kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

歴史に名を残す。

2016-02-08 21:32:41 | 信州、なかでも上田。

去年の今日のブログです、と送られてくるので「なるほど1年前は」と思い出しすことが多々あります。

今日はこれです、

今年も二月下旬に出かけますが、上田で「真田丸」を見るのも面白いでしょう。そんなことを思って、ふと「幸村(信繁)に弟はいたの?」と思い系図を見ましたら、いました。

信勝と昌親とでていましす。そこでインターネットで検索(一部略)。

 真田信勝は1605年2月、徳川秀忠の上洛に従大番組として従っています。大番組と言うのは旗本で、警護を担当する精鋭。一方、真田昌親は兄・真田信之と共に関ヶ原の戦いでは徳川家康についており、信繁らが九度山に蟄居した際には、松代から生活費を届けにきてくれたこともある。

この説明では信勝昌親は信之信繁とは異母兄弟だったようです。二人とも徳川方だったようで、それなりの役割を果たしていたのでしょうが、いわゆる歴史に名を残すことはなかったということです。

その点ではここに写っている三人も歴史に名を残すことはありません、ブログに名を残しておきましょう。


「挑戦」の先。

2016-01-31 22:12:28 | 信州、なかでも上田。

見終わって数分経って何が印象として残っているか、人それぞれ違うでしょう。第4回目の「挑戦」という題名からいえば信長との対面の場、それが本命でしょうが、私がこうして寝転びながらタブレットに指を動かしつつ浮かぶのは真田の郷の光景です。

信濃の国 真田といわれた時代の、その頃はこうだったのだろうと思わせられる山と野の広がりです。現在の実際の映像から建物など人工物を取り除き、周りの山や野の光景に同化させて映像化するのでしょうか。

昌幸と信繁が信長の呼び出しに応じて諏訪へ向かう、生きて戻れるかの領主の列が里道を通る、小さな山間の道です。

「一生懸命」は「一所懸命」が転じた言葉だそうですが、自分の領地保全とさらなる拡大に生命をかける、封建時代の領主の立場であり覚悟です。この覚悟を軸にしてドラマは展開します。

昌幸の信長に賭けた「策略」と「挑戦」は効をそうし真田と上田は安堵されますが上野国の沼田・岩櫃領は織田重臣滝川一益のものとされてしまいます。これが天正十年四月のことです、しかし翌々月本能寺の変が起き信長の死、そして昌幸は……、とその先へ向かいます。


天正壬午の乱。

2016-01-26 18:40:41 | 信州、なかでも上田。

昨日紹介しましたNHKラジオテキスト『真田三代の挑戦』を書かれた平山優さんは「真田丸」の時代考証を担当している方です。

wikiによると「東京都新宿区に生まれる。両親が武田家滅亡の地である田野(山梨県甲州市大和町)の出身であり,幼少期から武田家の歴史に関心を持っていた」そうです。

この関心が長じて、歴史学を修め今回のドラマの背景になる「天正壬午の乱」についてはじめて総説を展開されたそうです、1998年のことです。

「天正壬午の乱」とはこのテキストによれば、武田氏の滅亡、さらに本能寺の変後勃発する武田氏の旧領をめぐる上杉・北条・徳川三氏の戦いのことです。ドラマは武田氏滅亡のあと、織田信長に従属した真田昌幸の動向と、そのあとこの三氏の戦いのなかを昌幸親子がどう生き残るかを見せてくれます、目が離せない展開になると思います。

複雑な勢力関係のなかで小領主が一族の盛衰をかけ大きく発展していく姿を描きだすにはしっかりした時代考証が前提になるでしょう。その時代考証を正確にする努力は知的関心に止まらず、その地域への愛着・思い入れも関わってくると思います。

kaeruのドラマへの関心が上田への愛着の現れとも思いつつ、ラジオを聴きました。そして、Googleマップからこんな写真を載せておきます。

同じ地形図ですが、上は新府城跡、下は岩櫃城跡の位置を示しています。

真田は上の図の左上に上田と見えますが、その右上の「144」そのあたりになります。


なぜに真田だけがモテるのか。

2016-01-25 21:06:55 | 信州、なかでも上田。

 

