kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

信州の鎌倉ー上田自由大学と鎌倉アカデミアーある予感。

2018-10-20 00:14:55 | 信州、なかでも上田。

昨日今日上田の中学校時代の同級会、上田駅から鹿教湯温泉へ、皆んなが集まる前に幹事と8月に亡くなった同級生宅へ焼香に。

昨夜はしたたかに飲み酔い喋り眠った。

今日は駅で県外組と別れ幹事に付き合い写真屋へ、そのあと上田市内を歩き平林堂書店へ、この本屋さんについては、

http://heirindo.com/about-heirindo/

 

そこで買ったのが、

 この2冊が今日のタイトル。

この本をめくりながら「学ぶ」ということを考え、「自学」という言葉が浮かんだ。独学が学ぶ形だとすれば、学ぶ姿勢という意味になるだろう。

その意味で上田市の塩田平が「信州の鎌倉」とか「信州の学海」と言われたことは鎌倉時代のことではあるが、この二つのこと=「上田自由大学」「鎌倉アカデミア」につながることと思われる。

上田自由大学については、wikipedia「上田自由大学」

鎌倉アカデミアは、wikipedia「鎌倉アカデミア」

とは言っても上田市内を歩きながらの思いつき程度のこと、と同時にそれだけに深い繋がりがあるやもしれないという予感もする。思いを詰めていく価値がありそうの予感。


信州上田 別所 山宣記念碑。

2017-07-31 14:34:55 | 信州、なかでも上田。

今日の「しんぶん赤旗 潮流」です。

戦前から守られてきた宝の碑は、今も輝きを増しています。長野県上田市の別所温泉にある安楽寺。山あいの参道沿いに山本宣治(せんじ)の記念碑が置かれています▼暗黒の時代に反戦平和を訴えた山宣。思想や言論の自由を徹底的に弾圧した治安維持法の改悪に帝国議会でただ一人反対を貫き、右翼の凶刃に倒れます。その死の4日前、上小農民組合連合会に招かれて上田で講演していました▼翌年の1930年、山宣の話に感銘した農民たちは抗議の思いを込めて碑を建立。その後、弾圧が激しくなって官憲から碑を壊すよう命じられます。しかし建てた土地の持ち主だった旅館の主人が庭石に見せかけて守り通しました▼「山宣に高まる関心」。今月、地元紙が記念碑に訪れる人が増加しているとの記事を載せました。秘密法が強行された頃から目立ちはじめ、共謀罪の論議が盛んになった今春からは一層増えたと▼碑に備えたノートには先人の遺志を今に重ね、共謀罪とたたかう決意をつづった書き込みも。長野山宣会の平林茂衛名誉会長は「治安維持法の現代版といわれる共謀罪をなんとしても撤廃に」と語気を強めます▼同じ傾向は山宣の墓がある京都・宇治でも。今年の墓前祭には全国から250人、生誕記念講演会には100人が集まり、宇治山宣会にはマスコミからの問い合わせも増えているといいます。今に生きる山宣の勇気と決意。東京山宣会の決議にあります。「市民と野党の共同の闘いに合流し、共謀罪の廃案をめざして奮闘する」


その場所は、上田市別所


地元紙・信濃毎日新聞Web版より、

Web版全文は、ここをクリック➡︎  信毎Web版7月31日


「上田は良いねー、……」

2017-05-14 20:36:02 | 信州、なかでも上田。

帰りの新幹線のなかで妻が何か話かけてきて、聴き取れないので問い直そうとした時、「上田は良いねー、あなたの実家は温かい」と耳に入ってきたのでした。特に声が大きくなったわけではないのですが、その前の部分は前日の法要とその後の会食、夜は外食と姪が連れて行ってくれた温泉などなどのことが語られたのでしょう。その結果が「良いねーと温かい」になったのでしょうが、そのことは私の気持ちと一致していたので自ずから同調して「聴こえた」のです。

