このところ、夜になるとラジオばかり聴いています。
目が疲れるので、寝る前2時間はなるべくパソコンやテレビは見ないようにしています。
昨晩は、MJQがバッハの『G線上のアリア』を歌っていました。
MJQを聴いていると、パリの街角を思い出します。
そして聴きながら読んでいたのが、翻訳家・柴田元幸の本。
そのなかに、こんな記述がありました。
「時代を切る鋭利な刃物であるだけではなく、ラジオは今も昔も、世界の風通しをほんの少しよくしてくれる装置であると思いたい」
村上春樹の作品も、多くのアメリカ文学も、実に効果的にラジオを使っています。
村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(講談社文庫)などは、まさにラジオのディスクジョッキーをベースにした文学です。
それがじつにおしゃれです。
では児童文学でラジオを効果的に使えるかといったら、それは難しいかも知れないと思ってしまいます。
ノスタルジーとしてしか使えないような気がします。
でも、それを書く、大人である私たちは、ラジオから流れる、得も言えぬ叙情や、空気を掴み取ることはできるような気がします。
テレビとは違う音だけの世界からは、限りなく想像力をかきたてられます。
目が疲れるので、寝る前2時間はなるべくパソコンやテレビは見ないようにしています。
昨晩は、MJQがバッハの『G線上のアリア』を歌っていました。
MJQを聴いていると、パリの街角を思い出します。
そして聴きながら読んでいたのが、翻訳家・柴田元幸の本。
そのなかに、こんな記述がありました。
「時代を切る鋭利な刃物であるだけではなく、ラジオは今も昔も、世界の風通しをほんの少しよくしてくれる装置であると思いたい」
村上春樹の作品も、多くのアメリカ文学も、実に効果的にラジオを使っています。
村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(講談社文庫)などは、まさにラジオのディスクジョッキーをベースにした文学です。
それがじつにおしゃれです。
では児童文学でラジオを効果的に使えるかといったら、それは難しいかも知れないと思ってしまいます。
ノスタルジーとしてしか使えないような気がします。
でも、それを書く、大人である私たちは、ラジオから流れる、得も言えぬ叙情や、空気を掴み取ることはできるような気がします。
テレビとは違う音だけの世界からは、限りなく想像力をかきたてられます。