昨日のワイコマさんのコメントに、信州にいくつもの城があり多くの大名豪族がいたが、「この真田家だけは全国的に知れ渡って」と書かれています。

確かにそうです、一昨年ワイコマさんに松本城を案内してもらいました。国宝だというこの城は上田城などと違う立派さはわかりましたが、「ここには誰がいたの?」などと聞いたおぼえがあります。誰々だと教えてもらったのですが忘れています。

ワイコマさんが続いて書かれているように、今回のドラマは「その謎を解き明かす」面白さがテーマでもあるでしょう。その意味でこのテキストは楽しめます。

第三回の再放送が明日午前10からです。「武田氏滅亡と天正壬午の乱」となっています。テレビのドラマとあいまって理解を深めることになります。


地名俳句、上田の俳句。

2016-01-11 23:49:22 | 信州、なかでも上田。

俳枕とは歌枕にならって俳句に詠みこまれた名所のことをいいます。

『俳枕』という本があり、東日本と西日本の二巻で、日本だけでなく海外俳枕もあげられています。大河ドラマ「真田丸」のこともあって手元において開いていたのですが、上田が出てこないのです。

浅間山、安曇野、伊那、姨捨山、柏原、上高地、軽井沢、木曽、小海線、佐久、信濃、諏訪、善光寺、蓼科、千曲川、天竜川、戸隠山、日本アルプス、野尻湖、馬籠、妻籠、松本、八ヶ岳。

こう書き出してみてそれぞれ俳枕にふさわしい場所かと思います。

編者の平井照敏さんは「凡例」にこう書かれています。

《 旅行用、吟行用に利用できるよう、俳枕はできる限り、数多く選定するよう努めた。ただし、その選定には、しかるべき俳句があることを条件とすることにした。》

観光地案内ではありませんから、俳句あっての話だとはわかりますが、それでも寂しい。そこで『地名俳句歳時記』という小型歳時記から次の俳句を紹介しておきます。

上田城址

    いと小さき上田の古城麦の秋    福田蓼汀

    雪しろの州をありく鷹上田城    竹中龍青

この歳時記には上田市関連では、上田城址のほか、八日堂、女神岳、別所温泉、北向観音、安楽寺、無言館、前山寺、真田、菅平高原、があります。

おいおい紹介していきたいと思います。



「郷土の歴史 上田城」上田城余話その1

2015-12-09 21:05:49 | 信州、なかでも上田。

昭和19年戦火のおよぶ東京から母方の縁を頼って上田に疎開してきて、高校卒まで言うなれば少年時代の舞台であった上田ですが、特にその町の歴史を学んだこともなく、上田城について特別に知識を持っているわけでもありません。

今回の大河ドラマは良い機会で「kaeruのつぶやき」の一部として続けてみたいと思います。その道案内として「郷土の歴史  上田城」は格好のテキストです。

本の目次を紹介しておきます。大きく分けて、

Ⅰ、上田城の歴史    Ⅱ、 上田城の概要  Ⅲ、歴代上田城主  Ⅳ、上田城余話

 となっています。こう分けられた場合「余話」という部分がだいたい面白いものです。

その面白そうな部分から、

真田昌幸の命名になる「上田・上田城」

今の上田市街(大字上田・常入・常磐城)一帯は、上田城が築かれる以前の中世には、常田庄(ときだのしょう)と呼ばれる地域であった。(略)つまり、この城は通例のように、その地名をとって上田城と称されたわけではなく、「上田城」「上田」という地名自体が、真田昌幸の命名になったものと考えられるのである。

いずれにしても、常田の地は真田氏の家臣化した常田氏の代々の本拠地であった。昌幸はこの地に、小県郡支配の中心とすべく、自己の居城を築き上げたわけであるが、その城名としては、常田氏の旧領としてのイメージの強い常田は避けようと考えたのであろうことは、想像に難くない。

なお、常田を改め上田としたわけだが、城主は真田氏であり、その北上州における本拠地も沼田であった。いずれも「田」がつくが、これは全く偶然とも考えにくい。新しい居城の命名にあたっても、やはり田の字にこだわったものではなかろうか、ともかんがえられるのである。

