる。22年6月のある日にはアラスカ全土で200カ所以上の山火事が同時に発生した。
 南東部でよく見られたクジラも減り、15年には海洋熱波の影響で姿を消した。以前は大人のメス3頭に子が1頭生まれる計算だったが、15年以降は25頭に1頭と激減。氷河も右肩下がりで減少し、その上で生きるアザラシやシロクマ、セイウチを脅かしている。アラスカのシロクマは01年からの10年間で40%も減り、セイウチは陸上に追われて密集することも。森も枯れた木が目立つ。食害する虫が以前とは違って冬を越せるようになったからだ。15年に3万エーカー(121平方キロ)だったトウヒの被害は右肩上がりで増え、18年には東京ドーム5万個分の60万エーカー(2427平方キロ)が消えたという。
 自然と調和して暮らしてきた先住民族にも影響は及ぶ。山火事の煙は町村にも入り込むようになり、ある村では永久凍土の融解で家屋も電柱も大きく傾いている。沿岸も川の水に削られ、多くの家屋が解体に追い込まれた。村自体が川に飲み込まれようとしている。
 「自分を含めて日本で暮らす大人が温暖化を食い止めようと努力しなかったせいで、自然を大切にしてきた先住民族がその最前線に立たされ、生まれ育った大切な村を追われようとしている」。松本さんはそう語り、「私たちにできることは小さなことでも、その動きが広がることで、影響力のある大企業が経営方針を変えたり、政治家が政策を打ち出したりして行動しないといけないように世論が変わっていく。とにかく現状を知って関心を持ち、できることをやらないことには本当に手遅れになる」と呼び掛けた。【太田裕之】
https://mainichi.jp/articles/20230401/k00/00m/040/038000c

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命をかけた役目はあるか――TVアニメ「ゴールデンカムイ」第4期が本日4月3日より放送開始

2023-04-03 | アイヌ民族関連
インプレスウォッチ4/3(月) 0:00配信

写真:Impress Watch
 NBCユニバーサルエンターテイメントは、TVアニメ「ゴールデンカムイ」第4期を本日4月3日23時より放送する。
 「ゴールデンカムイ」第4期は2022年10月より放送開始されていたが第43話以降の放送・配信が延期されていた。改めて放送開始となる第4期は第37話より放送が開始。杉本とアシリパの新たな旅が描かれる。
■ 第4期 放送情報
・TOKYO MX23:00~
・読売テレビ26:29~
・北海道放送25:26~
・BS1123:00~
・チャンネルNECO4月7日より毎週金曜23:30~
・とちぎテレビ4月11日より毎週火曜23:00~
■ 第4期 配信情報
月額見放題サービス・Prime Video
個別課金サービス
・Prime Video
・バンダイチャンネル
・dアニメストア
・DMM動画
・FOD
・GYAO!ストア
・HAPPY!動画
・ひかりTV
・J:COMオンデマンド
・milplus
・music.jp
・ニコニコチャンネル
・Rakuten TV
・TELASA
・U-NEXT
・ビデオマーケット
■ スタッフ
・原作:野田サトル(集英社ヤングジャンプ コミックス刊)
・チーフディレクター:すがはらしずたか
・シリーズ構成:高木登
・キャラクターデザイン:山川拓己
・美術監督:古賀徹/藤本智
・色彩設計:福田由布子
・撮影監督:織田頼信
・編集:池田康隆
・音響監督:明田川仁
・音響制作:マジックカプセル
・アイヌ語監修:中川裕
・ロシア語監修:Eugenio Uzhinin
・音楽:末廣健一郎
・OPテーマ:ALI「NEVER SAY GOODBYE feat. Mummy-D」
・EDテーマ:THE SPELLBOUND「すべてがそこにありますように。」
・アニメーション制作:ブレインズ・ベース
・製作ゴールデンカムイ製作委員会
■ キャスト
・杉元佐一:小林親弘
・アシリパ:白石晴香
・白石由竹:伊藤健太郎
・鶴見中尉:大塚芳忠
・土方歳三:中田譲治
・尾形百之助:津田健次郎
・谷垣源次郎:細谷佳正
・牛山辰馬:乃村健次
・永倉新八:菅生隆之
・二階堂浩平:杉田智和
・宇佐美上等兵:松岡禎丞
・月島軍曹:竹本英史
・鯉登少尉:小西克幸
©野田サトル/集英社・ゴールデンカムイ製作委員会
https://news.yahoo.co.jp/articles/aaa7f6ddd49b74a5ab13c6cc7ef8bf13cf600692

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【映画リメンバーミーの世界がそこに】メキシコで死者の日を体験してみよう!

