日本の棚田

日本の棚田・長野県の棚田の写真を載せてあります。
見てください

真田一族縁の地と棚田巡り(上田市・二の丸の「上田城」)

2016年05月11日 07時23分57秒 | 長野県の棚田
4月中旬、学生時代のマンドリンクラブの練習で長野県・千曲市で行われた。
この時に、今話題の真田一族の縁の地と棚田を巡った。その報告です。
 
 
ここは上田市・二の丸の「上田城」です。
真田信繁(幸村)の父、真田昌幸によって築城された上田城は、
第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られています。
千曲川の緩やかで深い分流があり、天然の堀となっていました。
 
 
「真田石」です。
石垣にある高さ約2.5m幅約3mの大石です。
真田信之(信幸)が松代城移封にあたり、父・真田昌幸の形見として
持っていこうとしたところ、微動だにしなかったという言い伝えが残っています。
 
 
六文銭の兜」です。
真田家の「六文銭」は、名前の通り、昔 使用されていたお金を6枚並べた家紋となっています。
昔の人は死んで三途の川を渡る際に、船賃として六文銭が必要だと伝えられていました。
そんな六文銭を取り入れた意味として、合戦で出陣した際には、決死の覚悟で
臨んでいる意味合いがあるようです。
 
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真田一族縁の地と棚田巡り(上田市・別所温泉の「安楽寺」)

2016年05月10日 07時23分42秒 | 長野県の棚田
4月中旬、学生時代のマンドリンクラブの練習で長野県・千曲市で行われた。
この時に、今話題の真田一族の縁の地と棚田を巡った。その報告です。
 
 
ここは上田市・別所温泉です。
「安楽寺・八角三重塔」です。
屋根が四重となっているが最下層が裳階(もこし=ひさし)と呼ばれているため三重塔です。わが国唯一の八角三重塔。
安楽寺は真田太平記の1巻「真田の庄」の項から登場してきます。
真田太平記には向井左平次という真田幸村の忠臣になる人物がでてくるのですが、
その佐平次が織田との戦いで怪我を負い、介抱されたのが安楽寺になります。
そして、療養中の佐平次と幸村が初めて出会い、一緒に寝たのも安楽寺です。
 
 
花桃の咲く「安楽寺の鐘楼」です。
別所三楽寺と称されていた古刹。
池波正太郎の小説『真田太平記』では、上田城に暮らす真田幸村が、別所温泉を訪れる際の定宿としたとしています。
 
 
「北向観音(きたむきかんのん)」です。
本堂が北を向いているため、この名があります。
長野市の善光寺を参拝した人は、この北向観音へも参拝しないと「片参り」である、と言われています。
善光寺は南向き、北向観音は北向きで御利益も一体のものであるので両方参拝しないと・・・・・・・
 
 
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真田一族縁の地と棚田巡り(上田市・古安曽の「塩田平」)

2016年05月09日 07時21分08秒 | 長野県の棚田
4月中旬、学生時代のマンドリンクラブの練習で長野県・千曲市で行われた。
この時に、今話題の真田一族の縁の地と棚田を巡った。その報告です。
 
 
ここは上田市・古安曽の「塩田平パノラマ展望台」です。
塩田平が一望できるます。米どころ塩田平です。
真田の米蔵と言われてきました。
塩田平3万石と言われ、約100か所のため池を作り、灌漑に使用してきました。
 
 
塩田平から見た「独鈷山(とっこさん)」です。
弘法大師が独鈷という仏具を山頂に埋めたという伝説から名づけられました。
塩田平地方は雨が少ないため独鈷山は水源でもありました。
 
 
独鈷山麓にある「前山寺(ぜんさんじ)」です。
前山寺は、桜、藤、牡丹、紫陽花、銀杏と四季を通じて数々の花が咲くことから「花の寺」とも呼ばれています。
そのなかでもしだれ桜は見ごたえ抜群。
 
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真田一族縁の地と棚田巡り(上田市・別所温泉の「真田幸村隠しの湯・石湯」)

2016年05月08日 07時20分51秒 | 長野県の棚田
4月中旬、学生時代のマンドリンクラブの練習で長野県・千曲市で行われた。
この時に、今話題の真田一族の縁の地と棚田を巡った。その報告です。
 
