いたずらGoogleの悪戯ぶりをご覧ください。
まず、右側の枯れ木から枯葉が一枚落ちたら、骸骨の足の下の
カボチャをクリック。 4枚目で左端のカボチャへカーソルを……
各ドアをたたく! 骸骨を踊らせ、鴉を鳴かせてみよう。
そして、ゴミ箱から黒猫を跳び出させ、6段跳びで オ・ワ・リ。
今夜は夢でカボチャを被って誰かにイタズラを!
いたずらGoogleの悪戯ぶりをご覧ください。
まず、右側の枯れ木から枯葉が一枚落ちたら、骸骨の足の下の
カボチャをクリック。 4枚目で左端のカボチャへカーソルを……
各ドアをたたく! 骸骨を踊らせ、鴉を鳴かせてみよう。
そして、ゴミ箱から黒猫を跳び出させ、6段跳びで オ・ワ・リ。
今夜は夢でカボチャを被って誰かにイタズラを!
昨夜に続き俳句系です。寒の字がありませんしこの季語には季感がない、
というような説明もありますが、晩秋の冷然とした雰囲気には気候の寒さも
含まれています、寒さいろいろに加えて例句も二句。
冷まじ
山畑に月すさまじくなりにけり 原石鼎
流木や白鳥の白冷まじく 殿村菟絲子
岩波『古語辞典』によれば、≪スは接頭語でスナオ(直)のスに同じく、サマ
はサメ(冷)・サム(寒)と同根か。期待や熱意が冷えてしまう感じがする意。ま
た、そのような事態から受けるしらけた気分をいうのが原義。≫とあります。
そして、枕草子の二十五段より「すさまじきもの。……ちご亡くなりたる産屋(う
ぶや)、~婿取りして四五年まで産屋のさわぎせぬ所」などを例に「(期待の気
持が冷えつくような事態jに直面して)しらけた感じがする。」との説明です。
こう書き写しますと、民主党政権を生みだした国民的期待のその後を現代の
清少納言の筆なら、まさに冷まじきものとして描いたという思いがします。また、
政権を投げ出した者が政権奪還のトップに就く、あるいは職員を思想調査で
追い込み人心を凄まじい心情の景に向かわせる者が国政に影響を及ぼそう
としているこの国の政治的風景は、「冷まじく凄まじい」と記すべき景だと言った
かもしれません。
そして、清少納言から夏目漱石に、「枕草子」から『草枕』へ移り、冷まじき世
から越すことができなければ、趣味の世界などにこころ遊ばせて暮らすのも良
しとする、と漱石が書いたかといえば、否というべきです。
『草枕』の冒頭で「人の世を作ったものは~向う三軒両隣りにちらちらするた
だの人である」と、その「ただの人」が「束の間でも住みよくせねばならぬ。」と
詩人画家等の「使命」を論じています。漱石がロンドン時代の下町での生活と
英国社会に対する批判的見解に立って「カールマルクスの所論~今日の世界
に此説の出づるは当然の事と~」とも述べています。
ここには、秋から冬への冷まじき景と政治社会の景の凄まじさを、凝視しつ
つ新たな景に臨むべき者が「本物の思考と豊かな想像性=創造性」を獲得す
る上での先人の残した蓄えがあります。
仕事先の施設内の自販機、三段のうち下の段が赤いラベルになり 「あた
たかい」の文字が、あと二段は青で「つめたい」のまま。 ひと仕事したあとで
もあり、まだ「あたたかい」を飲む気分にはなれませんが、昼さ中でもあたた
かい飲み物が欲しくなるのも近いでしょう。
「三寒四温」は、季語としては冬ですが春への期待があっての言葉です。
もともと中国北部や朝鮮半島の言葉だそうで、シベリア高気圧がほぼ七日
の周期で強弱があるからだと、wikiからの仕込み知識です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AF%92%E5%
秋から冬へ移ることへは「期待」という気持ちはないでしょう。 こころ待ちして
冬を迎えるのはスキースケートなどの競技者やその関係者で、一般的には
「冬来たりなば春遠からじ」との詩人の言葉に引かれます。
しかし、松陰の人生四季観によれば冬は秋の収穫物を蔵へ納める時季。
いうならば外気にたいしては緊張感、内には充実感を日々のことにできる時季
です。 そのような心構えで冬を迎えるならば、春の喜びもまた大きいものです。
kaeruの冬眠をそのようにしたいと思います。
落語の三題噺とは、寄席でその場のお客さんから適当に題目・言葉を出
してもらい、それを折り込んで即興で演じることなのだそうです。 俳句では
季語がありますがそのほかに詠み込まなければならないことがあるわけで
はないでしょう。
ところで、ある俳人が夜長という 「季題」 と 「偽物」 という 「お題」 を受け
て詠むことになったらなかなか難しいことになる、と。
木下夕爾の
にせものときまりし壺の夜長かな
という句はそんな風にして詠まれた句と思っていもいいのかな、と。
壺はもともと偽物だったのだが、本物と思い込み手元に置いて人にも見せ
てきた、あらためて偽物と知った壺を前にし秋の夜長の感はひとしおである、
という句意、苦笑いをしつつ見つめている。
言葉は時にして偽物を本物化する道具に使われる、 「神話」 などと称され
る、 「原発安全神話」 もそのひとつ。 ただ原子炉という 「壺」 は苦笑いでは
すまされない。 この秋は 「本物の思考」 が求められる。
知人のAさんが97歳になられ、以前からなにかプレゼントをと思っていた
ものですから、本屋の平台に 『好奇心ガール、いま97歳』 を見つけたとき、
表紙の写真家・笹本恒子さんの笑顔が目に飛び込んできたかと思いました。
これにしなさい、と言わんばかりにです。
Aさんは誕生日を迎える前に一人息子さんを亡くし、その後一緒に暮らし
ていたお孫さんも亡くなるなど身内に不幸が重なっていました。 そのなかを
ご自分の責任をはたすべきことには一切の尽力を惜しみませんでした。
私にとって、生涯で「先生」と呼べる人は中学校時代の恩師とこの人しかい
ないと思っているのです。 このエネルギーはどこからくるのだろう、 そしてこ
のエネルギーを維持してもらうのにはなにが必要なのだろう、と思っている時
にであった本です。
本の最後に 「最後までお読みいただき、ありがとうございました。 平成23
(2011)年9月 東京にて 笹本恒子」 とあります。 去年の今ごろ書かれて
いたのです。 笹本さんよりひとつ歳下の先生に 「現役写真家が語るしあわせ
な長生きのヒント」を贈りましょう。
二冊の本を並行的に読む。
並行的にだから、一緒にではない、二時間 「つぶやき」 を読んだら
「ひとたば」 に代える。 それも数ページで閉じて、「つぶやき」の続
きに目を移す。
二冊とも俳句を中心にした内容だから、蕎麦とカレーライスを交互
に食べるのとは違う。 ざるとたぬきを並べて食べるくらいの感じ。
こうして読んでいると、二人の筆達者の奏でるハーモニーが脳内で
渾然一体となって、論理的な筋はまるでつかめないが、越し方の俳
句的世界がわが身のなかに醸し出される。
要するになにがなんだか分からないが分かったような気分になる。
そんな気分でいたところに 「お山の杉の子」 の歌詞が目に入った。
『ひとたばの手紙から』 で宇多さんが紹介している。 宇多さんは
kaeruより二つ年上になる。 今でもkaeruも一番の歌詞を歌える。
今日午後、いとこ会がある。この歌を知っている最後の世代、親の
世代のことを語り合うことで、八月的世界をお互いの脳内に醸しだ
そう。