ところで、松本は古くは「深志」と呼ばれていたことは、よく知られている。それが松本という名でよばれるようになったのは、天正10年(1582)に小笠原貞慶がここに入部して、深志城を改めて松本城と命名したことに始まったとされている。これは、真田昌幸による「上田」築城と、ほぼ同時期のことだったのである。

ちなみに、中世の上田庄は別にして、「上田」地名が見える最古の史料は、文禄4年(1595)正月の豊臣秀吉朱印状(『淺野家文書』)である。この文書は、秀吉が草津温泉に入湯しようとしたおり、配下の諸将に路次の諸城の城番を命じた文書であるが、そのなかに「上田  さなた安房守(昌幸)居城」も見える。これが戦記書などを除く根本史料における、今に続く「上田」地名の初出ということになる。


「郷土の歴史 上田城」

2015-12-08 22:34:37 | 信州、なかでも上田。

この本は昨年上田城を訪ねた時買っておいたもので、パラパラめくったあと積ん読にしてあったのですが、ここ数日幸村や上田藩に関する物を手にしていたので、文字通り積まれていた本の下から持ち出しました。

他の物と違い横書きの左開きです。上田市立博物館発行の「郷土誌シリーズ」の第19になり昭和63年3月31日第1刷、これは平成22年3月31日の第6刷です。いかにも「お役所」の刊行物らしく「年度刊」と記されています、この本は昭和62年度刊です。定価が記されていません。ISBM番号も記されていませんから本屋に出回るものではありません。上田城に行かなければ手に入らないというわけでしょうか。

今年から来年にかけて上田城へは多くの人が訪れるでしょう、上田城を知る手ごろなテキストとして普及してもらいたいものです。内容については明日すこし触れたいと思います。


首実検。

2015-12-07 21:16:24 | 信州、なかでも上田。

小林計一郎著『真田幸村』によると、大坂夏の陣で戦いが終り真田幸村の首は、戦場で家康の実検に供されたとのことです。その時三人の武将の首が家康の元に差し出されました。

三つの首とは真田幸村、御宿監物、大野道犬(治胤)です。幸村の首のひたいに古い疵があったので、幸村の叔父に当たる真田信尹(のぶただ)を呼んで、「幸村に間違いないか」と尋ねた。信尹は「幸村の額に疵があったかどうか、はっきり覚えておりません」と答えた。「去年、お前を幸村の許に遣わしたのに、面会して来たというのはうそか」、「夜行きました上に、幸村が警戒して遠くに座していましたので、よく見えませんでした。」信尹はけっきょく幸村の首を確認できなかったのです。

御宿監物は若いころ家康に仕えていたので家康はその顔を知っていて、「御宿めも歳をとったものだな」といい、最期のようすを尋ねた。討ち取った野元右近は「なぜか手向いしませんでした」と答えると、家康は野元をほめて帰らせた。あとで「御宿の若い時なら、野元などに首をとられることはなかっただろうに」といった。

さて、不思議なのは大野道犬の首。道犬は落城後十三日目の二十日に京都で捕らえられている。そうすると、八日に家康の実検に供された首は何だろう。家康側近の記録『駿府記』に、「戦場に於いて首実検、真田左衛門佐首・御宿監物首・大野道犬首、越前少将より持ち来る」とあるから、松平忠直の許から大野道犬の首だといって届けられたことは間違いない。ところが、当人は生存しているのだから、この首はニセ首に違いない。御宿の首は家康が知ってる者だったから問題ないが、真田の首もあやしいということになる。

また秀頼の死体も確認されたわけではないから、秀頼が幸村らを連れて逃げたという噂が早くからたったわけである。

以上、小林計一郎著より、太字はkaeru。

 


鬼のようなる真田……。

2015-12-06 22:47:24 | 信州、なかでも上田。

   花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退きものいたよ加護島ヘ 

 

手元にある『真田幸村』(小林計一郎著  新人物往来社 昭和54年発行)にこんなことが書かれています。

《 幸村が秀頼に随行して薩摩へ落ちのびたという噂は早くからあったらしく、「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退きものいたよ加護島ヘ」と京童部(きょうわらべ)に歌われたという。平戸商館リチャルド・コックスが、翌元和二年(1616)二月、英国東インド会社に送った手紙に「ある者は、彼(秀頼)が逃れて薩摩あるいは琉球にいると信じています。」と書いている。

