kaeruのつぶやき

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郷土とは……。

2015-12-02 22:37:13 | つづきの海を はろば...

このブログで紹介しました逗子の郷土史家・黒田康子さんです。

先月の7日付「朝日新聞 神奈川版」で、今日逗子での集まりで見せてもらいコピーしてきたものです。「郷土とは」という部分だけ記しておきます。

《 郷土とは自分の生活の場、死に場所である。郷土史とは名所旧跡を宣伝して町おこしに使われる手段だけではなく、我々庶民が現在までこの国をどう生きてきたかを知り、永久平和に近づく手段を模索する学問である》

関連して葉山郷土史研究会で古文書の手ほどきを受けた柳川さんの言葉です。

《 国や政治の歴史ではない。武士や名主とも違う、農民、庶民の姿を追うことの大切さを教えられた。》


続 残すこと遺すこと。

2015-10-07 23:50:40 | つづきの海を はろば...

昨日タイトルを「残すこと遺すこと」にしたのは、『この海のつづきの海を』のなかのある文章に納得がいったからです。

それは黒田義さんの友人が本に寄せた次の言葉です。

「黒田義のこと     富士正晴」(昭和五十五年の)  六月九日

「昨日、康子夫人が持参して下さった黒田の、日記、手紙・歌のゲラを読み、若い黒田の仕事振りの充実していること、生活態度・研究態度の質実・純粋・猛烈なことに、大変感心して、惜しい人間を殺してしまったなと今更ながらに思った。

(略)

 われわれはほぼ同年生まれ……、満年齢でいえば二月位しかちがっていない。

(略)

 奇妙なことだが、建築などのことは判らぬわたしが、昭和十年代の初期に黒田を、末期に京大講師の鈴木義孝の二人の建築家を友人に持ったこと、この二人は戦死してしまったことなど、どういうことかと思う。

 黒田は康子さんの努力でこのような本が出て、まだしも幸せと思うが、鈴木義孝の方はわたしはその遺族の所在も知らず、彼の遺稿がどうなったかも知らない。

 黒田は偉い男であったが、幸せな男でもあったと思う外はない。十分に燃焼して生きたのだから、そして、こうした本が出たのだから。」

 

 いかにも親友の弁であり小説家で詩人らしい言葉です。


残すこと遺すこと。

2015-10-06 23:51:51 | つづきの海を はろば...

丁度一年ほど前、 『この海の続きの海を』 をアップし「この海の続きの海を」というカテゴリーを新しく追加しました。そこに頂いた本の写真を載せましたが本の帯無しでした、本の中に挟んでありましたのでそれをアップします。

  

      

実はここまで写真を3枚アップするのに3時間かかりました。それでもパソコンの画面では1枚目が横向きなので、スマホでは真ん中が横向き。やはりアイパッドが作業しやすく3枚とも正常。見ていただいてる方のなかに写真の位置がおかしなことになっているかもしれません、ご勘弁下さい。

さて、本題です。

この帯の各氏の推薦文に本に対する評価が集約されているかと思います。その一文に「黒田君は~。何よりも建築史研究に対する本質的な心構えを持って、」とありました。その意味を考えるうえで私は、本のなかのこの部分が参考になるのではないかと思いました。

それは、本の119頁に書かれていることで、黒田義さんの日記にある「日本建築史の方法論について」というメモの一部です。日記の日付は昭和10年12月20日。

 「現代の美術史学は、マルクス主義の歴史観から非常に大切な教訓を与えられている。    1 階級性の理解に関する考察が絶対に必要なこと(ここに住宅・民家史等の研究が示唆される)。2 経済生活との関連をより綿密に扱わなければならないこと(まだ未開拓、単に藤島博士の〈建築工匠技術に関する一研究〉〈工具の研究〉等あるのみ)。

注: アンダーライン部分は本では点が打たれています。

建築史などにはまったくの門外漢に過ぎないのですから、ここに書かれていることの意義を語ることはできません。しかし、昭和10年=1935年という時代にこの指摘を置いてみて考えることの意義は大きいと思うのです。

下の写真は日本で最初の『資本論』の完訳本、高畠素之氏訳のもので昭和7年刊です。この時代の考察のうえに立って検討すべきことと思います。とはいえ、自分の専門分野に科学的社会主義(マルクス主義)の理論の基本的視点の必要性を論じていることに感銘を受けています。(『資本論』は全5冊ですが、同じ装丁のME全集が入っています。)

   

この点だけでも妻・黒田康子さんから意見を聞いておくべきでした。

『資本論』の持ち主はこのブログでもつぶやきました、亡くなったWさんの蔵書にあったものです。このことについても近いうちに触れたいと思います。


告別は次への一歩。

2015-10-05 22:27:50 | つづきの海を はろば...