そういえば、昨日の会食で列席された方々に兄嫁や甥等と共に挨拶でまわったとき、兄についての思い出は「理論的だったが温かかった」という言葉でした。私も子供の頃の思い出で、兄が不在で父母と弟の4人でいるとき家のなかが沈んでいたが兄が帰ってくると明るくなった、と話したのです。

当時は生活の苦しさがおおっていたのでしょうが、20歳前後の青年の持つ明るさだけでなく、人柄の明るさがあったのでしょう。そのあたたかさは兄嫁はもちろん甥やその妻にも姪などにも受け継がれているなー、と我が妻の感想に同調すること多々でした。

故郷のあたたかさは、温かく迎えてくれる人がいてますます深まります。


今日は上田です。

2017-05-13 20:54:40 | 信州、なかでも上田。

新幹線、以前は長野新幹線でしたが今は北越新幹線に乗りながら、子供の頃の信越本線を思い出していました。上田から上野まで8時間、碓氷峠のトンネルの連続とスイッチバック、横川駅の釜飯などなど。

そういう時代のなかに兄の姿があります。私たち三人兄弟の三番目に言わせると、長男は弟思い、三男は兄思いで、真ん中は自分思いなんだそうです。言われてみればうなずくことでもありますが、そういういい加減な真ん中がいたので上も下もつながっていたのだという事実を見落としてはならないのだと、ひと言。

甥っ子の挨拶はじめ坊さんの話も聴き取れずでしたが、この一年間は兄一家では夫のいないに日常、父親のいない生活、お爺ちゃんは仏壇のなかに、ということが普通になるのに必要な時間だったのでしょう。そういう意味ではいないことが兄の確かな存在になったのでした。

昨日紹介した喫茶店「木の実」は皆さん知っていました、「東信ジャーナル」に載ったこともですが、上田では馴染みの店なのでしょう、いつか立ち寄ってみたいものです。残念な上田情報は別所温泉の老舗「柏屋」の倒産です。これもフェイスブックが知らせてくれたのですが法要の席でも話が聞け、設備投資が裏目に出たとのことでした。

夜は外食でご馳走になりましたが、私達としてははじめての「いっちょう」という店、考えると上田でのご馳走になる外食店はその都度店が違っています。寿司のチェーン店も店名が違うのが三回くらいありましたし、よく見る店の上田店もそうでない大型飲食店も。まことに素人的見解ですが、こういう経営環境のなかでは旅館業界の老舗も油断も隙もあったものではない、が油断も隙も起こり得ることも確かです。

企業の大小別なく、そういう環境に置かれています。現代社会の中心部分の企業がそういうことですから、個人も様々な団体組織も同様、当然ながら政党も。ーー(ここまでで昨夜は寝入ってしまったようです)

なにやら面倒なことを書こうとして脳にブレーキがかかったのでしょう。

今朝は上田・塩田平の朝です、

(先の部分で朝飯になりまたもや中断)

そして、今は横須賀線内、東京駅で友人の音楽会に向う妻と別れて引出物などを持っての帰途中です、午後は地元での寄り合いがありますのであとは夜にでも……。


変化の一年。

2016-08-11 22:41:56 | 信州、なかでも上田。
 
昨日の今日の途中まで。
塩田平の兄宅にて一泊、今日は父母の墓参りのあと祢津へ向かう予定。兄宅の玄関のカエル君は我が家のカエル君の兄にあたるのです。玄関に居座って無事帰って来ると「おカエリ」と鳴くそ......
 

年年歳歳花相似たり
歳歳年年人同じからず

  この言葉の前後に幾つかの言葉があるですが、一年前の貴方です、とgooからこうやって送られてくると、兄のいなくなった事実が改めて目の前におかれます。

  兄の死は私ことですが、同時にこの時期一年後の参議院選挙で野党共闘が実現するなど思いもしないことでした。しかし予兆はあったわけです。

   市民連合の中野晃一さんは【 昨年(2015年)の夏の安保法制反対のたたかいのなかでは、「総がかり」(戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会)にしても、SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)の金曜日行動にしても、いろいろな場に野党の政治家を呼び込んで、ともに抗議の声を上げるということをやってきました。そうやって野党共闘が国会前から準備をされていったのでした。】と言っています。

