20階の窓辺から

児童文学作家 加藤純子のblog
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冬支度

2011年11月16日 | Weblog
             

「冬支度」とつぶやいた瞬間、脳裏を過ぎるのは、いつも夕暮れの時間です。
 いまでも私は、秋の日暮れの時間になると、同じような思いにとらわれます。

 そんな思いにひたっていたら、数年前にホームページに書いた、エッセイを思い出しました。
 まさに、こんな気分です。
 こういった気持ちになられる方、かなりいらっしゃるのではないでしょうか?

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「冬支度」
 暑い暑いと思っていたら買い物にいく途中の公園でアキアカネを見かけ、日が暮れたと思ったら釣瓶落としのように陽が落ちて・・・。
 つかの間の秋を楽しむ間もなく、気がついたら急かされるように冬支度をしている。

 冬のしつらえは、ぬくもりに満ちている。
 冷や奴は湯豆腐にかわり、サラダで食べていた水菜やレタスは、ざわっと土鍋に投げ込み、ポン酢でいただく。
 ガーリックバター炒めにしていた薄切りのかぼちゃは、ふわふわと湯気の立った、ほんのりと甘い煮ものに仕立てる。
 さらには、きのこのたっぷり入った雑炊や、さまざまなお鍋や炊き込みご飯が食卓に並ぶ頃・・・。
 食器たちも冬支度をはじめる。
 繊細な夏用の食器は、しばしの間おやすみ。かわりに、お鍋やあたたかな料理に似合う、ざらざらとした粗めの素材の黒っぽい食器がテーブルに並ぶ。

 また部屋のスタンドのあかりに、ノスタルジーを感じるのも、この頃だ。
 私は蛍光灯の、なにもかも臆面もなくすべてを白日のもとにさらけ出す、あの煌々としたあかりが苦手だ。
 だから家では、部屋中のあかりのすべてを、白熱灯のスタンドと間接照明で統一している。
 暗い場所と明るい場所。そんな陰影が好きだから。

 私がまだ小さな子どもだった頃。あの頃は祖父母も元気で,家族7人元気に食卓を囲んでいた。
 うっすらと記憶の彼方に残っているその頃の光景の、中心を照らしていたのが白熱灯の電球のあかりだったような気がする。いつもなぜか不思議に思い出すのがこの季節の団らんの風景だ。

 口うるさかった祖母が、食卓を囲んでいるときはいつもにこにこしていたなとか。祖母が縫ってくれた綿入れの花模様のちゃんちゃんこはいつも軽くて暖かかったなとか・・・。
 部屋のフロアスタンドのあかりを見ていると、あたたかなぬくもりにつつまれている、セピア色したなつかしい光景が浮かんでくるのだ。

 目に映る日常のすべてが、冬支度を始める頃。
 時に会議などで遅くなり、夕暮れどき家路を急いでいると、ふと雑踏の街角でなぜか迷子になってしまったような気分に陥ることがある。
 そうすると私は、なぜか山の端に陽が落ちて、家々が黒いシルエットにつつまれた、ふるさとの盆地の町を思い出すのだ。
 一瞬、雑踏の賑わいの音が消え、無音の中で私は立ちすくみ、泣きそうになりながら途方に暮れる。

 この年になってなお、そんな風に迷い道に立ちすくむ瞬間は、決まって冷気の忍びよる、こんな冬支度の頃である。
コメント (4)
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