人の評価は棺を覆ってから定まる、とすれば今日から黒田康子(しずこ)さんとはどういう人であったかが現れてくるわけです、だとすれば誰によって表現されるのか。

同じようなことわざで、「昼は夜になってから、一生は棺を蓋ってから称えよ」と言われます。昼間執り行われました告別式について今つぶやくのはこのことわざにあっているというわけで、今日から「評価」が始まることも。

そこでまず式場に掲示されていた写真を昨日に続いて、やはり結婚式での写真を掲げるべきでしょう。昭和16年(1941)、夫義さんとの晴れ姿。

 

ひ孫の接吻?それとも内緒話、右側の青年が孫の史郎さんで喪主を務めました。父親であり康子さんの一人息子の忠夫さんはすでに亡くなっています。

 

7月の満100歳のお祝いです、ババちゃん100、とあります。

 

さて次は式場での写真ではありません。

逗子の地域史をみていく上で欠かせない基本史料になる「逗子市桜山石渡滋家文書」の第1集で、第3集まで刊行が予定されています。ここにも黒田さんが後の者に託した「仕事」があります。先に故人の評価は誰によってなされるか、と自問しましたがそれは故人が提起した課題を自らのものとし、追究する者の手によってなされるものだと思うのです。

もちろん、この史料集の刊行に限りません。郷土史全般、葉山地域史の研究の継承、「逗子葉山の九条の会」活動などなど、また戦争法廃止の国民連合政府実現への取り組みなどなどに黒田康子さんの姿は夫義さんと共にあらわれてくるに違いありません。

私もそのなかのひとりとして加わりたいと思います。


「黒田康子さん通夜」

2015-10-04 22:05:37 | つづきの海を はろば...

100歳を越えた人の葬式に参列したのは母方の伯父叔父の時と今回と三度になりますが、甥として参列した時より知人という立場で参列した今夜は感慨の異なるものを感じました。

その事は明日の告別式のあと触れたいと思います、とりあえずお通夜の写真を二枚。

 下の「知ろうとなさい!  考えぬきなさい!」は、

    7月12日《1年前の「女性自身」に》  で紹介した記事の写真です。

    黒田さんの私たちに対する遺言です。


黒田さん、亡くなりました。

2015-10-03 21:53:51 | つづきの海を はろば...

 百歳への「意志」  で紹介しました黒田さんが亡くなりました、7月に満百歳を迎えていましたから享年101歳ということになります。

7月5日の講演で話されたのが多くの人の前で話す最後であり、私も会場への送迎の車椅子を押しながらの会話と昼飯を近くの蕎麦屋で過ごした時間が最後でした。その後お会いせずに来てしまったのですが、元気なままの姿で残っていることが良かったのかと思います。

通夜と告別式の連絡をくれた人は、私を黒田さんの教え子だと言われました。私と付き合いの短いその人から見ればそう思われたかも知れません、光栄だと思います。長い教員生活でしたから多くの教え子がおられます、当然その人たちは先生と呼びます。私も周りの人と同じように先生と呼んできました。人生の先輩として郷土史の研究者として先生と呼ぶに相応しいことは間違いありません。

同時に20年を越える黒田さんとの付き合いで印象に残るのはその知的探究心でした。あわせて短歌集を著しているように感性の豊かで一面鋭い人でした。百歳までパソコンに向かっていたのも知的探究心好奇心などにもとづく、知的対象と人との交流を通じて常に学び取ろうとする生徒の立場でもあり、熱心な先生は熱心な生徒でもありました。

また、夫を戦地に奪われひとり子を育てつつ戦後の教職員活動に身をおき、地域の文化活動のリーダーの役割を果たされてきました。「逗子葉山九条の会」の中心的役割も発揮、九十歳過ぎまで会の駅頭宣伝に立っていました。

最後に写真を二枚、

   

これは7月5日の講演会で参加者に配られたものですが、もともと黒田さんが従来の観光案内パンフ等の各施設などの説明にもっと歴史的背景を加えたいとの発案で作られたものです。その右の頁に「神武寺」の項がありますがこれは私が書く分担でした。資料もいただき書いてはみたのですが当日うかつにも打ち合わせ会場を間違えて渡せなかったのです。その穴埋めを急遽やっていただいたのでした。

そのことをあとで知ったのです、お詫びもお礼も言わずのお別れになってしまいました。黒田先生、ありがとう御座いました。


一年前の「女性自身」に。

2015-07-12 18:46:05 | つづきの海を はろば...