 
ここは上田市・別所温泉です。
「真田幸村隠しの湯・石湯」です。
別所温泉には三つの外湯(共同浴場)があります。その一つです。
真田一族が英気を養い、傷を癒すのに利用した湯として知られています。
池波正太郎作の『真田太平記』では、幸村が女忍者のお江[ごう]と結ばれた場所として描かれています。
 
 
「武屋御殿」です。真田幸村の隠し湯・石湯の目の前にある歴史展示館です。
真田昌幸・幸村公をモデルにした鎧・陣羽織、別所温泉つるし雛、
真田十勇士の人形等を展示していました。
 
 
桜満開の上田電鉄別所線の別所温泉駅です。終点駅です。
駅舎の改札では、和装に袴履きの女性駅員が迎えてくれます。
 
 
 
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真田一族縁の地と棚田巡り(上田市・真田町の「真田の棚田」)

2016年05月07日 07時20分58秒 | 長野県の棚田
4月中旬、学生時代のマンドリンクラブの練習で長野県・千曲市で行われた。
この時に、今話題の真田一族の縁の地と棚田を巡った。その報告です。
 
 
ここは上田市・真田町・角田です。
「真田の棚田」です。真田町は真田家発祥の地です。
真田町は、武田信玄の軍師であった山本勘助と深 く親交を結ぶことになる真田幸隆の領地です。
真田幸隆は、山本勘助の推挙で武田晴信に召し抱えられ、武田二十四将の一人でした。
 
 
「猿飛岩」です。
真田十勇士「猿飛佐助」修行の地だそうです。
真田幸村に忍びをもって仕え、間諜として活躍。
特に関ヶ原の戦いの際の信州上田における合戦や大坂の陣には神出鬼没の働きをした。
真田幸村と真田十勇士猿飛佐助・霧隠才蔵・三好晴海入道の3人の関係は、
西遊記での三蔵法師と孫悟空・沙悟浄・猪八戒の関係が参考にされたようです。
 
 
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真田一族縁の地と棚田巡り(上田市・殿城の「稲倉の棚田」)

2016年05月06日 07時25分07秒 | 長野県の棚田
4月中旬、学生時代のマンドリンクラブの練習で長野県・千曲市で行われた。
この時に、今話題の真田一族の縁の地と棚田を巡った。その報告です。
 
 
ここは上田市・殿城です。「稲倉の棚田」です。
棚田百選の一つです。北アルプスの五竜岳が見えます。
真田幸隆の弟にあたる矢沢頼綱(よりつな)は、上田市・殿城の出身です。
矢沢家は真田家臣団の中で最高位にあり、子孫も明治時代に至るまで藩の筆頭家老格を維持した。
 
 
「稲倉の棚田」は、戦国から江戸時代にかけて、開田されたものと言われています。
山裾から谷間に大小様々な形状の棚田が広がっています。
矢沢頼綱、真田幸村は見たかもしれません。
 
 
「稲倉の棚田」で見つけた一本桜です。
毎年多くのオーナー様ご家族や各地の小中学校による農作業体験・食育教育に取り組んでいます。
 
 
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真田一族縁の地と棚田巡り(東御市・本海野「海野宿」)

2016年05月05日 07時21分26秒 | 長野県の棚田
4月中旬、学生時代のマンドリンクラブの練習で長野県・千曲市で行われた。
この時に、今話題の真田一族の縁の地と棚田を巡った。その報告です。
 
 
ここは東御市・本海野です。「海野宿」です。
「海野宿」の位置する本海野の地は、戦国の名将・真田氏の祖とされる
滋野一族・海野氏発祥の地であり、平安から鎌倉、戦国時代までの永きにわたりその本領でした。
真田氏も海野氏の継承者であることを誇りとしました。
真田十勇士に 名を連ねる海野六郎は この地の出身者です。
 
 
真田昌幸が上田城築城の際に海野の庄から寺社や町を上田市に移した。
その後北国街道の宿駅となり、海野宿として栄えました。
宿場町の建物は重要伝統建造物群保存地区に指定されています。
昔から 出世できない人物を揶揄して言う「うだつが上がらない」
の語源である「うだつ(卯建・宇立)」を ここ 海野宿では間近に見ることができます。
本来は昔の切妻屋根の隣家との間につけた 防火壁のことです。
 