  この時期私も何度か国会前に足を運んでいました、「国会前から準備をされていった」は実感できます。

2015年9月19日戦争法採決の前夜の国会前です。

2015年9月18日の「kaeruのつぶやき」

  時代が次の節目に向けてどう変化するのか、その兆しの現場にいたことが教えるのは、歳々年々に変化することは私ことだけでなく社会全体のことでもあるということです。当たり前のことですが、夏の熱風の昼から夜に入り風の気配に秋をみるように目をつけていないと見落とすことでもあります。

   そして一年という期間ですが、相当の勢いで変化するであろう時代を現していると、ブログを振り返っても思えます。


「弟」の謎。

2016-02-22 20:48:52 | 信州、なかでも上田。

   兄の認知症が進行しているのかそうでないのか、わかりません、が去年は一緒に温泉へ行かなかったのが今回は近くの町営の温泉へ、甥と一緒に出かけました。翌日の昨日は一家あげて上田城公園へ、そういう時の兄の後ろ姿には以前の頼もしい兄貴に戻ったようにさえ見えました。

   人生での付き合いで言えば兄弟が一番長いことになるでしょう。一緒に暮らした期間という意味でなく、家族という成長の場を共にし時代を共有してきたという意味です。それでも各々が独自の「家族」であったことを知らされたのが「弟」の存在でした。

   飲み喋りしている最中に義姉が仏壇から小さな板の束を持ってきました。亡くなった者の名前と命日が記されたものです。そいうものがあるということは知っていましたが、私は一枚一枚見たことがなかったのです。姉が見せてくれたのは昭和十八年某月某日の日付とO歳と印された名前です、男の子の名前。私たち三人兄弟の上に姉がいたが数ヶ月かで亡くなっているということは知っていましたし、兄が作った家系図にも載っています。

  私の下にもう一人弟がいた、〇歳と言うのだから生まれて間も無く亡くなったということ? 当時の年齢では生まれたら1歳でしょう、それを〇としたのは? など父母がいたら聞けたものをと思います。それにしても兄も弟もその弟のことは知っていたのです。兄が12歳の頃のことですから当然でしょう、私より3つ下の弟が知っているのは? と言うと聞いていたと言うのです。なぜ俺が知らないのだ!と言うと「兄貴はそれだけ家族との会話がなかったんだ」と言われてしまいました。

   確かに家にいても本ばかり読んでいた記憶がありますし、今でも無口だったという話しか出てきませんから、私だけが知らなかったのでしょう。それにしてもこうして兄弟や兄嫁と話し込んでいると自分が見えてきます。そういう過ぎた自分のうえに今日の自分がいるわけで、自分への愛おしさが湧いてきます。兄宅への訪問懇談は自分への「温故知新」でもあります。


消えたのでななく➡︎上田から神田へ。

2016-02-21 00:21:06 | 信州、なかでも上田。

今日午後弟と上田に着き食事、駅にも「真田丸」の飾りが、「上田城甲冑隊」の幟が見えます。

食事はこれ、


その後甥っ子の奥さんの運転で兄宅へ。


その夜の話。

食べながら飲みながら、この写真から父親の昔の話が出て、

父は昭和20年代後半この新聞社の社員でした。そんな思い出話をしていたら義姉が瀬川さんの息子さんの話をしてくれました。瀬川さんの息子の奥さんが松谷みよ子さんだというのです。

(松谷さんについては、https://ja.m.wikipedia.org/wiki/松谷みよ子 )

弟の話では松谷さんの代表作「龍の子太郎」は上田地方の民話が元になっているとのこと、ここにも故郷に来て飲みながら食いながら話すと見えてくることがあります。

その兄が歩けるうちに戦争で焼けてしまった東京神田の家の跡に行ってみたいというので、甥がパソコンでその辺りを検索してこの写真を、

神田美土代町という地名が見えます。道路の関係からこの辺ではないかという辺り、当然70年前の様子はありません。それでも私たち三兄弟のスタートだった地の現在を確認するのは無駄ではないでしょう。