    昨日女性週刊誌「女性自身」のことを書いたのですか、今日99歳(28日で満100歳)の黒田さんの家に伺うことになり、その時話にでたのがこの写真の紙面です。 

    写真にありますように「女性自身」去年の8月12日号です。右肩に「資料C」とありますが『黒田康子の書斎より   最後の葉書』の最新版に収録されているものです。

    黒田さんと料理研究家  吉沢久子さん・96歳へのインタビューで構成されている誌面です。黒田さんは「街頭に立ち9条の尊さを訴え続けた郷土史家」と紹介されています。吉沢さんの紹介は「封印してきた反戦の思いを初告白した料理研究家」です。

    黒田さんの関係の部分を下に、

    上の写真の右頁上段の写真説明「7年前の終戦記念日、自らも発起人の1人になった平和遺族会全国連絡会で登壇し、護憲を訴える黒田さん」。その下段の黒田さんの写真には「3年前に先立った長男が撮影し、遺してくれた写真は、戦死した夫が戦地で詠んだ歌をイメージしたもの」とあります。

    左に頁上段「'41、黒田さんは結婚。“私の人生のなかでいちばん楽しかったのは、彼と暮らした3年間でした”(黒田さん)」。下段には「アラ100でもパソコンはできる。“インターネットでものを調べたり、原稿を書いたりしています”(黒田さん)」。

 

    下の写真、右・吉沢さん「 当時と現在で違うのは、報道で情報を得て、判断できること日本人みんなが“考える力”を持たなければ」。

      左・黒田さん「終戦後、夫の帰りを待ちながら、やがて期待が不安に、そして絶望へ変わっていったつらい日々を、私は忘れられません」

 


百歳への「意志」。

2015-07-05 21:37:28 | つづきの海を はろば...

     まずこれを見て下さい、今日の講演会の資料ですが講師お二人の年齢です。 小野さん92歳、黒田さん99歳です。

 

   講演会は「三浦胤義遺孤の碑」の近くの逗子市市民交流センター、

  前回の講演会続 講師は百歳。でも満員で立って聴く人がかなりありましたが、今回は雨でもあり定席で間に合うと思いきや、会場内はこうでした。

     立って話されているのは92歳の小野妙恭尼、司会の座られてお話を、の言葉がありましたが、30分以上立ってのお話でした。

     こちらを向いておられる三人の真中が黒田さん、車椅子のままの講演でしたが去年より声も大きく張りもありました。

    黒田さんの会場への送迎の車椅子を押しながら話をしてみて、あと数日で満百歳を迎える人の気力というものを感じました。超高齢者の気力というと107歳108歳のきんさん、ぎんさんのぎんさんが長寿の秘訣を問われて「とにかく気力ですね」とコメントしたそうです。昨日紹介の本で稲垣さんが書いています。

   実はこの講演会について広報活動をはじめた頃、黒田さんが入院され一ヶ月位自宅に戻れませんでした。準備する側は少し心配しつつでしたが、あらためて元気を頂戴したわけです。会場をいっぱいにするのもそういう元気さに触れて自分も元気になる、その場として雨にもかかわらずこられるのでしょう。

    そして黒田さんも小野さんも多くの人の視線のなかに触れてご自分も元気になられるのでしょう。車椅子に乗りながら「たくさん来たね」と喜び、(車椅子で)「楽ちん、楽ちん」と軽口もでました。

   『100歳までの上手な生きかた』より、

「将来、あなたもあなたのつれあいも、寝たきりの生活にならずに100歳まで健康で長生きしようという強い意志こそが大切なのです。」 


脳は言葉でつくられている。

2014-12-20 18:16:00 | つづきの海を はろば...

 昨日のブログで 「人の脳は言葉でつくられている」 などと聞いた風なことを

つぶやきましたが、誰から聞いたかというとこのご婦人からです。

 このブログでも 「講師は百歳、『この海のつづきの海を』。 などで紹介し

てきています、先日は 「白寿を祝う会」 でお会いしたばかりでした。 そのあと

伺った時こんなことを話したのです。

kaeu 「先生の頭の中はどうなっているんですかね」

先生 「頭の中は脳ですよ」 kaeu 「脳のなかは?」

先生 「言葉でしょうね、脳は言葉でつくられているんです」

 昨日写真とともに先生の言葉として載せようと思いましたが、今日写真を

ブログに出しますよ、と言ったら 「良いよ」 と言われましたので。

 「白寿を祝う会」 でも紹介されましたが、文書作成から資料検索もパソコ

ンに向き合う毎日です。 このような日常が脳の活性化にとって有効なこと

は間違いないでしょう。後期高齢者であるkaeuにとって大きな励ましにな

るのです。


講師は百歳、『この海のつづきの海を』。

2014-10-14 20:31:43 | つづきの海を はろば...

 『この海のつづきの海を』というのは一冊の本です。著者は黒田義(のりよし)氏、

一昨日の百歳の講師・黒田康子(しづこ)さんの亡夫です。

  この本を黒田さんから私達夫婦へと頂いたのは、かなり前でどういうところ

で頂いたのかすっかり忘れているのですが、その時の話で、夫の戦死した

場所=フイリッピンにどうしても足が向かない、と言われたことを憶えています。

 この本については別に書かねばならないことと思っています。書名になった

義さんの遺詠の「昭和十九年 戦地より」の前書きのある

 この海の つづきの海を はろばろに越えてきにしか 夕日に対ふ    (〇〇上陸)

 に関連してこのブログでも書いていました。

 再度目を通していただければと思います。

コーヒー色の世界。 2013-10-17   コーヒー色の世界 続き。 2013-10-18