昭和19年戦火のおよぶ東京から母方の縁を頼って上田に疎開してきて、高校卒まで言うなれば少年時代の舞台であった上田ですが、特にその町の歴史を学んだこともなく、上田城について特別に知識を持っているわけでもありません。
今回の大河ドラマは良い機会で「kaeruのつぶやき」の一部として続けてみたいと思います。その道案内として「郷土の歴史 上田城」は格好のテキストです。
本の目次を紹介しておきます。大きく分けて、
Ⅰ、上田城の歴史 Ⅱ、 上田城の概要 Ⅲ、歴代上田城主 Ⅳ、上田城余話
となっています。こう分けられた場合「余話」という部分がだいたい面白いものです。
その面白そうな部分から、
真田昌幸の命名になる「上田・上田城」
《 今の上田市街(大字上田・常入・常磐城)一帯は、上田城が築かれる以前の中世には、常田庄(ときだのしょう)と呼ばれる地域であった。(略)つまり、この城は通例のように、その地名をとって上田城と称されたわけではなく、「上田城」「上田」という地名自体が、真田昌幸の命名になったものと考えられるのである。
いずれにしても、常田の地は真田氏の家臣化した常田氏の代々の本拠地であった。昌幸はこの地に、小県郡支配の中心とすべく、自己の居城を築き上げたわけであるが、その城名としては、常田氏の旧領としてのイメージの強い常田は避けようと考えたのであろうことは、想像に難くない。
なお、常田を改め上田としたわけだが、城主は真田氏であり、その北上州における本拠地も沼田であった。いずれも「田」がつくが、これは全く偶然とも考えにくい。新しい居城の命名にあたっても、やはり田の字にこだわったものではなかろうか、ともかんがえられるのである。
ところで、松本は古くは「深志」と呼ばれていたことは、よく知られている。それが松本という名でよばれるようになったのは、天正10年(1582)に小笠原貞慶がここに入部して、深志城を改めて松本城と命名したことに始まったとされている。これは、真田昌幸による「上田」築城と、ほぼ同時期のことだったのである。
ちなみに、中世の上田庄は別にして、「上田」地名が見える最古の史料は、文禄4年(1595)正月の豊臣秀吉朱印状(『淺野家文書』)である。この文書は、秀吉が草津温泉に入湯しようとしたおり、配下の諸将に路次の諸城の城番を命じた文書であるが、そのなかに「上田 さなた安房守(昌幸)居城」も見える。これが戦記書などを除く根本史料における、今に続く「上田」地名の初出ということになる。