《 さて、大阪落城後、鹿児島の南一里半ほどの谷山村(いまの谷山市)へ、どこからともなく浪人が来て住みついた。島津氏から居宅を造り与え、日常の費用も与えて、何不自由ないようにしておいた。この浪人、酒が好きで、いつも酔っぱらい、髪を乱し、あらぬことを口走って、あちこちふらついて歩いていたが、領主から特別に保護されているのだから、誰も危害を加えなかった。同じころ、薩摩の浄門ガ嶽の麓にも、風来の山伏が住みつき、また加治木浦(加治木町)にも浪人が来住して、この三人は時々打ちつれていることがあった。谷山にいたのが秀頼、山伏は真田幸村、加治木の浪人は木村重成で、秀頼の子孫は木下姓を称し、重成の子孫は木村姓を称しているという (『採要録』)。後藤又兵衛・薄田隼人なども薩摩に逃げたという。》

《 『真田三代記』には、幸村は薩摩へ逃げた翌年、長年の辛苦がたたって何度も血をはき、秀頼らの手厚い看護のなかで死んだという劇的な話になっている。》

 

話として大変面白いです。源義経が生きのびて大陸に渡りギンギスカンになったという話に類することでしょう。鹿児島の地名も出てきてもっともらしいのが更に面白くしてます。「てんがらもんラジオ」で向井さんから話を聞けるといいのですが。


続・いざ!「真田丸」へ

2015-12-05 20:32:57 | 信州、なかでも上田。

上田城築城から明治維新まで288年間のうちわずか40年間の城主真田氏が上田を代表しているのは何故か、その理由を三つ上げていると本を紹介しながら書きました。その理由とは、と述べるまえに本と執筆者を紹介します。

あらためて書名は「第ニ期  物語藩史 第三巻」でここには新発田藩、長岡藩、上田藩、小諸藩、諏訪藩、飯田藩、郡上藩がおさめられています。出版社は「人物往来社」で上田藩の執筆者は横山十四男氏、昭和41年6月の発行です。

横山十四男氏の著書を、以前紹介したことがありました。

ここです👉 2014年7月12日「続  平林堂という本屋」

その本・『上田藩農民騒動史(増補新版)』(1981年11月発行)によると「1925年上田市に生まれ、旧制上田中学校、東京文理科大学日本史学科卒業し中学校高校教諭を経て大学助教授」とあります。

それでは「その理由の第一には」からはじめます。

《 真田氏が上田・小県(ちいさがた)の地元の土豪から成長した大名で、上田築城とその領域支配の基礎がためをした。

《 第二には、戦国末期、武田氏滅亡後の混乱期に真田氏が上田・沼田(群馬県)地方に独立小王国を形成して、隣接する上杉・北条・徳川などの大勢力に伍して、一時万丈の気を吐いたこt、それに加えて関ヶ原合戦のさい、昌幸・幸村父子は、東軍の勢力下に塗りつぶされた甲信越地方にあって、孤塁上田城に拠って西軍にくみし、徳川秀忠の中山道軍に敢然としてたち向かったこと。その時しかじかの軍功をたてた某(なにがし)が我が家の祖先である、と称する旧家が今なお当時の感状を保存して上田・小県地方の各地に散在している。

《 第三には、関ヶ原役後、追放され牢人となった幸村が、大阪の陣には、入城して豊臣方の有力武将となり、徳川勢をさんざんに悩まし、いくどか家康の心胆を寒からしめたうえ、壮烈な戦士を遂げていること。

さて、この第三のところが今回の「真田丸」に当たるところです。大河ドラマではどういう話になるかわかりませんが、伝説によれば幸村は生きのびて秀頼をまもり薩摩へ逃れた、ということです。なお、秀頼ファンの大阪岸和田ではだんじりに秀頼と幸村を彫り込んだものがありました。

信州・上田ー大阪ー(広島を通って)ー薩摩へ、という物語になるかも。