 
「白鳥神社」です。
海野宿の産土神でもある白鳥神社は、海野氏、真田氏の
氏神として祀られた、日本武尊の伝説を縁起とする歴史ある神社です。
 
 
 
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真田一族縁の地と棚田巡り(小諸市・菱平の「菱平の棚田)

2016年05月04日 07時25分19秒 | 長野県の棚田
4月中旬、学生時代のマンドリンクラブの練習で長野県・千曲市で行われた。
この時に、今話題の真田一族の縁の地と棚田を巡った。その報告です。
 
 
ここは小諸市・菱平(ひしだいら)です。
「菱平の棚田」と浅間山です。浅間山が正面に見えます。
当日は風は強く、煙はみ見えませんでした。
 
天正10年(1582)真田家は、武田勝頼に仕えていたが、甲斐の名門・武田家は最大の危機を迎えた。
武田勝頼の重臣らが次々と裏切る一方、織田信長、徳川家康、北条氏政の軍勢が武田領に侵攻。
心配する勝頼に、真田昌幸は、「武田家は浅間山が噴火しない限り安泰です!」
といった後に、浅間山噴火・・・・・。
 
 
真田昌幸は武田勝頼を上野吾妻の岩櫃城に迎えるために岩櫃城に・・・
武田勝頼は織田軍の追っ手にかかって、天目山ふもとの田野で全滅します。
ここに武田家は滅びました。
古来、浅間山噴火は甲斐・信濃の人々にとって凶兆とされいます。
 
花桃の咲く季節となりました。
 
 
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真田一族縁の地と棚田巡り(小諸市「懐古園」)

2016年05月03日 07時21分47秒 | 長野県の棚田
月中旬、学生時代のマンドリンクラブの練習で長野県・千曲市で行われた。
この時に、今話題の真田一族の縁の地と棚田を巡った。その報告です。
 
 
ここは小諸市・丁の「懐古園(小諸城跡)」です。
ここ小諸城は、その最大の局地戦ともいえる真田氏と徳川軍の対決・第二次上田合戦の舞台です。
関ヶ原の合戦に向かう徳川本隊3万8千の大軍勢(大将:徳川秀忠)は、
西軍・石田三成方についた上田城真田氏(父・昌幸、弟・信繁率いる7千の軍)仕置きのため、
小諸城に名立たる武将を引き連れ入城、本陣を置きます。
しかし結果は、真田氏の知略により徳川軍は敗走に追いやられ、
関ヶ原の合戦に徳川本隊軍が遅参するという大失態を犯してしまいます。
これは徳川秀忠の初陣でしたが、一方で真田一族を盛り立てることとなりました。
 
 
現在では当時築かれた天守台に「野面石積(のづらいしづみ)」の石垣だけが残っています。
小諸八重紅枝垂やソメイヨシノの桜が咲き誇っていました。
小諸城址 懐古園 桜まつり期間中でした。
 
 
千曲川です。
小諸城は西側の千曲川の断崖も天然の防御として利用されていました。
 
『千曲川旅情の歌』(島崎藤村)を口ずさみました。
小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(いうし)悲しむ緑なすはこべは萌えず         
若草も藉(し)くによしなししろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る
 
暮行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛(歌哀し)千曲川いざよふ波の           
岸近き宿にのぼりつ濁(にご)り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む
 
 
 
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フイリッピンの棚田巡り(ヌエヴァ・エシハ州・カランラン)

2016年05月02日 07時29分51秒 | フィリッピン

今回の旅は、フイリッピンの棚田巡りです。昨年の3月末~4月上旬に出掛けました。 その報告です。バナウエからマニラに向かっています。

 
ヌエヴァ・ヴィスカヤ州のサンフォセに来ました。
平野部です。
広い田が実りの秋を迎えました。
お米の収穫が始まりました。
広い、広い田の収穫は全て手刈りです。
 
 
気が遠くなるような稲刈りをしています。
収穫用の機械を一切使いません。
フイリッピンでは代かき、田植えから稲刈りまで見る事が出来ました。
 
 
マニラに戻り、久しぶりの日本食です。
海老フライ、刺身、焼き肉、卵焼き、煮物・・・・味噌汁・・・
明日は日本に帰ります。
 
約4カ月のフイリッピンの棚田巡りでした。
ありがとうございました。
 
 
 
 
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