2023-04-03 | 先住民族関連
YOKKA2023/04/02 15:00

Photo by shutterstock(YOKKA)
ピクサー映画「リメンバーミー」で日本でも一躍に有名になったメキシコの「死者の日」。
日本のお盆のようなものですが、 死を恐怖とするのではなく逆に死者とともに笑うというモチーフ がラテンアメリカらしいですね。 
メキシコの重要な風習、「死者の日」についてご紹介します。
死者の日(Día de Muertos)とは?
死者の日は、日本のお盆と似た位置づけの死者の日。
死者を偲び、感謝し、そして語り合い家族との絆を深める期間 で、メキシコではお墓を派手に装飾したり、玄関や街に祭壇を飾ったりして、 帰ってきた故人を明るく迎えます 。
11月1日、2日に行われるのが一般的ですが、場所によっては10月31日の晩も前夜祭として祝われます。11月1日は子供の魂、2日は大人の魂が戻る日とされています。
死者の日にしたい5つのこと
お墓に行ってみる
街の中心地から外れたところに墓地があり、 死者の日の数日間お墓を一般開放 しています。
死者の世界とこの世を繋ぎ、死者の魂を祭壇まで導くという重要な役割を果たす マリーゴールドのオレンジに染まったお墓 に、故人が好きだったものを飾り、周りでお酒を飲んでワイワイ楽しんでいる人がいたり、バンドの演奏を楽しんでいる人がいたり…。
実際に墓地に足を運んでみると、メキシコの死者の日の風習を体で感じることができるはずです。
死者の日の起源であるハニツィオ島
パクツアロ湖に浮かぶ、ハニツィオ島は「死者の日」が生まれた場所であり、最も伝統的な死者の日が見られる場所として有名な小さな島です。
夜になると、周りに明かりがほとんどない湖の上で、お墓が蝋燭で照らされ、得も言われぬ光景を目の当たりにすることができます。
派手なイベントはありませんが、メキシコの先住民族とともに、 リアルな伝統行事を感じることができる場所 です。
パクツァロ湖周辺の村でも、綺麗なお墓の装飾を見ることができるので、より地元民に密着した死者の日を感じたいという方はそちらもおすすめです。
お墓巡りツアーもあるオアハカ
オアハカの郊外にも、死者の日に一般に公開されるお墓がいくつかあります。ホテルなどでお墓を巡るツアーを申し込むこともできます。
個人でタクシーに乗って行くこともできますが、死者の日の墓地は多くの観光客や地元民でごった返しており、移動が大変なので できるだけツアーに参加することをおすすめ します。
オフレンダ(祭壇)や街の装飾を見て回る
死者の日付近に街を歩いていると、頻繁に見ることのできるオフレンダ(祭壇)。
街の中心部の公園、家やホテルなどの玄関先にも置かれる オフレンダには、故人の写真や、好きだった食べ物、死者の日のパンやマリーゴールドなどの花、蝋燭などが飾られます 。
また、街全体が死者の日に合わせて可愛く装飾をしているので、至る所で可愛らしい骸骨を見かけたり、パペルピカドというメキシコの伝統的な切り絵が張り巡らされていたりと、この時期にしか見られない光景を見ることもできます。
カトリーナメイクをして街に出かける
死者の日の象徴といえば、骸骨風メイクの仮装を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
骸骨風のメイクは「カトリーナメイク」と呼ばれ、 起源はメキシコの有名な版画家の作品である洋風骸骨の「ラカトリーナ」に由来しています。
死者の日にメキシコシティやオアハカの広場に行くと、実際にメイクをしてもらうことができますし、メイク道具を買って、自分でメイクをしている人もいます。
せっかく死者の日をメキシコで迎えるのであれば、カトリーナメイクで街に溶け込んでみませんか?
パンデムエルト(死者の日のパン)を食べる
死者の日付近になると、メキシコのパン屋さんに期間限定で並び始めるパンデムエルトは丸い形に独特な飾りつけがしてあります。
これは、 死者の頭蓋骨や骨を表したもので、「生贄の心臓を食す」という儀式的な背景から生まれました 。甘い砂糖がまぶしてあり、ほんのり甘くて美味しいこのパンは日本人の口にも合うと人気。
祭壇に飾る用のパンですが、お店によって色々なアレンジがされており、違いを楽しむことができますよ。パン屋さんで探してみてくださいね。
パレードに参加する
メキシコシティやオアハカでパレードに参加してみるのもおすすめです。
首都のメキシコシティでは、かなり大規模なパレードが行われ、大広場には巨大な地域ごとのオフレンダや伝統衣装を着た骸骨が出現します。
メキシコシティのパレードの起源となったのは、映画「007 スペクター」。
実際に メキシコシティで撮影された映画の冒頭で行われる死者の日のパレードがきっかけで、恒例行事になった んだそうです。
映画と同じく、メキシコシティのパレードの際には大勢の観光客や市民、そして楽しい音楽で溢れ、とにかく街が賑やかになります。
また、死者の日シーズンになると観光客が多く訪れるオアハカもメキシコシティほど、規模は大きくないですが、パレードが行われ、カトリーナメイクをした人がたくさん街に溢れます。
オアハカは、 壁のグラフィティとお洒落な装飾のクオリティが高く、写真映えするスポットもたくさんあり、観光客向けのカフェやお土産屋さんも多くあります 。
ここでも楽しい音楽に包まれ、死者の日を存分に味わうことができます。近隣のお墓とあわせて、街の隅々まで回ってみるのはいかがでしょうか。
新しい死生観について、考える旅へ
「死」は生きていれば必ず訪れる、だから受け入れて「生」を楽しむ。
日本とはまた違った死生観をもつメキシコの人たちと過ごす死者の日はとても楽しく、素晴らしい時間になるはずです
死者の日付近はメキシコがとにかく賑わい、都市によって街の装飾なども一味違います。ぜひ現地で実際の雰囲気を感じてみてください。
また、このシーズンはメキシコでもっとも観光客が集まるタイミングで、ホテルなどは一気に埋まるため、最低でも 2~3か月前には宿泊先の予約を完了しておくことをおすすめ します。
メキシコは、場所によってまだまだ危険な場所もあるので、海外渡航の際は、海外渡航サイトの情報を参考に、情報を確認してから訪問するようにしてください。
https://www.anzen.mofa.go.jp/
出典・参考
amiga-mexico.me
ウィキペディア(死者の日 (メキシコ) )
VIVA! MEXICO
https://news.goo.ne.jp/article/yokka/trend/yokka-mexican-day-of-the-dead.html

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