20階の窓辺から

児童文学作家 加藤純子のblog
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歩く

2008年01月13日 | Weblog
 
 一日、1万歩はむずかしいですが、なるべく毎日歩く時間を持ちたいと心しています。

 毎日歩いている道の途中に、真言宗のお寺があります。
 そのお寺の門には、書で格言・金言のような言葉の書かれた掲示板があります。
 いえ、格言・金言ではないかもしれません。哲学的な言葉が多いので、哲学書や空海あたりの書物から言葉を見つけ出していらっしゃるのかもしれません。
 とにかく、月が変わるたびに新しい言葉が並んでいます。
 
 お寺の前を通るたび、いつも私の足はとまります。
 そして、見事な書でかかれた言葉の意味を、いっときしみじみと味わいます。
 一枚の造形とも思えるような、額には、派手ではありませんが花があります。
 かぐわしい野の花の香りがします。つつましさすら感じます。
 今月はこんな言葉でした。

 こつこつ
 こつこつ
 書いてゆこう

 こつこつ 
 こつこつ
 歩いてゆこう

 こつこつ
 こつこつ
 掘り下げてゆこう


 謙虚でつつましく、けれど真っ直ぐ芯の通った美しさのある言葉です。
 再び歩き出しながら私は、こうして毎月毎月、変わらず墨をすり、筆をとり、言葉を紡いでいる、ご住職の姿を想像しています。
 なぜ、ご住職はこうした言葉を、地域の人たちに伝えようとしているのか・・・。

 歩きながら、そんなことを考えていたら、岩手の羅須地人協会の入り口に置かれてあった、黒板に書かれた宮沢賢治の言葉を思い出しました。

「下ノ畑ニ居リマス」

 宮沢賢治は、農民たちに、こう語りかけました。
「おれたちはみな農民である。ずいぶん忙しく仕事もつらい。もっと明るく生き生きと生活する道を見つけたい」
 そういって彼はその羅須地人協会で、農民たちに「農民芸術概論綱要」を講じていました。しかし彼の言葉は必ずしも、農民たちには届かなかったようです。
 待っても待っても農民たちはやってこない。待ちくたびれた彼は下の畑に出かけていく。でも、もしその留守に彼らがやってきたとしたら・・・。
 その思いが「下ノ畑ニ居リマス」の言葉につながっていくわけです。
 いまもあの「下ノ畑ニ居リマス」の言葉を見ると、賢治の思いが切なく伝わってきます。

・・・そんな風に私は、ご住職の言葉を頭のてっぺんにのせたまま、思考を別のところに巡らせていきます。
 
 歩くという行為は、雑多な思考にふくらみを持たせてくれます。
 考えがあちこちに飛び散り、さまざまな方角へ広がっていき、さっきまで原稿モードになっていた頭をクールダウンさせてくれます。
 それがとても面白い。
 健康のためにとはじめた「歩く」と行為が、いまや、頭を限りなくクリアにする格好の時間になっているようです。
 
コメント
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